37話 十三年前
異形と化した小野と対峙する片瀬は、ずっと、超能力を隠してきた。
自分の内側に棲む、この力を。そして、その力で何をしてしまったのかを。
あの日から、一日も忘れたことはない。
十二歳の秋。
両親から止まない虐待を受けて瀕死だった片瀬は、無意識に念動能力を暴走させた。
殺意はなかった。
事故だったとも言い換えられる。
それでも、結果は変わらない。
片瀬は、自分の力で両親を殺した。
現場には少年以外の痕跡はなく、司法解剖では工業用油圧機器による損傷と推定された。
虐待で衰弱した十二歳の少年に犯行は不可能と判断され、刑事責任を問われることはなかった。
その日から秘密だけが残った。
念動力は、人を容易に殺せてしまう。
「お前の中の怪物は、どんな形をしている?」
自分の中の何かが、そう問いかける。
彼の行き過ぎたお人好しは、自身に潜む怪物を隠すため。
秘密というゴツゴツとした石を、彼は人知れず抱えてきた。
呼吸するたびに肋骨を軋ませ、苦しめ、作り笑いという薄皮を張り続け、日常の裏にずっと隠し続けてきた。
――片瀬義人の秘密。
それは、超能力ではない。
その裏に隠された、殺人の罪そのものにあった。
◇
両親の死。その事件から数週間が過ぎた。
家はなくなった。警察や児童相談所の大人たちが慌ただしく動き、親族との話し合いが終わり、片瀬は祖父に引き取られた。
すべて大人たちだけで決まっていく。片瀬は、一度も自分の意思を聞かれなかった。
それで良かった。もう何も考えたくなかったから。
朝になる。
学校へ行く。
授業を受ける。
帰宅する。
冷蔵庫にある作り置きを温めて食べる。
風呂に入り、宿題をして、眠る。
翌朝になれば、また同じ一日が始まる。ただ、それだけ。
学校では誰とも話さない。話しかけられても、必要最低限しか返事をしない。笑うこともなければ、怒ることもない。
教師は「落ち着いた子ですね」と言った。違う。感情がなくなっていただけだった。
祖父の家は静かだった。悪い人ではない。必要なものは与えてくれた。
食事もある。
布団もある。
学校にも通わせてくれる。
だが、それ以上でも、以下でもなかった。
夕方、帰宅すると居間には誰もいない。
机の上に置かれた紙には、無機質な文字が並ぶ。
『夕飯は冷蔵庫。温めて食べろ』
短い文章。それだけで。静かな家の中、電子レンジの回る音だけがする。温め終えた弁当を一人で食べる。味は覚えていない。腹が満たされれば、それで良かった。
テレビは点けない。点けても、何も頭に入ってこないから。
宿題を終える。
教科書を閉じる。
布団へ入る。
目を閉じる。
眠る。
夢だけは、毎晩同じだった。
血だまり。
潰れた両親。
震える赤い手。
そして誰にも言えない、自身の正体は怪物だという秘密。
夜中に目を覚ましても、叫ぶことはなかった。
泣くこともない。泣き方を忘れてしまったから。
翌朝になれば、制服に袖を通す。
何も変わらない。何も変わってはいけない。
そう思っていた。
いや、何かが変わることの方が怖かった。
秘密が暴かれるくらいなら、このまま何も変わらない方がいい。誰とも関わらず、誰にも知られず、静かに生きていく。それが、自分に与えられた罰。
そんな毎日が、どれほど続いただろうか。
季節が、冬へと近づいていた。
◇
片瀬の両親の死。
この事件を担当していた刑事がいた。
藍川良春。まだ三十代半ばの刑事だった。
良春は署内でファイルを閉じた。
机の上には、事件資料が広げられている。
司法解剖報告書。
死因欄には、『工業用油圧機器による圧壊』とだけ記されていた。
良春は現場写真を見つめる。
人体とは思えない損傷。骨格は複数箇所で捻じ曲げられ、通常では考えられない方向へ折れ曲がっていた。だが、現場には、それほどの圧力を生み出せる機械など存在しなかった。
「……わからねぇな」
思わず独り言が漏れる。
その時、同僚の剣崎がコーヒーを片手に近付いてきた。
