31話 甲羅
階段を駆け上がる。
肺が火照る。
カッカッカッと小刻みな足音が近づく。
桐村の視界に消火器が映った。
咄嗟に掴み、恐怖で震える指で安全ピンを引き抜く。
息を切らしつつも振り返り、レバーを握りしめた。
──シューッ!
白いガスが噴射。
追ってくる膠喰体の体が覆い隠れる。
使い切った消火器は、闇雲に投げ出した。
逃げる。
必死に逃げる。
桐村の脳裏にあるもの。
それは藍川が、片瀬を尊敬の眼差しで見上げる姿だ。
(認めてたまるか!)
それはかつての自分自身と重なる。
中学時代に憧れた、慎也に向けたものと同じだから。
それは透き通るような純粋さ。
そして脆さ。
きっと藍川も、過去の自分と同じ過ちを犯す。
彼女を救えるのは自分しかいない。偽善者の罠から救えるのは自分だけ──。
(誰にも騙されない俺だけが、藍川を助けられるんだ!)
そう信じ込むことでしか、喉元に迫る絶望に抗えなかった。
大会議室が見えた。
体重を預けて体当たりする。
衝撃で肩が痺れる。
勢い余ったドアは反動でバタンと閉まった。
飛び込んだ桐村は壁に寄りかかり、喘ぎながら叫ぶ。
「来る……!トカゲ型が変形して襲ってきた!」
計算された演技と、本物の恐怖が混ざり合う。
そして罪を擦り付けるために、片瀬と天沢を指さす。
「トカゲ型はお前たちが食堂から連れて来たんだろうが!責任取れよっ!」
唾が飛び散るほど激昂した。
眼球が充血し、ネクタイは乱れている。
――ダン!
ドアを突き破りそうなほどの衝撃。
硬質化した触手の先端が木材を貫き、十字に切り裂いた。
その隙間から、灰色の甲羅を背負った異形が侵入してくる。
ゼリー状の粘体がゆらめき、腐敗したような生臭さが室内に充満した。
「見た目どころか大きさも全然違うじゃないか!」
「知るかそんなの!」
反論する天沢に、桐村が罵声を浴びせる。
(お前らが俺を追いつめたからこんな目に合うんだ!)
桐村は心の中で責任転嫁すらしていた。
しかし、今は言い争っている場合ではない。
光を照らせば目が眩む。
それはトカゲ型で実践済み。
焦る天沢につられ、桐村も懐中電灯を照射した。
だがおかしなことに、光を受けたウミガメ型の膠喰体はまったく動きに変化を及ぼさなかった。
「なぜだ!効かないぞ!?」
「周囲が明るすぎるんです!曇りでもこれだけ光があれば、目くらましにはならない!」
停電した室内は薄暗いが、今は昼過ぎ。
ブラインドの羽の隙間から差し込む光が、十分な明るさを確保していた。
片瀬は武器を探す。
工具箱を開け、ドライバーを胸ポケットに押し込み、続けて三十ミリ幅の片口スパナを握りしめた。その重みを確かめるように一度手のひらで転がし、皆を守るため最前列に立つ。
背後には、鈴音を胸に抱える亜香里がいる。藍川もいる。「片瀬さん!」と叫ぶ声が、彼の背に突き刺さった。
「藍川さん、後ろに下がって!」
そこへ触手が振り払われる。
空気を裂く音。
片瀬は間一髪でのけ反り、触手の風圧が肌に伝わった。
先端が硬質化した触手が、ゆらゆらと漂って獲物を探している。
「こっちだ!」
注意を引きつけた片瀬の方に切っ先が向く。
緊張で掌が汗ばみ、スパナの滑り止め溝に指が食い込む。
「うぉおらあっ!」
それは側面からの攻撃。ラガーマン体型の天沢だ。
彼は机を両腕で抱え上げ、膠喰体目掛けて放り投げた。
木製のデスクが甲羅に直撃。
ひっくり返った。
(今だ!)
片瀬は追い打ちをかける。
距離を詰め、腹へ片口スパナを全力で降り下ろす。
――ガキィィイイン!
金属と未知の外骨格が衝突する耳をつんざく音。
腕に走る衝撃で、歯の根が疼くような振動が駆け巡った。
「嘘だろっ……!?」
飛び退く片瀬。手首まで痺れ、握力が一気に抜ける。
ガラン、と片口スパナが床へ転がった。
膠喰体の外皮は、僅かなへこみと擦り傷があるだけ。
裏側も鋼のような強度だった。
しかも平然と体勢を整える。
まるで苛立ったかのように触手を高速で振った。
パンッと空気を裂く鞭のような音。
天沢が投げた机が真っ二つに割れ、木片が顔面をかすめた。
核は、頭部のように本体から突起させた部位にある。
それが獲物を探すようにギョロリと動き、次なる照準を求めた。
「片瀬っ何とかしろ!」
音に反応する膠喰体は、叫んだ権藤に狙いに定める。
「ひっ」
(注意が逸れた)
チャンスだった。
胸ポケットに忍ばせていたドライバーを握りしめ、念動力に意識を集中。
(核を狙う)
全力で投擲。
手から離れた瞬間、ドライバーは加速。
ブレた先端の軌道を修正し、閃光のように飛ぶ。
──ブシュッ!
