29話 涙の解放
四階営業部オフィス。
藍川にとって見慣れたはずの床には書類が散乱し、天井にはLED灯が無機質な骸骨のようにぶら下がっている。
そんな環境で、彼女は自分の席で落ち着きを取り戻そうとする。スパナ型キーホルダーを握る手。無数にある小さな傷痕は、整備士の夢を諦めた悔しさを物語っていた。
(バカみたい)
その自答は、大切な人を軽んじた桐村への怒りというよりも、自分への失望に近い。
父が殉職した後、母に逆らえず選んだのが今の道だ。母のコネで入ったこの会社で働くと決めたのは自分なのに、キーホルダーの冷たい感触が、諦めた夢の温度を伝えてくる。
気が沈む。すると、聞き慣れた足音が耳に届く。
大股で急ぎ足だけど、周りに遠慮するような控えめの駆け足。振り向かずとも、彼女にはそれが片瀬だとわかった。
染みついた反応で顔を上げたくなる。片瀬の気配は、なんとなく父に似ている。懐かしい、あの落ち着いた雰囲気にはいつも安心感を得たくなる。しかし弱いところを見られたくない藍川は、顔を伏せたまま動けなかった。
「大丈夫ですか?」
優しさと優柔不断は紙一重。
そこに違いがあるとすれば、受け止める側の気持ち差だと藍川は思っていた。
しかし片瀬をよく知るようになってから、少し考えが変わった。
行動が伴わない優しさは、甘いだけ。
きっと行動にはリスクが付きまとう。
だから安全な場所で優しさを語られても、響かない。
片瀬は違った。周囲に配慮し、最適な行動をとる。だから落ち込んでいる人がいれば、傍に行って、声を掛ける。行動を伴った気遣いだからこそ、心に響く。
だから片瀬に惹かれた。しかしそれでも、自分の弱さをさらけ出す勇気はなかった。
「すみません。少しだけ、ひとりにさせてもらえますか」
藍川はいつも明るく振る舞う。
なのに今は、背筋が萎れている。
普段と違い、弱っている。
片瀬には後悔があった。
この数日間、小野の精神状態の悪化を知りながらも寄り添えなかった。
また同じように、弱っている人を見過ごすことは出来ない。
少しでも藍川を勇気づけたい。そんな強い気持ちがあった。
「……小野さんのこと、俺はとても立派だと思いました」
藍川は、誰かに認められることなど期待していない。
褒められるなんて考えたことすらない。
なぜなら、母からは「しっかりして」としか言われず。同僚からは「元気な藍川さん、強い藍川さん、生意気な藍川」そんな風にしか見られない日々だったから。
思えば、片瀬はいつも本質を見てくれた。だからこそ、心を許せたのかもしれない。無意識に顔を上げた藍川の左頬は、小野に叩かれた痕がまだ残っている。
「小野さんを一番最初に抱き止めたのは、藍川さんでした。看護師の星月さんよりも早く」
「……違います。私はただ、母のことで慣れていただけです」
口から出たのは、いつもの強い藍川の台詞。
しかし本音は、その枷が重くて仕方ない。
「あなたは小野さんに、怖かったよねって言った。あれは誰かを思いやれる、優しくて、心の強い人の言葉です」
心の防壁が揺らぐ。
藍川一九が、誰にも言えずに抱え続けてきた秘密。
それは、父が死んだあの日から、一度も弱音を吐けなかったこと。
整備士になりたかった夢も。
母のコネで決めた今の仕事も。
全部、「強くならなければならない」という呪縛の上に積み重ねてきた。
だから彼女は、人を支えることには慣れていた。
けれど。
誰かに支えられることだけは、どうしてもできなかった。
弱音を吐けば、母はもっと苦しむ。
泣けば、父の代わりにはなれない。
そう信じて生きてきた。
それが、藍川一九の秘密。
自分自身すらも、欺いてきた秘密だった。
「でも藍川さん……強い人は、頼り方を、甘え方を知らないです」
父の遺影の前で、お父さんみたいに強くなると誓った日。
泣き崩れる母を支えると決意した日。
それからずっと、弱音を吐けなかった。
なのに今は、鼻の奥がツンと痛くなる。
父と似ている片瀬といると、弱さを上手く隠せない。素の自分が出てしまう。
「……ひどいんです。みんな片瀬さんのこと疑って、私だって」
声が震える。ひび割れて、言葉にならない。