「まだ見てんのか」
「気になるんだよ」
「もう終わった事件だ」
良春は写真から目を離さない。
「いんや、これは終わっちゃいない」
剣崎は肩を竦める。
「司法解剖がそう言ってる。証拠はない」
「確かに……虐待で衰弱していた十二歳の子どもに、こんなことは出来ないな」
良春は否定しない。だが、腑に落ちない。事件そのものよりも。一人の少年のことが、頭から離れなかった。
取り調べの間で、義人は一度も泣かなかった。怒りもしなかった。何も訴えなかった。まるで感情そのものが、どこかへ置き去りになってしまったようだった。
(あの子は……)
何かを抱えている。刑事としての勘だけが、胸に引っ掛かっていた。しかし、それが何なのかは分からない。分からない以上、憶測で傷付けるわけにはいかなかった。
「良春?」
「ああ」
剣崎の声で我に返った良春は、事件資料を閉じた。
「少し外へ行ってくる」
「聞き込みか?」
「いんや」
少しだけ笑う。
「あの子の様子、見てくる」
◇
その日の夕方。
学校帰りの子どもたちが通る横断歩道の前に、男がいた。旗を持って、子どもたちを安全に渡らせている。
「気をつけて帰れよ」
その列の最後尾に、俯いたまま歩く片瀬がいた。
男は片手を上げて挨拶をする。
「おう、久しぶりだな」
片瀬は返事をしない。
その男は、事件の日から何度も顔を合わせた人だった。取り調べにも立ち会い、児童相談所へ向かう車にも同乗していた。なのに、他の刑事のように事件のことを根掘り葉掘り聞いてくることはなかった。
帰り際に「寒いから風邪ひくな」と声を掛けてきたり、「ちゃんと飯は食ってるか」と、事件とは何の関係もないことばかり話していた。
(……変な刑事)
それが率直な印象。だから無視して通り過ぎようとした。だが。
「よお」
その男――藍川良春は近づいてくる。
「学食はうまかったか?」
片瀬は返事をしない。
「友達は出来たか?」
(……なんなんだ、この人)
事件のことは一切聞かない。代わりに、どうでもいいことばかり聞いてくる。理解できなかった。
「今日は風が冷てぇな」
片瀬は顔も上げず、そのまま横断歩道を渡る。
「気を付けて帰れよ」
良春は、それ以上は呼び止めなかった。
◇
その翌日。
空が裂けたように雨が降り始めた。冬の冷たい雨だった。制服はあっという間に張り付き、靴の中まで水が入り込む。それでも片瀬は走らない。濡れることなんて、どうでも良かった。
その時だった。後ろから車がゆっくり近付いてきた。窓が開く。
「風邪ひくぞ」
片瀬は歩き続ける。
「……乗れ。送ってやる」
ほんの気まぐれだった。
助手席へ乗り込む。ドアが閉まる。
暖房の温風が身体を包んだ。その暖かさだけで、少しだけ身体が震えた。
良春は後部座席からタオルを放る。
「拭け」
片瀬は受け取らない。タオルは膝へ落ちた。
良春は運転を始める。それ以上、何も言わない。車内にはワイパーの音だけが響く。
しばらく走ったところで、車はコンビニで停まった。
「ちょっと待ってろ」
一人で店へ入っていく。
数分後。戻ってきた手には、小さな袋があった。
「ほら」
おにぎりと温かいお茶だった。
「腹減ってるだろ」
「……いりません」
初めて口を開いた。良春は驚いたように目を丸くする。
「しゃべれたのか」
片瀬は黙る。その瞬間。ぐぅ……腹が鳴った。
良春は笑いを堪え切れなかった。
「ぶっはははは!やっぱ腹減ってるじゃねぇか!」
片瀬は顔を逸らす。少し恥ずかしかった。
良春は袋を膝へ置く。
「食わなきゃ俺が食うぞ」
そう言って缶コーヒーを開けた。
片瀬はしばらく袋を見つめる。そして、おにぎりを手に取った。一口だけ食べる。温かかった。コンビニのおにぎりなのに、なぜか泣きそうになった。
良春は何も言わない。
親のことも。
事件のことも。
家のことも。
何一つ聞かなかった。ただ、隣で缶コーヒーを飲んでいた。その沈黙だけが、雨音より静かに流れていた。
◇
また別の日。
