34話 ラガーマン
藍川が、片瀬に向ける熱い眼差し。
桐村はあの眼差しを見ていると、中学時代に裏で嘲笑っていた幼馴染の慎也を、ヒーローのように信じていた愚かな自分を思い出す。
片瀬が膠喰体を倒し、英雄のように称えられている姿、その後に藍川が差し出したペットボトルが片瀬の指に触れ、慌てて引っ込める。あの仕草。
それらを思い出すたび、嫉妬で頭がおかしくなりそうだった。
窓の外で雷光が走る。
照らし出された桐村の青白い顔には、自分でも気づかない涙が浮かんでいた。
「くそ、くそ、くそっ……」
悔しい。ただただ悔しい。
独り言が雨音に消える。爪を噛む力が強くなる。鉄の味が口に広がった。この味こそが現実。優しさなどという甘い幻想ではない。桐村は自問する。どこで間違えたのか。何がいけなかったのか。
(片瀬を罠にかけようとした。裏で手を回し、あいつを陥れようとした)
そこで気付く。あのいじめっ子たちと、自分。何が違う?自分自身の行動は、中学のときに嫌がらせをしてきた奴らと同じでは?仮面を被り、陰で他人を陥れる。卑怯者だと。
「違う!俺は片瀬に騙されていないだけだ!」
どうしようもないほどの嫌悪感。ぞわぞわした感覚がまとわりつく。
だが歪に伸びた高すぎるプライドが後悔を許さない。非を認めたら、ずっと抱え続けてきた憎しみの捌け口が消える。自分という存在が消えてしまう。あの日、膝を抱えて押し殺した感情が無意味になる。
それだけは、認められなかった。
(もう引き返せない)
その時、足音が聞こえた。
桐村は慌てて涙を拭い、姿勢を正す。
天沢が星座模様のスーツを翻しながら近づいてきた。
(あのオカルト野郎も、片瀬の仲間だ)
あいつは敵。ここに味方はいない。
逸れた狼のように身構えた。
本当は苦しい。心の奥底では、助けて欲しいと願っている。
それはまるで中学時代、トイレの個室で泣いたあの日のようだった。
「――桐村」
天沢の声に圧を感じた桐村は、ぎくりと肩を竦ませた。
長い前髪の隙間から、充血した目で覗く。
「な、何だよ?」
「お前だろ、ウミガメ型をおびき寄せたのは」
バレた。そう思った桐村の瞳孔が一瞬、針のように細くなる。
「バカを言うな!あれはお前らがっ……」
「三階オフィスの窓が割れていた。そこから入った痕跡がある」
天沢は目線を合わせて、しゃがみ込む。
その動作は確信に満ちており、桐村は追い詰められた鼠のように怖気づく。
「証拠もないのに、俺を疑うのか?」
「雨が吹き込んでいてな、足跡が残っていた。靴底を調べればすぐにわかる」
ブラフだった。だが余裕のない桐村には効果てきめんで、一気に血の気が失せる。皮膚は蝋のように蒼白になった。
すべてバレた。
権藤に本心を見透かれ、天沢には膠喰体を引き入れた策略も暴かれた。崖っぷちから奈落の底へ。その落差が平常心を砕く。
「脅すのか!?俺を追い詰めて楽しいか!?」
唾が飛び散った。必死だった。
底なしの井戸に転落する者のように、壁にしがみつく指先からは爪が剥がれ、血肉が壁面にこすりつけられても、それでも滑り落ちる。掴まろうとしても、深淵へと引きずり込まれてゆく。
逃げ場など存在しない、残されたのは、奈落へと続く螺旋だけ。
深い絶望へと落ちていく。
「ふざけるな!」
絶望に押しつぶされても、へたり込む暇など与えない。
天沢は、彼の胸ぐらをグッと掴み上げた。
星座模様のスーツの下で、ラグビーで鍛えた筋肉が隆起し、普段の飄々とした態度は消え失せていた。
「お前、藍川さんに惚れてるんだろ?本気で好きなら胸を張れる男になれ!お前のやってることはライバルを貶めるだけだ!」
その言葉は、桐村に響かなかった。
なぜなら、とっくに自信などない。
どうあがいても、藍川が自分に惚れるはずがない。わかっていた。だって、あの二人は似た者同士だ。
それが頭の中で明確になると、桐村は力が抜けていった。
脱力すると、身体が動かない。
頬だけが痙攣し、皮肉を返すだけで精一杯になる。
「あいつは片瀬ばかりを見てる」
「違う!お前の方なんだよ。お前が見ているのが、固執しているのが、片瀬君なんだ!」
沈黙が降りた。風が窓を揺らし、遠くで雷が鳴る。それらの音が、かえって無言の重みを増していった。
藍川の笑顔に一目惚れした。
片瀬と談笑する姿を見ると、自分には向けられない笑顔に嫉妬した。
苦しかった。だが、もう自分でもわからない。藍川への想いよりも、片瀬への執着の方が強すぎた。あの男がなぜあんなに皆から好かれるのか、なぜ自分だけが片瀬から偽善や嫌悪を感じるのか。
人は追い詰められれば、必ず裏切る。片瀬だって、本当のピンチが来れば本性を現すに決まっている。
ここで、大会議室で膠喰体と最前列で戦った片瀬の姿が思い浮かぶ。
あれは果たして、本当に演技だったのか?死んでもおかしくなかった。命を危険に晒してまでやることか?
