35話 三日目の結束
大会議室で顔を突き合わせた一同は、今後の話を進めている。
「亜香里さん。小野さんと剣崎さんの状態を、改めて教えてもらえますか」
片瀬が切り出すと、全員の視線が亜香里に集まった。
彼女は看護師としての冷静さを保ちながら説明を始める。
「小野さんは精神的ショックによる解離性昏睡だと思われます。これは命に別状はありませんが、いつ目覚めるのかわからない以上は、点滴などで栄養補給が必要になってきます」
権藤が「ふんっ」と鼻を鳴らす。
「剣崎さんは敗血症の症状が進行しています。抗生物質がなければ二十四時間以内に多臓器不全に陥る危険性が高まりますので、早急な手立てが必要です」
その言葉に、一同の空気が重くなる。
「医者がいなくても、設備が整った病院に行けば助かる可能性は?」
天沢が問う。
「私でも、ある程度の処置はできます」
「おっ!では移動すべきだな、台風で膠喰体の動きが鈍っている今がチャンスだし、それで構わないよな!?」
同意を求められた権藤は窓の外へあごを向けた。
外では雨風がうねっている。
「無謀すぎる。外はまだ危険だ。それに、ここの責任者は俺だ。勝手に動くのを認めるわけにはいかん」
「奴らは強風時には活動が鈍りますし、夜間ならスマホ等の光で目をくらますことも出来ます」
片瀬の意見に、権藤は腕組みして睨みつけた。
「所詮は憶測だろう。被害が出れば、お前に責任がとれるのか」
これは建前だ。
権藤の本音は食料のあるビルに立て籠もっていれば、自分の立場が保てる。ここにいれば肩書で指示を出し、従わせることができる。一方で外に出れば、部外者と見下していた連中と同じ土俵に立たされる。
現状が己の価値を保つ最善の方法であると理解しているからこそ、移動に反対したのだ。
「動くべきだ。どっちにしろ、このビルにずっといられるわけじゃない」
意外な人物からの援護。それは桐村だった。
驚きを隠せない権藤は目を丸くしたが、すぐに嘲るように鼻で笑う。それは面白いからではなく、お前程度が何を言い出すのかと、見下している相手の反応を嘲笑うものだった。
「はっ、左遷確定の平社員が何を偉そうに、仲間を外に連れ出して危険に晒す気か?」
目は笑っていない。
背もたれに深くもたれかかり、腕を組んだまま顎をくっと上げている。
今までの桐村なら、強者の矢面に立つような真似はしなかった。
だがもう違う。天沢の仲間という言葉は、中学時代にトイレにこもって泣いていた過去を払拭させた。
「仲間?刑事さんを見殺しにするのが、仲間の取る手段だと?」
権藤は嗤う。
「……ほぉ……桐村」
やれやれと言わんばかりに、ため息と共に視線を落とす。
「お前、俺に説教する立場になったのか?」
ゆっくりと立ち上がる。意図的に遅い動作は、威圧感を増幅させるため。
そこには、食物連鎖の頂点に立つ者が睥睨するような、重い圧迫感があった。
桐村は身の竦む思いを堪える。拳の爪先を掌に食い込ませた痛みがある。それは立場の弱い母子を追い出そうとし、食料を減らし、あまつさえ身を危険に晒した罰であるように感じられた。
(くそっ。俺はいつからこんな腰抜けになっていた)
己の弱さを隠すために、傷つける側に回った自分の愚かさを憎む。
呵責を糧に、奮い立った。
「食料だっていずれ尽きる。安全に場所を移せるチャンスがあるなら、行動すべきだと言っているだけです」
勇気を振り絞った。声は震えていたが、言葉そのものには揺るぎはない。
「お前、まだ俺に楯突く気か!?」