剣崎の警告を聞いた時、一瞬だけ片瀬を疑った自分が情けなかった。
父を失った時の無力感と重なって、信じることを恐れたのだ。
「剣崎さんから、片瀬さんを信用するなって言われたんです。私、そのとき……」
「迷ったんですね」
激しく首を振った。拳がスカートの上で震える。
「怖くなったんです。もし片瀬さんが本当に、そんな人だったらって」
片瀬は優しい表情で、藍川の肩に手を添えた。
「藍川さん。本当に辛いときは、弱音を吐いても良いんですよ」
その言葉に、藍川の胸が大きく揺れた。
父がよく言っていた言葉だった。
心のどこかで望んでいた、聞きたかった言葉だった。
「でも弱音を吐いたら、みんなも不安に……」
「大丈夫です」
片瀬の手。今度は、藍川の握りしめた拳の上にそっと覆いかぶさった。
時計の革ベルトが藍川の手首に触れ、温もりを感じた。
「もう十分に頑張っている。小野さんを支え、鈴音ちゃんを守り、俺も励ましてくれた。疲れたら休むように、悲しい時は泣いて良いんです」
俯いたまま固く閉じられた瞳。
そこから、涙がこぼれた。
キーホルダーの銀色の部分を伝って、床に落ちた。
「うう……あのね……あのね」
子供のように言葉を繋ぎながら、藍川はようやく、弱音を吐き出せた。
心の中には、父が亡くなった日の、十四歳の少女が今も閉じ込められたままだった。
全てのしがらみが、解放され、洗い流されていく。
「私は……ずっと、ずっと……!」
そっとだった。
片瀬は藍川の泣き崩れた顔を隠すように、頭をその胸へと導く。
涙が、片瀬のシャツにじんわりと染み込んでいく。
彼女は母から暴言を受けても、胸が張り裂けそうでも、「大丈夫だよ」と嘘を重ねてきた。望まない仕事で嫌なことがあっても、愛想笑いで乗り越えてきた。
「今まで、よく耐えてきたね」
その一言に救われた。
「うっうわぁああああ」
閉じ込めていた感情の堰が決壊した。泣きじゃくった。
額を片瀬の鎖骨に押し付け、彼のシャツの襟を握りしめた。
これまでは、隠れてしか泣けなかった。
誰にも頼れなかった。
弱さを見せることだけは、どうしてもできなかった。
なのに今は、子どものように泣いている。
止めようとしても、もう止まらなかった。
いつもいつも、彼女は悲しい時、隠れて、声を押し殺して泣いた。
なのに、片瀬が膠喰体から亜香里たち親子を助けるために飛び出して行った時から、彼女は自分の弱さを知った。
彼の遠ざかる背中を見て、彼女は思った。
(もし片瀬さんを失ったら)
そんな場面が頭をよぎった時、心が砕け散りそうになった。
今まで誰にも抱いたことのない。守るべき立場だった自分が、初めて(この人だけ失いたくない)と、渇望に似た欲求に支配された。
彼だけが、強がる自分の裏側にある脆さに気づき、支えてくれていた。それは父がしてくれたことと重なったからこそ、彼の前では鎧を脱げた。安心できて心を許せる。弱音を吐き、泣きじゃくれる自分がいた。
「大丈夫ですよ」
頭の上から響く優しい声。
大きな手が背中をゆっくりと撫でる。
掌の温もりは、凍えた心に染み渡る湯のように、じんわりと広がった。
さらに強くしがみつく。もっと甘えたかった。離れたくなかった。
(離れたくない!離したくない!)
ぎゅっと抱きつく彼の胸から、安定した鼓動が伝わる。
生きている証。まだここにいるという確かさ。その安心感が、心を安定させる。
シャツの生地の感触。ほのかに漂う彼の匂いは、洗剤の香りに混ざった自然な体温のぬくもり。それが愛おしくてたまらない。
(ずっとこのままがいい、離れたくない)
そう思った瞬間、息が一瞬止まる。
急に鼓動が耳元で激しく鳴り、頬が火照った。
(もしかして……私……片瀬さんに……)
胸の奥で揺らめいていたものが、はっきりと形を成す。
これまでの彼への思いが、尊敬や信頼を超えていることに、やっと気づいた。
父のような存在として慕っていた感情が、いつの間にかもっと複雑で、切ないものであったことを、ここで自覚した。
(……恋、してる)
自覚した途端、カーッと顔が熱くなった。
(どうして、今、このタイミングで!)
