32話 母性
荒れた大会議室の床は割れた食器が散乱していた。
亜香里はそれらを手際よく片づけながら、いつもの習慣で小野と剣崎の容体が気がかりになる。
(あの二人、大丈夫かしら)
ナースシューズの先でガラス片を避けながら、足早に様子を見に向かう。
◇
社長室。
まずは剣崎の額に手を当てると、手のひらに伝わる熱は少し和らいでいた。
(解熱剤の効果ね。良かった)
ひとまず安心し、次に視線を送ったのは小野美咲。彼女は女子トイレで倒れているのを発見して以来、まだ一度も目を覚ましていない。
前髪が汗で濡れて額に張り付いている。不思議なのは、発汗はあるのに人形のように表情が無く、呼吸の乱れも無い。そして首筋には、うっすらと青黒い血管のような模様が浮かぶ。それは看護師の亜香里ですら見たことのない、不自然な枝分かれだった。
未知の症状に不安はあった。しかしそれよりも今は、着替えをさせてあげたかった。
なぜなら彼女のスカートに、かすかな染みを見つけたから。目立つほどではないし、ほとんど乾いてはいる。それでも放置はできない。
男性がいるこの部屋では着替えさせられないので、小野を役員室に移そうと決めた。
「すず、それと藍川さん、少し手を貸してもらえる?」
いくら同性とはいえ、スカートの染みについては言うつもりはない。これは看護師としてというよりも人としての配慮だ。それから「汗をかいているので着替えをさせてあげたいんです」とだけ伝え、協力を申し出た。
「力仕事ならまかせてください」
力こぶを作って快諾した藍川の抱え方は、決して慣れているとは言い難く、腕の角度もやや不自然。ただ力加減は驚くほど繊細だ。掌全体で体重を分散させて支えている。それは運びやすさよりも、相手の安楽を慮った抱え方。
亜香里は、その心遣いに胸を打たれた。
鈴音もこんな優しい女性になって欲しいと思った。
先導は鈴音の役目だ。
ドアの開閉だけでなく、通るのに邪魔になりそうな物があれば端に寄せていく。
そこへ偶然通りがかったのが権藤だった。
表情はニヤつき、白いワイシャツの襟は黄ばんだ皮脂汚れで縁取られている。
「なにをやっているんだ」
権藤の視線は眠っている小野の胸元から、下半身を這う。スカートの中を覗き込むように腰を屈めると、藍川は体勢を変え、その視線を遮った。
「一旦、女性用の役員室に戻ろうかと思いまして」
「だったら俺が運んでやる。女だけじゃ大変だろ」
権藤の手が藍川の腰に伸びる。
「ありがとうございます。でも大丈夫です。このまま慎重に運ばせてください」
藍川は微笑みは崩さない。それでも、その瞳だけは刃のように鋭かった。
毅然とした態度で返された権藤の手は、凍ったように宙で止まる。
「では、失礼します」
涼やかに言い切る。権藤は白々しい顔で「ジョークだ、真に受けるな」と両手を上げて道を空けると、そのまま背を向けた。
社長室に戻るのを見届けると、藍川は身内の恥と言わんばかりに深いため息を吐く。
「すみません。あの人、セクハラで有名なんです。気が弱いと思われたらエスカレートするので注意してください」
「うん。知ってた」
藍川は目を丸くする。亜香里は「今更だよ」と笑った。
亜香里が離婚した元夫も、権藤のようなモラハラが常であった。
表面的には社交的で、誰からも理想の夫と思われる人物だったが、家庭では違った。
冷蔵庫の残り物でさっと作った野菜炒めに、「こんな手抜き料理を食わせる気か」と箸を投げつけたかと思えば、来客を招いた日には同じ料理を「俺が作った」と自慢し、さも毎日料理しているかのように装う。
生活費は「節約するのがお前の仕事だ」と、最低限の金額だけを渡し、それ以上は決して出さなかった。亜香里が看護師として働いていたのは、生活費を補填するため。それでも、鈴音の成長に伴う出費は避けられず、突発的な物入りに追われることも少なかった。
特に忘れられないのは、鈴音が小学校に上がる直前の春のことだ。
鈴音は星を見ることが好きだった。
「お母さん、土星の輪っかって本当に見えるの?」
目を輝かせる娘のために、亜香里は数か月かけて少しずつお金を貯めた。
その月だけは食費を切り詰めるしかなく、意を決して元夫へ相談した。
