33話 露顕
日は暮れた。
窓ガラスは強風に煽られ、雨滴が叩きつけている。
あまり時間はない。台風に備えて、片瀬と天沢は破損した窓の補強を急いで進めていた。
上の階から順に作業を進め、三階のL字廊下の角に差し掛かったときだった。
――ビュウッ。
鋭い風切音とともに、地を這うような風が吹き起こった。みるみるうちに勢いを増し、廊下を駆け抜ける。スーツの裾がばたついた天沢は、思わず口を滑らせる。
「隙間風でこれだけ揺れるなら、外は風速三十メートルはあるな」
建物の構造から推察すれば、外の実測値はさらに高いはず。などと、さも知ったかぶりで言ってみたはいいが、それが当てずっぽうの数値だという事実に、天沢は内心で恥じた。
(またこれか)
学者としての矜持と、軽妙なキャラクター。このズレに悩まされていた。
天沢晴は知っている。自分の天気予報が当たるのは、才能ではなく運だということを。気象学者としての正攻法ではなく、勘や経験則で当てているに過ぎない。本当に必要なのは、緻密な計算と検証に裏打ちされた確かな学識だ。それを持たない自分は所詮、まともな学者ではない。
それでも研究を続けるのは、誰かに認められたいから。笑われても、馬鹿にされても前に進むしかない。立ち止まることは、自分に才能がないという現実を認めることになる。
そして今、膠喰体という未知の現象が現れた。
もしこの謎を解き明かせたなら、自分も正統派の学者として認められるかもしれない。
その期待が、彼を突き動かしていた。
(でも、今はそれどころじゃない)
場を取り繕る。
にかっと笑いながら「なんてな、適当な数値を言っただけだよ」と片瀬の方へ目を向けた。
しかし片瀬は……笑うどころではなかった。
神経を研ぎ澄ませ、遠い目で風上を見据えている。
「どうした?……っ!」
天沢も異変に気づく。
気象の専門家として、決定的な危険を察知した。
この風は隙間風ではない。どこかの窓が開いている。
屋外は膠喰体だらけ。窓が開いていれば、侵入を許すことに直結する。
二人は口に出さずとも同じ答えにたどり着き、風上に向かって走り出す。
◇
事務机が並ぶオフィス内に踏み込むと、飛んできた大きな雨粒に天沢は目を細めた。割れた窓からはゴォォッと風が唸り、散乱した書類が濡れている。
「これは!?」
床を懐中電灯で照らす。
絨毯に穴があった。
直径は一メートルほど。縁は溶けて剥がれ、床の板材が陥没している。
「足跡だ。それにこの向き……外から侵入してきたのか」
天沢は声を潜めた。まだどこかにいるかもしれない。
「天沢さん、こっちにも」
片瀬の懐中電灯が、窓枠へと向かう。引っかき傷。そこから滴り落ちた跡は、室内から廊下へと続いていた。
「膠喰体の溶解液だな。この腐食痕の大きさだと、さっきのウミガメ型に近いな」
「……俺たちが倒したのは本当に、トカゲ型が変異した個体だったんでしょうか?」
天沢も同意見だった。そこで、ある可能性に思い至る。大会議室に現れたあの個体は、桐村と共に来た。何よりも、今、目の前にある腐食痕の大きさ。それは片瀬が退治したものと、あまりに近すぎる。
「まさか、あいつ、ここから五階におびき寄せたのか」
稲光が窓を貫き、天沢の横顔を照らす。
天沢が失敗しても笑い飛ばして前に進むのは、研究が認められない現実を直視できないことも関係していた。
それが、天沢晴の秘密。
明るく振る舞うことで、内面の焦りと不安を隠していたのだ。
失敗を責めてしまえば、動けなくなる。
しかし今回の所業は、次元が違う。
窓ガラスを割り、膠喰体をおびき寄せたのなら、それは他者に対する明確な裏切り。仲間として助け合う精神を踏みにじっている。
「あの野郎っ!」
普段の明るさはない。
声は低く、強く食いしばり、顎の筋肉が痙攣していた。
ラグビー部時代。フェアプレーの精神を叩き込まれた日々。仲間を信じ、ルールを守り、正々堂々と戦うこと。それが天沢の誇り。
学者として認められなくとも、ラガーマンとしての誇りだけは持ち続けてきた。
卑怯な真似はフェアじゃない。
しかもだ。
あの場には、鈴音もいた。
小さな足で、宇宙模様の靴をぴょんぴょんと跳ねながら、「お天気おじさん、また雲の話して!」と目を輝かせながら駆け寄ってきてくれた。
