30話 崩壊の始まり
木製の重いドアを開けたら、温かい食事の匂いがした。テーブルには、レトルトカレーや総菜パン、おにぎりなどが並べられている。
「お、片瀬と藍川か」
ぽっちゃりとした体躯をソファに沈めながら、権藤が穏やかな口調で手招きをする。いつもの高圧的な態度とは打って変わり、気に入った部下を優遇する上司の振る舞いだ。
「台風が近づいているそうだが、これからの予定は決まっているのか?」
片瀬は姿勢を正してから答える。
「はい、まずは四階から順番に窓の補強をしようと思います」
「そうかそうか、しっかりとやってくれ」
権藤は自分の皿から鮭おにぎりを押し付けた。海苔の香りがふわりと立ち上り、食欲をそそる。
「好きなだけ食べろ。お前の働きには期待している」
さらにウインナーやカップゼリーまで次々と渡してくる。少し前まで、ヨーグルトの賞味期限が一日過ぎたら平気かどうかで揉めていた男の反応とは思えない。
テーブルの向こう側。藍川がちらりと覗く八重歯を手で隠し、笑いをこらえていた。いつも冷静な片瀬が困惑している様子がおかしかったのだ。
こうやって今の彼女に余裕があるのは、権藤の態度が急変した原因が桐村にあると知っているから。
それだけじゃない。ついさっき、心に溜まっていた膿を出し切った影響も大きい。そんな藍川の膝の上には、鈴音から貰った梅干しおにぎりが転がっている。
一方の桐村は、テーブルの端で黙々と食事を続けている。フォークでウインナーを刺す力が強すぎて、プラスチック製の食器が傾いた。
沸騰しそうな嫉妬と屈辱が入り混じりながら、未だに権藤の太った指が自分のネクタイを掴んだ感触が染み付いたまま離れない。
『お前みたいな小賢しい真似する奴を、何人も干してきた。部下のひとりくらい、俺の指示ひとつでどうだって出来るんだぞ』
権藤ならやりかねない。老獪さを甘く見ていた。このままでは自分の居場所はない。こんなはずじゃなかった。桐村が本来思い描いていた立ち位置は、今の片瀬のようになるはずだった。
いつも、いつもいつもそうだ。
昔から、自分は誰よりも優れていると感じてきた。頭が良くて特別。しかし、現実は違った。自分よりも人気のある奴がいる。自分よりも認められる奴がいる。片瀬もまた、そういう人間だった。
今も鈴音から「窓も直せるなんて凄い」と懐かれている。しかもその隣には藍川がちょこんと身を寄せ、頬をほんのり赤らめてこくことうなずいている。
(あんな表情、俺には一度も向けてくれたことがないのに!)
胃が熱く疼いた。自分だけが取り残されている疎外感に耐えられず、思わず席を立つ。
プラスチック製のフォークを乱暴に置き、先に刺さったままのウインナーが皿の上で跳ねた。
「俺は見張りに行く!」
「おい、待て」
天沢が星座模様のネクタイを整えながら警告する。
「さっきのトカゲは、まだどこに潜んでいるのかわからないんだぞ」
「バカか、穴が開いたままのバリケードを放置できないだろ」
言葉をかぶせる桐村。口は悪いが、言っていることは正しい。それでも単独行動の危険性は無視できないのだが、桐村は聞く耳を持つつもりはなかった。苛立ちをぶつけるように勢いよくドアを開け出ていった。
「……あいつ、何か企んでるんじゃないか?」
「気にするな。さっさと食べて、次の作業に移ろう。時間は有限だ」
心配する天沢に対し、権藤は平然とカレーを口に運ぶ。
藍川も少し気がかりではあったが、隣の席にいる片瀬が気になって仕方がなかった。しかも肘がわずかに触れ合ったものだから、背筋がぴんと伸びた。
「……っ!」
「食事中にすみません。剣崎さんと小野さんの容体を教えてもらえませんか?」
近くにいる片瀬が身を乗り出して話しかけたのは、前に座る亜香里だった。看護師の彼女は浮かない表情をする。
「二人とも社長室で休んでいます。小野さんは脈拍と呼吸は安定してきましたが、残念ながら意識が戻りそうな兆候はみられません」
藍川は片瀬を過剰に意識している。そのせいで、握っていたおにぎりから一粒のご飯がこぼれ落ちても、目線はぼーと隣の片瀬に向いたままだ。
「剣崎さんは意識こそありますが、三十九度三分の高熱があります。傷口から細菌感染を起こし、敗血症の危険性も」
「猶予はどれくらいありますか?」
「抗生物質がない場合、明日までに適切な治療を受けなければ、命に係わる可能性も」
この会話は権藤にも聞こえていた。
重いため息をつくと、腹の脂肪がスーツの下で波打つ。
「こんな状況だ。治療を受け付けている病院があるとは思えん。自衛隊の救助を待つほかないだろうな」
窓の外では、台風の接近を告げるかのように雷鳴がゴロゴロと鳴っている。雲の流れも激しい。
代案のないメンバーたちの沈黙が、室内の空気を重苦しくする。