すると彼は、鈴音の前でこう言ったのだ。
「ママみたいな出来損ないになるなよ」
平然と、まるで当然のことのように。鈴音はその言葉を聞いた瞬間、小さな肩を震わせた。そして彼は続ける。
「ママのやりくり下手のせいで、俺ばっかりが苦労する。なんでお前はもっとしっかりできないんだ」
さも自分が正しいかのような物言いだった。
実際に彼が入れる生活費は、平均的な家庭の半分ほどだったのに……しかも鈴音が望遠鏡を欲しがっていることなど、彼は知る由もない。
亜香里は気づいていた。
鈴音は、あの日のことを自分のせいだと思い込んでいる。自分が望遠鏡を欲しがったから、母が父に叱られたのだと。
それ以来、鈴音はよく「お腹が痛い」と言うようになった。病院で診てもらっても身体的な異常は見つからず、医師は「ストレス性のものかもしれません」とほのめかした。
子どもに罪悪感を抱かせるような真似をしておきながら、元夫は、自分が何か悪いことをしたとは微塵も思っていない。むしろ「俺がしっかり指導しているから、お前たちは生きていける」と誇らしげに語る始末だった。
夫婦生活では毎日のように「女のくせに」と侮蔑的な言葉を浴びせられ、それでも亜香里は笑ってごまかしてきた。
実の両親でさえ「子供のために我慢しろ」と言われた日には、浴室で声を押し殺して泣いたものだ。
亜香里は耐えることしかできなかった。
権藤に対し、藍川も同じように笑顔は崩さなかったが、明確な拒絶はした。彼女は優しさだけではなく、強さも兼ね備えている。
さっきは娘が藍川のように育って欲しいと思ったが、自分もああなりたかった。
そう切実に感じるのだった。
◇
役員室に場所を移すと、藍川と鈴音に小野の着替えを持ってくるように頼んだ。そうして二人が部屋を離れた隙に、亜香里は急いで小野のショーツを脱がせ、手早く洗って絞り、乾いたタオルでできるだけ水気を吸い取った。
同じ下着を履かせるしかないので、何とか乾燥に近い状態まで仕上げた。
ほどなくして、藍川と鈴音が制服の着替えを見つけて戻ってきた。小野の汗ばんだ制服も清潔な衣類に替えられた。
そうしていると、夕方になった。
鈴音はソファに倒れ込むように眠りにつく。
小さな胸が規則的に上下し、宇宙柄の靴の踵は脱げている。
「お疲れ様です」
一通りのやるべきことは終えたので、亜香里は藍川に水の入ったペットボトルを差し出す。
「ありがとうございます」
藍川は両手で受け取り、喉を潤す。
休憩に入った。
ここで亜香里は、オフィスで片瀬と藍川が二人きりでいた場面を思い出す。
手探りで恋を確かめ合っているような、ためらいがちな二人の様子が初々しくて気になって仕方がなかったのだ。
「片瀬さんとは、いい感じなの?」
「……っ!?」
水を飲みかけていた藍川はむせてしまう。
亜香里は慌てて背中をさすってあげた。
その手の動きは、娘の鈴音が咳き込んだ時と同じ優しさだ。
「ごめんね、変なこと聞いちゃったね」
「そ、そんなこと!」
耳まで真っ赤に染めた反応に、亜香里は自身の初恋を重ねる。好きだった先輩の名を耳にしただけで頬を熱くし、恋焦がれた十代の記憶だ。恋バナが、胸に懐かしく甘い感情をよみがえらせていた。
「私、一応は看護師だからね。人の表情はよく見ているの」
そう言った直後、少しばつの悪さを覚えた。患者の微妙な表情変化から病状は読み取れるのに、元夫の本性は結婚するまで見抜けなかった。
(恋は盲目ね……でも、片瀬さんはきっと違う)
ビルに逃げ込んだあの日、片瀬は危険を顧みず助けてくれた。
モラハラに満ちた元夫なら、たとえ自分の妻や娘が危機に瀕していても、自己保身を優先しただろう。
片瀬は責任感が強く、懐の深さもある。きっと大丈夫。信用できる。
それに、彼のあの温かな目線は、いつも藍川に向いていた。
「片瀬さんなら、きっと藍川さんのことを大切に思ってるわよ」
「えっ!?」
藍川の肩がぴくっと跳ね、頬がぱっと綻び、口元から八重歯が覗く。
「あっ、今、すっごく可愛い笑顔になってる」
「ええっ!?」
恥ずかしそうに両手で顔を隠した。
「ああ、もう!こんなに可愛い反応されると私が悶絶しちゃうわ!」