気づきがあった。
桐村は、自分を尊重すれば他人からも尊重される。自信ある振る舞いこそが価値ある者として認められると信じてきた。
片瀬は違う。まず他人を尊重しないと自分を認められない。そんな脅迫観念のようなものが、行動の根底にあるように感じた。
片瀬の考え方は、受け入れがたかった。その反面、他者を信じられる力があることを、うらやましく思った。だから自分にないものを持つ片瀬を嫉妬し、異常なまでに固執するようになったのだ。
(いやでも、本当にそれを認めてしまっても良いのか!?)
もし片瀬が善人なら、悪意が存在しないのなら。自分をいじめたクラスメイトたちも、単なる悪ふざけにならないだろうか。
善意と悪意の境界線が曖昧になる。そんなのは認められない。あの日々の苦しみが何だったのか、わからなくなる。
(片瀬を認めたら。中学時代の、慎也の裏切りも全部、無かったことになる)
片瀬を認めるくらいなら、今の苦しみを抱え続ける方が、まだまし。
だから、否定的な言葉しか紡げなかった。
「片瀬は胡散臭い、ただの偽善野郎だ」
「だったら、お前は何だ?」
ドンっと、壁に押し付けられた。天沢が間近で睨みつける。
「人を傷つけて、自分が惨めになるだけの、卑怯者か?」
卑怯者。それは自分をいじめた奴らだ。
(俺じゃない!俺じゃない!俺じゃないだろうがッ!)
「もういい加減にしてくれ!お前らみたいな奴らのせいで、俺はいつも、いつも、居場所がなくなる、また昔みたいに無視される……」
問い詰められて、わからなくなった。
もう、考えるのが、すべてが嫌になっていた。
だから……言葉が零れ落ちた。
「俺は……また……いじめられるんだ」
――誰にも言ったことのない事実。
中学時代、彼の机は外に放り出され、教科書はゴミ箱に捨てられ、隙を見せれば背後から頭を叩かれた。
誰も助けてくれなかった。イジメという言葉を濁し、頭の悪いクラスメイト達がムカつくと担任に打ち明けたら、「協調性を養え」と言われた。母からは「もっと成績を上げなさい」と冷たく言い放たれた。
いじめられた過去。
プライドの高い彼は、自分が弱者であったなどと誰にも言えるはずがなかった。認められなっかった。
特別でありたかった。
誰よりも優れていると思いたかった。
現実は違った。自分よりも人気のある奴がいる。自分よりも認められる奴がいる。その事実から目を背けるために、自分は正しい。周りが間違っているという論理で心の均衡を保ってきた。
しかしその均衡は、いじめられていたという秘密を告白した瞬間に傾いた。
重くのしかかっていた石が、少しだけ転がったような感覚があった。
これまで誰にも見せたことのない弱さを曝け出したことで、心がわずかに軽くなった。
決して改心などしていない。
それでも、隠し続けてきた重みが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
本当は、わかっていた。認めたくないだけで、過ちはわかっていた。
これまでの生き方を否定されるのが怖かったのだ。
自尊心を折られるのが怖かったのだ。
だから、素直になれなかった。
(俺は……ずっと、弱さを隠すために、他人を貶めてきたのかもしれない)
――それが、桐村康の本当の秘密。
片瀬を憎み続けていたわけじゃない。
恐れていたのは、弱い自分自身を認めること。
地の底に落ちた男は、静かに涙を落とす。
そこにはかつての狡猾さはない。
桐村という男の弱さを見た天沢は、心が揺り動かされた。
この姿こそが、彼の本性だと悟ったから。
「……桐村」
熱を帯びた大きな両手で、桐村の肩をぐっと強く掴む。
そしてまた、まっすぐに目を見据えた。
「俺は学生時代、ラグビーをしていた。敵味方関係なく、何度もぶつかったがな、一番大事なのはフェアプレーだ。相手を倒すことに固執するんじゃない。自分が成長するんだ」
熱い言葉でも、絶望した桐村には届かない。
目を伏せたまま、このあと晒し者にされる自分の姿を想像し、無の闇の世界に沈み込んでいた。
そこには苦しみ、感情さえも消えた、ただ空洞のような世界があるだけ、何もない、空っぽだった。
「お前のやってることはフェアじゃない。片瀬君への恨みで、無関係の人間まで巻き込んでる自覚はあるのか?」