気象学のマニアックな話を、誰よりも楽しそうに聞いてくれた。
専門用語が飛び出しても「それってどんな形?」「どうしてそうなるの?」と好奇心いっぱいに質問してくれた。
天沢は学者肌だ。話が専門的になりすぎるきらいがあった。
同僚からも、また始まったと苦笑いされるのが関の山だったが、純粋な鈴音の好奇心は、天沢の知識欲を満たす最高の話し相手。鈴音の存在は喜びであると同時に、率先して手伝いをする健気な姿にも胸を打たれていた。
(あんな良い子にまで及ぶ危害を、あいつは……)
拳に力が入る。今すぐにでも桐村の胸ぐらを掴みたい衝動が走る。
ラグビーで鍛えた体が、悪を前にして暴れようとしていた。
だが、そのときだった。
『熱くなりすぎたらダメだ。一呼吸置け』
それはかつて、白熱した試合で聞いた監督の声だった。勝負どころで感情に飲まれるな。それが教えだった。
(殴ったら、それで終わりだ。何も解決しない)
正義のつもりでやったことが、ただの暴力で終わる。
それでは、相手と同じ土俵に立ってしまう。
……そこでようやく、桐村のことを考えられた。
桐村もまた、自分と同じように焦りや不安を抱えているのではないか。認められたい。評価されたい。誰かに必要とされたい。その渇望が、彼を歪んだ行動に駆り立てているのだとしたら……。
(俺は彼を追い詰めるべきじゃない)
自問する。
自分は膠喰体を、世間から評価してもらう最後のチャンスとも見ている。桐村もまた、何かを最後のチャンスだと思って、無理に結果を出そうとしているのではないか。
その方法が誤りだとしても、根底にあるのは、自分と変わらない。無論、桐村の行動は許せない。しかし、彼自身を根底から否定する必要はないのかもしれない。
(ならば、俺はラガーマンとして彼と向き合おう)
ラグビーでは、どんなに激しくぶつかり合っても、試合が終われば握手を交わす。敵であっても、対等な相手として敬意を払う。それがフェアプレーの精神だ。
――パンッ。
自分の頬を平手打ちした。痛みが、さらに冷静さを取り戻させた。
「天沢さん!?」
驚いた片瀬を、天沢は掌を見せて制止させた。
手の甲には、まだ力が抜けきらず血管が浮き出ている。
「すまん、熱くなった!」
星座模様のスーツの肩が、荒い呼吸で上下している。だが、もう大丈夫だ。
「桐村と、サシで話をしてくる」
「だったら俺も一緒に……」
「駄目だ。あいつは片瀬君を目の敵にしている。悪いが、君はここで割れた窓の修繕を頼みたい」
片瀬にとって、桐村は職場の同僚。これは身内の問題……だが、居酒屋の帰り道、瓶を投げつけられたことを思い出すと、思いとどまった。
「わかりました」
「すまんな」
天沢は目礼すると、重い足取りで歩き始めた。
星座模様のネクタイが胸元で揺れる。彼は学者としては未熟かもしれない。しかし、ラガーマンとしての誇りだけは確かだった。
その背中を見送る片瀬の手から、懐中電灯が軋む音がした。
握り締める力は、個人的な関係が災厄を招いたことへの憤りがあった。
(なぜ、もっと早く動かなかった)
居酒屋の帰り道、桐村が投げつけた瓶が頭部をかすめたあの時。あの時点で、もはや個人的な嫌がらせの域を超えていた。なのに面倒ごとを起こしたくないと、見て見ぬふりをしてしまった。
外で蠢く膠喰体よりも、内にいる桐村との確執を放置した。
すべては自分が波風を立てなかった結果ではないのか。そんな気さえした。
一人になった片瀬は、割れた窓の復旧作業に没頭しようとする。
雨粒が頬を伝う。
ガラスの破片で指先を切った。
それでも大した治療はせず、資材をかき集めては割れた窓の修繕を進める。
どうしても作業には集中できない。
(俺はいったい、何を恐れていたんだ)
拒絶されてもいい。嫌われてもいい。仲間を守れるなら、それでいい。
雨音だけが、やけに鮮明に耳へ届く。
片瀬は釘を握り直す。
(もう、逃げるのはやめよう)
空気を読むのではなく、空気を変える。
それが、これからの自分の在り方だ。
決意を込めて、釘を力強く打ち込む。
金属が木に食い込む音は、迷いを断ち切る音だ。
その直後。
ビル全体を震わせる雷鳴が轟いた。
嵐は、まだ始まったばかりだった。