「かっ可愛くないです。だって」
藍川は自分の手の平を見つめた。繊細で細くしなやかな、女性らしい手ではない。爪はネイルこそしているが、短く切り揃え、皮膚は固く、工具でできた小さな傷がいくつもある。
「もしかして、片瀬さんと手をつなぎたいけど、こんな手じゃ無理。そんな風に考えてない?」
「なんでわかるんですか!?」
「ふふふっ、看護師の第六感よ!」
硬さと優しさを併せ持つ手を、亜香里は愛おしそうに見つめ、両手で温かく包み込んだ。
「この手は勇敢で優しい……片瀬さんも、同じ気持ちだと思うよ」
「そんなの、わからないじゃないですか。それに私みたいな男勝りの性格の人を好きなる男性なんて、きっといません」
藍川は自分の魅力に気づいていない。その手を恥じている。強くあろうとする自分の性格をコンプレックスにすら思っている。
とても魅力的な女性なのに勿体ない。亜香里はそう感じると同時に、疑問が浮かぶ。
「あの、藍川さん、もしかして今まで誰かとお付き合いしたことは?」
「……えっと、実はまだ、ありません」
蚊の鳴くほど小さな声だった。
藍川は中学生の頃から、暇さえあれば機械いじりをしていた。父を失い、不安定になった母を精神的に支える側になって、気が紛れて没頭できる機械いじりは精神安定剤のようなものだった。そんな環境だったからこそ、恋をする余裕なんてなかった。
「そうだったんだ」
亜香里は優しく笑う。
「じゃあ、片瀬さんは特別?」
「えっと……その……」
藍川はモジモジと自分の手のひらをいじりながら、俯いた。
「それじゃあ、片瀬さんとお付き合いしたいとは思わないの?」
「あっ……うぅ」
ボッと火が付いたように顔が赤くなった。
普段は強く振る舞っている藍川だが、今はまるで迷子の子どものように不安げな表情を浮かべている。その初々しい姿に、亜香里の胸はキュンと締め付けられた。ピュアな反応が愛おしくて仕方がないのだ。
「えっとね、藍川さん」
ずいっと近づき、包み込んでいる両手をぎゅっと握る。
亜香里は思い直した。
藍川の人を想いやれる優しさと、脅しに屈しない勇気と強さ。そこから、洗練された大人の女性だと羨んだが、内面の奥底は少女のように純粋で、繊細だったのだ。
「私、思ったの。片瀬さんを見るあなたの目って、鈴音が初めて子猫を抱っこした時と似てた」
「子猫ですか?」
「うん。びくびくしながら、でも離したくなくて、ぎゅっと抱きしめすぎて、子猫がにゃあって鳴いちゃって、どうしたら良いかわからなくって、困った時の顔」
大切な物を、どう扱えばいいかわからない不器用さ。
亜香里の目には、娘を思うような優しさが入り混じっている。
「恋をするって、素敵なことなのよ」
二人の間に、小さな沈黙が流れた。
窓を叩く雨音だけが、静かに部屋へ響いている。
「自分の気持ちに素直になっていいの」
「でもこんな状況で、そんなこと考えてる場合じゃないのに……」
「そうね、確かに今は明日生き残れるかすらわからない……でもね、そんな時だからこそ、人を大切に思う気持ち。人を好きになる気持ちは、大事だと思うの」
その声は、窓を打つ雨音の水のように、藍川の心へ深く沁み込んでいく。
「でも私、何もわかってないんです。片瀬さんにどう接すればいいのか」
「いいの、急がなくてもいいの、ただ自分の気持ちを否定しないで」
ここで鈴音が寝返りを打つ。
脱げかけていた宇宙模様の靴がぽとりと落ちると、一瞬の沈黙が流れ、そうして、二人は思わず小さく笑い合った。
(私は結婚を失敗した。でも、どうか純粋なこの子は幸せになってほしい)
亜香里は、心の中でそう強く願った。
そして藍川は、自分ですらわからなかった感情を教えてくれて、すっと気持ちが晴れ、頭や胸の中が整理されていた。
片瀬以外で、久しくない、自分が望んでいる肯定をもらえた気がした。
「亜香里さん、ありがとうございます。少し、勇気がでました」
藍川は照れくさそうに笑った。
頬が少し赤く染まり、八重歯がほんの少しだけ覗く。
そのつたない言葉に、亜香里は母のような笑顔で返す。
窓の外では雨が優しく降り続けている。
その雨音は、二人の静かな時間を包み込んでいた。