無関係の人間を巻き込む。
そこで真っ先に思い浮かぶのは、亜香里たち親子だった。
(俺はあの親子を、あの看護師と子供を追い出そうとした。食事を減らし、弱い者を……いじめた)
亜香里が鈴音を庇う姿は何度も目にしたにも拘らず、権藤にへつらい、不平等な食料配分に誘導させた。
卑劣。弱い立場のものを貶めた。それらの行動は、自分が憎んでいた中学時代のクラスメイトと同じ。
それだけじゃない、膠喰体をわざとおびき寄せ、大会議室まで引き込んだ。策略によって被害を受けたのは片瀬だけじゃない。
(……誰か死んでも、おかしくなかった)
手の平がじっとりと汗ばみ、鼓動が耳朶を打つ。
今まで押し殺していた、目を背けていた罪悪感が湧きあがった。
「馬鹿みたいだ。俺は、ずっと」
桐村はうずくまり、両手で自分の顔を覆う。
人を恨むとか、そんな類の話ではない。自らの行いが外道で、醜く、卑怯者で、誰よりも何よりも自分が憎んでいたものと同じで……もっとも許せない存在だと、やっと気づいた……いや、理解し、認められた。
「……俺は一体、どうすればいいんだ?」
「もう二度と、馬鹿な真似はするな」
闇の底から、顔を上げた。
眉の上にかかる前髪が揺れ、目元に光が差す。
おどおどと睫毛を伏せがちに覗き込む視線は、湖面に石を投げた波紋のように控えめだった。
「今更……だろ」
「違う。人は過ちに気付き、乗り越えようとすれば、必ず変われる、成長できる!」
嘲笑いも憐れみもない。ただ、同じチームとして、仲間としての連帯感と力強さがあった。
桐村は思う。これまで生きて来た中で、ここまで真剣に自分と向き合ってくれた人間はいただろうかと。
「今回の件は、誰にも言わん。秘密にするから、俺も同罪だ。だから、このチャンスを生かせ。仲間として、これからはみんなと協力するんだ」
仲間という言葉が、胸の深くまで届いた。
彼はこれまで、誰かに必要とされたいと求めるばかりで、誰かに何かを与えたことがなかった。
藍川に認められたい、片瀬を貶めたい、権藤に取り入りたい。すべては自分の欲求で、誰かのために何かをしたことは、一度もなかった。
なのに、この男は言う。「仲間」だと。
(俺はずっと、自分から孤独を選んでいたのか)
孤独なのは、誰かに排除されたからではない。
自分から、誰も近づけなかったから。
安全な檻の中で自分は正しいと嘯きながら、誰よりも孤独を選んでいたのだ。
それこそが、自らが選んだ牢獄。
自分を閉じ込めていたのは、他でもない自分自身だった。
溜まっていた泥のような感情が、乾いていく。
天沢の言葉が、硬い心の殻を剥がす。
これまでずっと拒んでいた奥底の世界に、手を差し伸べられたような感覚だった。
憎しみに縛られていた心が、すっと軽くなった。
天沢の笑顔には偽りがない。
自分を一人の人間として見てくれている。
そんな単純なことが、なぜか涙を誘った。
――バシッ!
天沢に背中を叩かれた。
この衝撃で、肩の力が抜けきった。喝を入れた力加減は、どこか救われた安堵に似ていた。これまで必死に守ってきた虚勢が、いつの間にか崩れたのだ。
(これが、本当の仲間か)
桐村の内側にあった長く続いていた嵐は、ようやく静まった。
「わかった。もう、馬鹿な真似はしない」
天沢は桐村と肩を組む。
「よし、それでこそ仲間ってもんだ!」
フンっと鼻息を吹き、大きく笑った。
味方はいないと思っていた。
でも、彼に認められている。受け止めてもらえている。
桐村は、仲間として自分も加えられている。
そう実感し、思わず本音をこぼす。
「でもやっぱり……片瀬は嫌いだ」
策を巡らせていたときの、歪んだ表情ではない。どこか不貞腐れた少年のような顔だ。
それを覗き込んだ天沢は、目を丸くさせると、豪快に笑う。
「はっはっは!まあ、万人を愛せるのは女神様くらいだからな!」
豪快な笑い声に、桐村も思わず口元が緩んだ。それは長い間、誰にも見せたことのない素の表情だ。天沢は桐村の背中をバシバシ叩き、「さあさあ、バリケードの修理を再開するぞ」と声をかける。
外では台風の雨音が激しい。
それでも、二人の間には新たな空気が流れ始めていた。




