エピローグ
暗く冷たい、コンクリートの箱の中。
五人は公園のバリアフリートイレにいた。
亜香里は鈴音の背中を撫で、天沢は星座模様のネクタイを握りしめ、桐村はドアに耳を押し当てている。
藍川はドアの隙間から漏れるわずかな光を、じっと見つめていた。
外では雨が壁を叩き、風が建物を揺らす。
時折、何かが外壁へ激突するたび、鈴音の肩がびくりと震えた。
「大丈夫。ここは頑丈だから」
亜香里はそう囁き、娘の背を撫で続ける。
時間は、ゆっくりと過ぎていく。
風が収まり、雨音が遠ざかっていくのを、息を潜めて待ち続けた。
◇
――明け方。雨は上がっていた。
天沢がドアを開けると、冷たい外気が流れ込む。
空気は澄んでいた。
雲の切れ間から幾筋もの細い光が地上へと降り注ぐ。
瓦礫の山と化した街並みは、無数の水滴をきらめかせていた。
そして、静かだった。
耳を澄ませば、遠くで瓦礫の崩れる音。風に揺れる看板のきしむ音。そして。
「お母さん、鳥の声がするよ……ほら、あそこ!」
鈴音が、にこやかに空を指さす。
確かに、ヒヨドリの鳴き声が聞こえてくる。
昨夜まで街を支配していたあの粘液の這う音は聞こえなかった。
そのとき、崩れた壁の陰から人影が現れる。
壊れたコンビニの裏からは若者たち。
地下駐車場の非常口からは高齢の夫婦。
彼らは皆、お互いの存在を確かめるように、言葉なく見つめ合った。
中年の男性が、誰にともなく言った。
「台風が来てから、あいつらの動きが鈍った。それで、俺たちは助かったんだ」
「スーパーの倉庫に隠れていた。食料もある」
声は途切れ途切れ。それでも誰かが話せば、誰かが応える。
その繰り返しの中で、彼らは少しずつ、自分たちがまだここにいることを確かめ合っていた。
そんな中で、藍川の目は自分たちが歩いてきた方角に向いていた。
あの場所に、置き去りにした片瀬がいる。
彼への信頼と疑心が、飼いならせない二匹の獣のように喰い合っていた。
「藍川さん……これから君はどうしたい?」
天沢の問いに、藍川は唇を噛みしめた。
八重歯が下唇に食い込む。痛みがあった。その痛みだけが、今は確かなものだった。
「わかりません。片瀬さんは、いつだって私たちを助けてくれた。でももし本当に、父を……」
苦悩が言葉を断ち切る。
そこへ亜香里がそっと歩み寄った。
「藍川さん、人の心は一つじゃないのよ。人を愛すれば、裏切られたときに傷つく。だからこそ、疑ってしまうし、確かめたいと思う。それでいいんじゃないかしら」
大切に想う人だからこそ、簡単に処理できず、良くも悪くも心の奥深くに根付く。亜香里は思う。すべてを捨て、何も感じまいとする選択だけは、してほしくないと。
それに同意するように、天沢もうなずく。
「そうだ。信じるか信じないかなんて、誰かが決めることじゃない。自分自身で向き合って、その目で確かめればいい」
鈴音も小さな手で、藍川のスカートの裾をそっと握る。
宇宙柄の靴は泥だらけで、片方の靴紐はほどけかけている。
それでも、少女はしっかりと立っていた。
「藍川さん、わたし、優しくて強い片瀬さんが好きだよ。それって、間違ってないよね?」
確証のない疑いから、すべてを信じないのは違う。
これまで見て感じてきた片瀬義人という人間そのものを否定するのは、自分がこれ以上傷つかないための防御本能に過ぎないのだ。
かくもそれに気づかされた藍川は、顔を上げた。
「確かめます。自分の目で。片瀬さんが、本当はどんな人だったのかを」
「それがいい。それでこそ、お前らしい」
前を向こうとする彼女に向かって、桐村がそう告げた。
◇
一行は、人々が身を寄せ合っていた商店街の中へ導かれた。
幾ばくか身の安全が保障された、簡易的な避難所。
配布された非常用のブランケットは、思ったより暖かかった。
亜香里は胸の中で眠る鈴音の規則正しい呼吸を感じながら、その背中を撫で続けた。