学校帰り。片瀬は制服を泥だらけにして歩いていた。
頬には薄い擦り傷。鞄の角も削れている。良春は一目見て気付いた。
「喧嘩か?」
「……」
「転んだか?」
「……」
「そうか」
それ以上聞かない。二人は近くの公園のベンチへ座った。
冬の風が冷たい。
良春は缶コーヒーを二本買ってきた。一本を片瀬へ渡す。温かい。片瀬は缶を握るだけだった。
風だけが木々を揺らしている。
やがて良春がぽつりと口を開いた。
「義人」
初めて名前を呼ばれた。
「本当に辛いときは、弱音を吐いてもいいんだ」
片瀬は顔を上げる。その言葉は、静かだった。慰めようとしているわけでもない。説教でもない。ただ、当たり前のことを話すような口調だった。
「我慢ばっかりしてるとな」
缶コーヒーを見つめながら笑う。
「心ってのは、意外と簡単に壊れる。だから誰かを頼っていい。弱音を吐くのは、弱いことじゃない。ちゃんと生きようとしてる証拠だから」
片瀬は何も答えない。でも胸の奥で、何かが小さく震えた。
弱音は、吐けない。
吐いたところで、誰も助けてくれないと思っていたから。
良春は立ち上がる。
「帰るか」
歩き始める。片瀬も少し遅れて後ろを歩いた。夕焼けが二人の影を長く伸ばしていた。その背中を見つめながら、片瀬は初めて思う。
(……この人みたいになれたら)
そのときの感情が何なのか、まだわからなかった。
◇
冬休みが近づいた頃。
片瀬は学校を出ると、自然とあの交差点へ向かっていた。
今日は何を話しかけられるのだろう。以前なら、誰かと話すことなど煩わしいだけだったのに、良春と立ち話するのが日課になっていた。
不思議と早足になっていた。その時、横断歩道の向こう側で自転車が倒れた。ランドセルを背負った小学生の男の子だ。転んだ拍子に買い物袋が破れ、みかんが坂道を転がっていく。
「あっ……」
少年は慌てて追いかけようとする。その姿を見た片瀬は走っていた。坂道を転がるみかんを一つ拾う。もう一つ拾う。雨水で濡れた道路を転がる最後の一つを、両手で押さえ込む。
「ありがとう!」
少年は満面の笑みを浮かべた。その笑顔に、片瀬は少し戸惑う。
「気を付けて帰れよー!」
遠くから良春が笑いながら手を振っている。少年も元気よく手を振り返し、走って行く。良春が隣まで歩いてきた。
「どうだ」
「……?」
「人を助けした気分は」
「別に、何も思わない。俺は何も得してないから」
良春は空を見上げる。
「得か……」
風が吹く。
肩を狭めてポケットに両手を突っ込んだ。
「人を助ける理由なんて、大したもんじゃない。困ってる奴がいた。だから助ける。それで十分だろ」
その言葉は、不思議と胸に残った。
そして良春は空を見上げたまま、嬉しそうに笑う。
「でもさっきのお前、俺よりも助けに行くの速かったぞ」
良春は顔を上げたまま、片瀬を見ていた。
照れ臭かった。
でも、なぜだか少し、誇らしい気持ちになれた。
◇
――あれから、何年経っただろう。
良春はもう、この世にいない。
借りを返すことも。「ありがとうございました」と伝えることも。
何一つできない。
それでも、誰かを助けるたび、誰かに手を差し伸べるたび。
あの日の温もりだけは、胸の奥で消えなかった。
(……俺は……良春さんみたいには、なれない)
それでも――。
片瀬は静かに目を開けた。
背後には仲間がいる。
眼前には、異形と化した小野がいる。
彼女の全身からは触手が蠢いている。
先ほどまで人間だった面影は、もう半分も残っていない。
今までの自分なら小手先で誤魔化して、超能力を隠す方法を探していた。
だが、もう逃げない。
「人を助ける理由なんて、大したことじゃない」
良春の言葉が胸に残っている。
怪物と呼ばれてもいい。忌み嫌われてもいい。
皆が逃げ切る、その時間だけ稼げればいい。
その覚悟をくれたのは、良春だった。
そして――。
(――藍川さん)
いつも最後に背中を押してくれたのは、君だった。