藍川も気が沈み、首を垂れた。ここでやっと、自分がこぼしたご飯粒に気付く。恥ずかしそうにサッと指で拾い上げ、こっそりと隠すのだった。
◇
桐村の思考は悪循環に陥っていた。
認められない。評価されない。誰からも愛されない。
理由は簡単。みんなが間違っているからだ。片瀬が偽善的に振る舞うから誰もが騙されているんだ。どいつもこいつも愚かだ。
自分だけが正しい。そんな論理が、彼の心の均衡を保っていた。しかし、その均衡は権藤の一言で変わった。
「お前のキャリアも終わりだ」
それは、彼が特別であり続けるという幻想に亀裂を入れた。
桐村が足を向けたのはバリケード前ではない。同じフロアのコーポレート部オフィスだった。靴音は絨毯に吸い込まれるように消えていく。
オフィスの窓。外では、今もウミガメのような膠喰体が張り付いている。
昨夜は暗くてよくわからなかったが、改めて見ればそれなりに大きい。全長はおよそ一メートルほどだろうか。
鉛色の甲羅に覆われたその姿は、手足を引っ込めたウミガメのようだった。
腹には吸盤状の器官があり、窓ガラスにしっかりと吸着している。粘体の中心から突起した核が眼のようになって、こちらを覗き込んでいるようだった。
物言わぬはずの核の目。なぜかそれが、自分を蔑んでいるように見えた。
「何を見ている!何様のつもりだ!」
弱者を見下す目。かつて自分を嘲笑ったクラスメイトたちと同じ目。
そして権藤が自分を見る、あの勝ち誇った目。
そして穏やかで、敵意すらも受け流し、自分を取るに足らない相手として見ている、片瀬の目。
(あいつは偽善者だ。あいつは裏で何を考えているかわからない。俺は、俺は……)
自分は片瀬よりも優れている。そう信じていた。少なくとも、そう信じなければ、プライドが保てなかった。頭の良さも、人脈も、藍川の心も。何一つ、自分は持っていないから。
「っざけんな……」
膠喰体の核が、ゆっくりと上下に揺れた。
それが桐村には、嘲笑われたように見えた。
「化け物のくせに、この俺をコケにしやがって!」
理性の糸がプツリと切れる。
叫びながら傍にあったマグカップを掴み、全身の力を込めて窓へ投げつけた。
──ガシャーン!
窓ガラスは砕け散った。冷たい外気が流れ込む。
窓枠から剥がれ、ボトリと落ちた。
オフィスの床に落ちた塊が、ゆっくりと形を変えていく。
ぶくっ……ぶくっ……。
ゼリー状の粘体が膨張する。
膠喰体の核が、獲物を発見した犬の鼻のようにヒクヒクした。
手足のないウミガメの甲羅のような所から、触手が伸びて、身体の動かし方を学習するかのように動き回る。
「あ……ああ……?」
我に返った。
自分が何をしたのか、気づいた。これはもう、戻れない一歩。
止まらない。下り坂で手放したボールのように、転がっていく。
同時に、恐怖が襲う。
膝は震え、喉はカラカラ。逃げなければ、そう頭では理解していても、身体は硬直して動かない。背筋を伝う汗が、身を凍りつかせていた。
細い糸状の触手が伸びてきた。床を這い、桐村の革靴に触れる。
「ひっ!」
サッと足を引く。
靴の先端が溶けていた。
白煙と共に、革の焼ける匂いが立ち上る。
(動け!動かないと!)
すくむ足を奮い立たせようと、後ろへ跳ね退く。
瞬間、触手が鋭い速さで振り上げられた。
肩をかすめて天井を貫く。
コンクリートがジュルジュルと溶ける。
更には四本の触手が伸び、脚のように立ち上がった。
「うわああっ!」
恐怖そのものが喉から迸り、体が弾け飛ぶように動く。
転びそうになるのを必死でバランスを取りながら、駆けだす。
背後からは、ブチッブチッと、絨毯が溶ける音が迫る。
廊下に飛び出た。
背筋を伝う寒気は止まらない。
「はあ……はあ……」
来るな、来るな、という心の叫び。
息が上がり、肺が焼けるように痛い。それでも走る。階段まであと少し。
カッカッカッと、固い靴底のような音がした。
走る速度を落としながらも、振り返らずにいられない。
ちらりと確認した桐村の目に、怪物が接近する姿が焼き付く。
床に触れる触手の先端を硬化させ、より素早くなって四足で駆け立てていた。
「なんなんだよ!クソがぁああ!」
叫びながら階段へ飛び込む。
三段飛ばしで駆け上がる。
震える足がもつれ、手すりにしがみつく。
この瞬間、彼の頭には権藤のことも、会社での立場も消え去っていた。
彼は、誰かのせいにしなければならなかった。自分が間違いだったと認めるくらいなら、憎しみに身を焼かれるほうが、まだマシだった。
これが、桐村康という男の根底にあるもの。
誰よりも特別でありたいと願いながら、それが叶わないたびに他人のせいにしてきた。弱さと向き合うことから、ひたすら逃げ続けてきた。
今も、彼は逃げている。追いかけてくる膠喰体からではなく、自分自身の鏡像から逃げていた。