粘体を突き抜け、核を貫く。
膠喰体の粘液が沸騰するようにブクブクと泡立ち、蒸気が立ち上った。
「……片瀬さん」
藍川は震える手で、片瀬のスーツの裾を握る。
そこで、現実に引き戻された。
膠喰体は無機質に横たわっている。
既に粘液は揮発して失われており、硬化した部位だけが残されている。
微動だにしない、完全な沈黙だった。
「大丈夫、倒しました。核が弱点だったようです」
その言葉を皮切りに、天沢がドサリと床に座り込んで、「びびったぁ~」と天を仰いだ。
「片瀬!お前は大した奴だ!まさかあんな特技があるとはな!」
権藤の轟くような声が、重苦しい空気を吹き飛ばす。
片瀬は呼吸を整えてから、滑り落ちたスパナを拾い上げた。
「ただのマグレですよ」
ドライバーの投擲は技術だと思われた。念動力はバレていない。
そのことにほっと胸を撫で下ろし、額の汗を袖口で拭った。
「片瀬さん、よかったらどうぞ」
「ああ、ありがとう」
藍川が水の入ったペットボトルを差し出す。
受け取ろうとすると、ふたりの指が触れて、慌てて手を引っ込める。
「ぶぇっくしょん!」
一瞬あった甘酸っぱい雰囲気。
それは天沢の豪快なくしゃみが台無しにした。
「とりあえずこれで一安心だな。よくやった、俺の見込んだ通り、お前は使える!」
褒めちぎる権藤。
一同が安堵する中、部屋の隅にいる桐村は噛み締めた歯茎から鉄臭い血の味が広がるのを感じていた。
(お前らがおびき寄せたトカゲ型を、自分で始末しただけだろ)
吐き出したかった言葉を、なんとか喉の奥に押し込めた。
あれをトカゲ型と言い張るのは藪蛇になりかねない。それに、今や片瀬はヒーロー扱い。この状況で責め立てれば、自分の居場所を狭めるのは明らか。その程度の判断能力は残っていた。
しかし半端に冷静でいられているが故の、苛立ちもある。
計画は失敗した。切り札の膠喰体さえも裏目に出た。
(偽善者の癖に、偽善者の癖に、偽善者の癖にっ!)
脳内で反復されるのは呪いの言葉。
あまりの悔しさで心が捻じれ、捻くれ、縺れて行く。
片瀬の安堵した笑顔が、瞳孔に焼き付いて離れなかった。
◇
場が落ち着いた頃。
学者の天沢は骸と化した膠喰体に興味津々だった。
周囲の忌避感など意に介さず、持ち前の好奇心でしゃがみ込み、観察を始めた。
まず懐中電灯で突っつく。
甲羅の中身は空洞だった。
「んん?なんだこれ、鉄みたいに硬いのに、ビート板みたいな軽さだぞ」
外骨格に触れても害はなさそうだと判断し、指でコンコンと弾く。陶器のような硬い音がした。
行動はもっと大胆になる。直接両手で甲羅を持ち上げて、軽く上下に振った。
「超硬度の炭素鋼のような見た目に反し、かなり軽量……すごいな、完全に未知の素材だ」
天沢の行動を見ていた片瀬は、彰の助言を思い出す。
『奴らは強風時には活動しない』
今この瞬間、やっとその真意を理解した。
(こいつらは軽すぎるんだ。だから強風には耐えられず、吹き飛ばされてしまうのか)
「天沢さん、膠喰体はきっと風に弱い」
天沢は首を捻って一拍遅れ、「ああ、なるほど」と手をポンと打った。
「確かに、これだと台風が来ればろくに動き回れんだろうな」
その瞬間、一同に希望の笑みが浮かぶ。
「ひとまず脅威は去ったが、油断は禁物だ。今のうちに役割を決めるぞ」
権藤が太い腕を組み、部屋全体を見渡して指示を出す。その声は堂々としており、少なくとも今この場においては、確信に満ちた立ち振る舞いは安心を与えた。
「天沢は、片瀬と台風対策で窓枠の補強をしろ」
片瀬が「はい」と返事をする。天沢は拳を握りしめて「おうっ」と応じた。
「女性陣は、ここの片づけだな」
倒れた椅子や散乱した食器が目に入る。
藍川と亜香里はその指示を受け入れ、鈴音も小さく「はい」と手を挙げて答えた。
「剣崎と小野は、引き続き社長室で休ませておけ」
そして最後に。
「桐村」
権藤の声に、青白い顔の男がぎくりと反応する。
「お前は三階のバリケードを修復し、一人で見張りをしろ。異常があればすぐに報告だ」
曲がりなりにも侵入したトカゲ型は始末されたことになった。
故に、単独行動の警戒を緩めた権藤の指示に、桐村は異を唱えられない。
しかしそんなことよりも、かつて操っていた権藤が、今やすっかり片瀬側に傾いていることが気に入らなかった。
「……はい」
この返事には、押し殺した怒りが潜む。
桐村の瞳に映るのは、窓補修の準備をしている片瀬の後ろ姿だ。
(お前が俺から全てを奪った)
やり場のない怒りを抱いたまま、退室した。
廊下に出た時、壁にかかった鏡に目が留まる。
血走った目に、深いクマとこけた頬。余裕のない、惨めで滑稽な姿だ。
企てた策略は悉く失敗した。
全てが無駄に終わった。
そう思うと、急に何もかもが面倒くさくなった。
残っているのは、ただ、ぐったりとした疲れだけ。
気力が砂のように崩れ落ちていく。
企みも、怒りも、もうどうでもよくなった。
(……疲れた)
その時、片瀬の笑顔が脳裏によぎる。
胸の奥で何かがざわついた。
(違う!終われるわけがない!)
怒りだけは、消えてはならない。
それを失った瞬間、自分という人間まで崩れてしまう気がした。