権藤が目を吊り上げ、前に踏み出す。そのとき、あの太い指でネクタイを捻じり上げられた場面を思い出した。しかし桐村は逃げない。
なぜなら彼の視界の中には、力強くうなずく天沢がいたから。自分はひとりじゃない。そう思うだけで、勇気が湧いた。
(これが仲間か)
本音はすべて、天沢に吐き出した。
無様な醜態を晒したと言っても過言じゃない。それでも、悪くない気分だった。なぜなら初めて強い絆を感じられたから。
天沢の「フェアプレー」という言葉が、腐った歯茎に沁みる鎮痛剤のように効いていた。
(こんな俺でも、誰かを守れる人間でありたいんだ)
「権藤部長、現実的な話をしているだけです」
ぶれない心。
天沢はぐっと拳を掲げて応えた。
小さな肯定が、長年抱えた劣等感にひびを入れた。
不器用なりでも前を向く決意が、長年の屈折した自尊心を矯正していく。
もう権藤の威圧など、どうでもよかった。
「おまえはっ!」
権藤が怒鳴る直前に、割り込むように天沢が口を挟む。
「ちょっと待った!ここは桐村君の言う通りでは?今はチームで動くべき時だ」
星座模様のスーツの下で、筋肉が隆起しているのがわかる。
天沢には腕力では敵わない。権藤はさらに不機嫌になり、周囲を睨みつけた。
「短絡的な考えはやめろ!なあ、お前らもそう思うだろ!意識のない小野や、動けない剣崎をどうやって連れ出すつもりだ!?」
片瀬が手を挙げた。
「担架を作れます。棒と毛布で簡易的なものを」
藍川が続ける。
「工具はあります。私が補強します」
鈴音も小さく拳を握りしめた。
「わたしも手伝う!」
亜香里は看護師としての経験を活かし、移動中の応急処置方法を説明し始めた。
それだけに打開策は留まらない。次々に声を上げ、意見を出し合い、役割を決めていく。天沢は即座に地図を広げ、指で病院までのルートをなぞった。
「病院までおよそ二キロ。台風で膠喰体の動きが鈍っている隙に、この裏路地を抜けるのがベストだ」
「担架は俺が持ちます」
片瀬の宣言に、藍川が即座に「私も」と手を挙げる。そこで視線が重なると、彼女は頬を薄っすら赤く染めて、「一緒に担架を作りませんか。工具の扱いには自信があるので」と、俯き加減に鼻をこすった。
鈴音も「荷物持ちならできる!」と前のめりになる。
亜香里が搬送には最低四人は必要だと指摘すれば、天沢に続き桐村も「俺もやる」と照れ臭そうに手を上げた。
互いが自発的に役割を決めて行く、自然と輪ができていた。
その中心にいたのは、責任者を自称した権藤ではない。チームとして互いの手を取り合った者たちだ。
「あまり時間はありません。出発は二十三時、今から二時間後にしましょう」
「異論はあるか!?」
片瀬の呼びかけに、天沢が被せて周囲を見渡す。権藤は眉間に皺を寄せてはいるが、何も言わない。言えない。
皆が頷き、同意を示したからなおのことだ。
すぐに取り掛かる。
片瀬と藍川は担架を組み立て始めた。天沢と桐村は脱出ルートの地図を頭に叩き込み、武器になりそうな物を探す。亜香里は鈴音と一緒に食料や水、使えそうな備品をリュックに詰め始めた。
「お母さん、この缶詰ならたくさん持っていけるよ!」
鈴音は宇宙柄の靴をぴょんと跳ねさせながら、誇らしげに報告した。小さな手でリュックの紐をぎゅっと締めると、真剣な表情で「剣崎おじさん、絶対に助けようね」と目を輝かせた。
亜香里は娘の成長した様子に胸が熱くなる。小さな髪を撫でながら「ええ、みんなで助けるのよ」と優しく応えた。
その様子を見ていた権藤は、歯がゆい葛藤を抱く。
(なぜ、誰も俺の指示を待たない?)