生きている。この温もりが、確かにここにある。
ここまで、剣崎に守られ、片瀬に守られ、桐村に守られ、天沢に支えられた。
鈴音がいたから、自分はいつも守られる側だった。
亜香里は、患者を置き去りにして逃げた。
同僚を残して逃げた。
人命を尊ぶ看護師としては失格だ。
それでも。腕の中には自分が守り抜いた命がある。
今なら少しだけわかる。守られてきたからこそ、今度は自分が誰かを守ればいいのだと。看護師としてふさわしいかどうかは、その先で決まればいい。
亜香里は鈴音の小さな手をぎゅっと握りしめ、そっとその額にキスをした。
その唇は、もう震えていない。
桐村は壁にもたれ、考え事をしていた。
自分の中に芽生えた初めての感情に戸惑いがあった。
それは、誰かのために動けたという、確かな手応え。
権藤に立ち向かった時。藍川たちを先に行かせた時。剣崎を助けようとした時。
あの瞬間瞬間に、何かが変わっていた。
中学時代からずっと抱えてきた呪いが、解けていく気がした。具体的な言葉には表せない。それでもいいと思えるほどの、満足感はあった。
過去の自分が消えたわけではない。
それでも今は、自分から誰かの隣へ歩いていける。そんな気がしていた。
そして天沢。
いつからだろう。研究が認められたいという欲求に縛られていたのは。
最初の頃は、ただ純粋に知りたいという好奇心だけで動いていた。
なのにいつの間にか、評価されることばかり気にするようになっていた。
膠喰体には弱点がある。光で眩み、音に反応し、風に弱い。完璧な捕食者ではないなら、人は戦える。これは、好奇心がもたらした発見だ。ただ、あの異形の正体を知りたくて、その行動を観察し、考え、導き出した結果。初志貫徹の想いでやり抜けばいい。
天沢はそっと呟く。
「風向きは、変わる」
その言葉には、気象現象以上の意味が込められていた。心の風向きが変わったという、確かな実感でもあった。
最後に藍川。
剣崎と片瀬。どちらも信じたい。けれどもし、片瀬が本当に父を殺したのなら……。
どちらにせよ。
知らないまま終わることだけは、嫌だった。
傷つくことになったとしても、自分で向き合い、答えを見つけたい。
それが今、藍川一九という一人の人間が選んだ、最初の一歩だった。
<エピソードⅠ ―終―>
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<エピソードⅡ ―予告―>
夜が明ける数時間前。
夕闇の中、雨はまだ降り続いていた。
路上に横たわる片瀬義人の傍らに、ひとりの男が立っている。
背の高い、細く鍛えられた体躯の男。片瀬と瓜二つの顔立ちだが、その目には義人とは異なる、冷徹な鋭さが宿っている。
彼はしゃがみ込み、泥と血にまみれた顔を、そっと見つめた。
まるで、自分の一部を確認するように。
「遅くなったな、兄貴」
低い声が雨音に消える。
彼は片瀬彰、双子の弟だった。
彼は兄の身体を軽々と抱き上げる。傷ついた腕、裂けたスーツ、血と泥にまみれた身体。瓜二つの双子の身体。すべてが自分の分身を抱き上げているような、奇妙な感覚があった。
「次は、俺の番だな」
彰は兄を抱えたまま、闇の中へと歩き出す。
濡れたアスファルトには、重なったひとつだけの影を映す。
振り返ることはない。瓦礫と化した街並みを、確かな足取りで進んでいく。
彼の視界には、未来が映っている。壊れた街、新たな脅威。
雨は降り続く。だが、歩みは止まらない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
エピソードⅡの準備を始めています。公開までしばらくお時間をいただきますが、この物語はまだ終わりません。
もしよろしければ、ブックマークで見守っていただけると嬉しいです。
また、必ず戻ってまいりますので、それまでどうかよろしくお願いします。