非常時だというのに、膠喰体がいつ襲ってくるかわからないというのに。それでも、この感情は止められない。ますます顔を上げられない。泣き腫らした目、崩れたメイク、鼻を啜るみっともない声。こんな顔を見られでもしたら、恥ずかしくて死んでしまう……。
「藍川さん……」
彼は少し身を屈め、藍川の俯いた顔を覗き込もうとした。
(見ないで)
けれど、身体は拒めない。
彼の胸から離れたくなかった。
むしろぎゅっと強く締めている自分に気がつく。
まだ甘え足りなかった。
片瀬はポケットからハンカチを取り出す。
「顔、拭かせてください」
小さな子供を諭す親のような声。
藍川は遠慮がちではあるが、素直にクッと顎を上げた。
涙で濡れた頬を、ハンカチが優しく撫でる。力加減はほどよく、拭うというより、包み込むような動き。藍川は思わず、目を閉じた。
(気持ちいい)
彼の前でなら、素直になれる。心から気を許せて、身を預けられた。
幼い頃、母に髪を梳かしてもらった時のことを思い出す。あの頃はまだ、父も生きていて、母も笑っていた。
ハンカチが、ふと止まった。
藍川がゆっくりとまぶたを開く。
すぐ目の前に、片瀬の瞳があった。
あまりにも近い。
互いの吐息が、頬へ触れる距離。
目を逸らさなければ。
そう思うのに、逸らせない。
彼の瞳が、自分を映している。
泣き腫らした目も。
赤く染まった頬も。
震える唇も。
全部、見られてしまっている。
「片瀬、さん……」
名前を呼ぶ声さえ震えた。
彼の視線が、そっと唇へ落ちる。
その視線に導かれるように、藍川はほんの少しだけ顎を上げた。
(……あれ?)
自分でも、どうしてそんなことをしたのかわからない。
彼も何も言わない。
それでも視線だけは離れない。
ふっくらした唇を、つい舌で湿らせる。
互いの顔が、ほんの少し、近づく。
あと数センチ。
互いの睫毛が触れ合いそう。
視界がゆっくりとぼやける。
鼓動だけが、胸の奥で激しく鳴り続ける。
世界から音が消えていく。
雨音さえ遠い。
見えているのは、もう互いだけだった。
ゆっくりと。
本当に、ゆっくりと。
互いに吸い寄せられるように、距離が縮まっていく。
(そんな顔、しないで……)
胸の奥が熱い。
苦しいほど、愛おしい。
もう止まれない。
――。
「藍川さーん、片瀬さーん」
探るような鈴音の声。
ハッとした二人は、まるで磁石の同極が反発するかのように離れた。
「「はっはい!」」
声を揃えて返事をした。
「もぉ~、声が大きいよ。まだどこかにいるかもしれないから、危ないんだよ」
鈴音と手を繋ぐ、亜香里もいた。
ふたりは、まだどこかに潜んでいるかもしれない膠喰体を警戒して足音を消していたのだが、亜香里は片瀬たちを見て、ピンと大人の勘が働く。
「あらっ、お邪魔だったようでぇ」
鈴音の手を引いて出て行こうとする。その表情はニヤニヤしていた。
「だっ大丈夫です!」
顔を真っ赤に染めた片瀬と藍川が、さっと立ち上がる。
藍川は思わず両手で顔を覆い、熱さを隠そうとした。
鈴音はきょとんとした表情で二人を見比べたが、すぐ笑顔に戻る。
「ご飯の準備ができたよ」
「す、すぐ行きます」
「えっとね、おにぎりもあるよ!」
頬を緩めている亜香里は「ごゆっくり」と遠慮がちに告げる。
不思議そうに首を傾げる鈴音の背を押し、その場からそそくさと出て行った。
その後ろ姿を眺める藍川は、唇の感触を確かめるように甘噛み、耳まで赤くして考え込む。
あの一瞬、間違いなく彼の唇が自分のに触れる寸前だった。
(さっきの、あれは)
片瀬もまた何かを飲み込み、言葉を絞り出す。
「……い、行こうか」
「は、はい」
藍川の背筋がシャンと伸びた。
二人は顔を見合わせられない。
それでも歩幅だけは、不思議と揃っていた。