幼い少女までもが行動を起こしている。まるで長年培った階級が無意味になったように、誰一人として自分の指示を待たず、役割を分担していく。
彼は理解した。
非常時において、肩書や権力は何の意味も持たない。この場で求められているのは、信頼だけ。そして、自分にはそれがない。部長という肩書は、ただの虚飾に過ぎない。
反論の余地がないと悟った権藤は、ひとり会議室から出て行った。
誰も、彼を引き止めなかった。
それが何よりも、彼の価値を物語っていた。
◇
脱出まで、あと三十分。
外では風雨がさらに激しさを増していた。
権藤はソファに座り、腹立たしそうに指先でテーブルをコツコツと叩いている。
(あいつら、俺の指示に背きやがって)
これまで支配下に置いていたのに、誰からも敬われない。そんな焦り。
部下たちがリーダーシップを発揮し、部外者如きと同列に肩を並べている。会社の従業員は優遇していたのに、裏切られたかのような気分だった。
(俺はこの会社の営業部長。次期社長なんだ。あいつらごときが勝手に動く権限なんてない!)
片瀬たちが勤めるA&G商事。
この会社の社長は、権藤の兄だった。会社は代々権藤家が運営しており、子供のいない兄夫婦に代わって、権藤が次期社長と見なされていた。ゆえに誰も彼に逆らえず、従業員の大半は言われるがまま従うしかなかった。
しかし権藤は知っている。兄は何事に置いても自分より優秀だった。兄から「お前は社長の器ではない」と言われた時、その言葉が真実であることを直感した。
彼は薄々わかっていた。
今の立場はコネによるもの。
これといった実績はない。
すべては肩書が与えてくれているだけ。
それを隠すために、権力で他者を支配し、従わせることで自分の存在価値を証明してきた。部下を叱りつけ、弱い立場の者を貶め、自分が上に立つことで、心の均衡を保ってきた。
――権藤正男にも、秘密がある。
それは、肩書きを外した瞬間、何も残らないという恐れだった。
それが今、露顕する。
非常事態下では、力ある者こそが主導権を握れると思っていた。
だがどうだ。
頼れる者、信頼を得た者が、真に慕われる。
そこから輪が出来ていく。
その事実を認めたくない権藤は、苛立ちを抑えきれずにいた。
――コンコン。
ドアがノックされた。
「失礼します」
亜香里が軽く会釈して入室する。
剣崎の様子を見に来た。まだ額には汗が浮かんでおり、唇は乾いてひび割れていた。
亜香里は脈を手際よく計る。それから上半身を支え起こすと、水分補給や食事の介助を始めた。
「権藤部長、ここは私に任せてください。出発の準備はほぼ出来たので、ご自身の準備も進めておいてください」
声は優しいが、そこには確固たる意志を含む。
気位の高い権藤は指図されたと思い込み、癪にさわった。
現実問題。権藤が築き上げてきた立場は揺らいでいる。不安定な足場を崩さないよう、余計な刺激を避ける選択肢をした。
ひとりで廊下に出た。
苛立ちを壁にぶつけ、蹴り上げた。
(どいつもこいつも、ナメやがって)
誰も従わない、だがここで、小野美咲の存在を思い出した。
小野はこれまで、何の役にも立たなかった。ただ怯えて、泣いて、他の人間に頼るばかりで、権藤にとっては無能な部下でしかなかった。それでも、今は自分に逆らえない唯一の人間であり、そして女だ。
(あいつは俺を必要としている。俺が支配してやらなければ、何もできない女だ)
歪んだ論理。弱者を支配することで、自分の価値を確認できる。小野は、そのための標的になった。
卑猥な舌なめずりをする。
小野を、自らの欲望を吐き出す存在へと書き換えたのだ。
(あいつなら、文句を言わねえだろう)
まだ権力を持っていることを確認したい。
弱者を支配することで、優越感に浸りたい。
欲望が暴走する。
彼が役員室へ向かう足取りは、重く、しかし確実だった。




