28話 驕りの代償
空は厚い雨雲に覆われながらも、窓ガラスは白昼の淡い光を煌めかしていた。
移ろう光と影。明暗のリズムを生み出す中、片瀬は見張りをしていた天沢たちに声をかける。
「おはようございます。異常はありませんでしたか?」
「ああ、おはよう。特に何もなかったよ」
天沢の目は充血しているものの、どこか輝いていた。少なくとも、昨夜までの沈んだ雰囲気はない。
「ただね、風向きが変わってきてる。台風の影響だろうな」
亜香里も片瀬に挨拶をした後、補足を入れる。
「雨粒も徐々に大きくなっています。ただ五階の雨漏りは片瀬さんが窓枠の補強を済ませてくれたおかげで、大丈夫そうでしたよ」
二人には、ほのかな安堵があった。
昨夜までの亜香里には、看護師として役目を保とうとするあまり硬さがあった。それが今では、頬にわずかな赤みが戻り、長い睫毛の下にある切れ長の瞳も落ち着きが戻っている。
天沢も無理に明るく振る舞おうとする硬さがとれ、肩を回せば関節が柔らかくなるのがわかるほど力が抜けていた。
「窓の補強は下の階も後でやっておきます。でもまずは食事にしましょうか。会議室で準備していますから、行きましょう」
膠喰体の脅威は相変わらず。自衛隊の救援も不透明のまま。
それでも一晩明け、仲間たちの表情には少しばかりの生命力が戻っていた。
◇
その頃、大会議室では――桐村がお弁当を並べながら、藍川に話しかけている。八重歯の光る笑顔を期待し、わざとらしく距離を詰めていた。
「部長ってさ、実は単純でわかりやすいんだよ。あの人は認められたいって欲がはっきりしてるから扱いやすいんだ」
自尊心を隠しきれない口調でありながら、謙虚さは装いたい。あるいは、知的な振る舞いがこの集団を支えている。そんな主張を彼はしたかった。
しかし藍川には、自分を大きく見せようとしているようにしか聞こえなかった。つまり興味のない、つまらない話だった。
「だがな、片瀬は胡散臭い。ああいう奴は裏で何考えてるかわからないからな」
藍川の眉間に皺が入る。剣崎の、「片瀬をあまり信用するな」という警告も重なったのだ。
(なぜこんな、人を貶めるような話題ばかりになるんだろう。片瀬さんは、誰よりも献身的に頑張っているのに……)
配っているパンの袋を、無意識に強く握ってしまう。
指先に伝わるパリパリという音が、かろうじて怒りを抑えるリズムになっていた。
「それってつまり。桐村さんは部長を利用してるってことですか?」
顔を上げた藍川の瞳には、桐村が期待していたものとは違う冷たさを宿している。しかし桐村は、話に興味を持ってくれたと誤解した。口角が上がり、ホワイトニングの歯を光らせて饒舌になる。
「利用じゃない。価値を与えてるんだ。部長は褒められたい、俺は褒めてあげる。Win-Winの関係だろ?」
「片瀬さんは、そんな風に考えたりしません」
「藍川は単純だな。だからあいつは怪しいんだよ」
桐村は相手を見下すことで、自らの優位性を保つ。そんな悪癖が、彼の言葉の端々ににじみ出ていた。
「人間なら誰だって欲がある。なのにあいつは聖人君子みたいに振る舞う。人間味が無い。まるで人形みたいだと思わないか?」
配膳していたパンを握りつぶしてしまった。小麦粉の粉が指の間からこぼれ落ちる。無残な形に変形したパンが、彼女の内なる怒りを象徴していた。
「そもそも無欲な奴ってのはな、何も成し遂げられない負け犬の思考なんだよ。無害だが、何の生産性もない。生きている価値も意味も、男としての魅力もない、それが片瀬の本性」
「いい加減にして下さい!」――バンッ!
藍川の掌がテーブルを叩きつけた。衝撃で、並べられた食器が跳ね上がる。睫毛が逆立つほど見開かれた目からは、今にも炎が噴き出しそうな熱気が放射されていた。
「何も知らないくせにっ」
この藍川の反応は、桐村にとって思いがけないことだった。取り繕って笑顔を作ろうとするが、焦って頬は痙攣している。藍川の瞳に映る自分が、どんどん小さくなるような錯覚に囚われていた。
「おい、落ち着けよ。なにをそんなカッカしてんだ?ただの雑談だろ」
桐村は、藍川の怒りの本質を理解しようとしなかった。彼女がどれだけ片瀬を尊敬し、その人格を侮辱されることに耐えられないのか。その深い部分に思い至る想像力が欠落していた。
だからこそ、彼女の瞳がある種で冷たくなりつつあるのも見逃してしまう。
「もういいですっ」
もう聞く耳を持たない。同じ空間にいることに拒否反応を起こし、立ち去ろうと大股でドアへと向かう。そこへちょうど入ってきたのは、権藤部長だった。
「――おっと」
ぶつかりそうになるが、藍川は振り返りもせず廊下へと駆け出した。
権藤は太い眉をひそめる。だが身体の向き先はぶつかりそうになった藍川ではなく、桐村だった。
権藤の視線には、明らかな猜疑心が込められていた。
「おい。さっきの話は何だ?誰が扱いやすいだって?」
(やばい!聞かれていたのか)
桐村は反射的に後ずり、太腿に机がガタンっとぶつかった。
権藤が迫りくる。
動揺した桐村は、酸欠状態の金魚のように口がぱくぱくと開いていた。
「お前、俺をナメていたのか」
「と、とんでもありません!私はいつだって部長をっ」
「誰が、単純でわかりやすいだって!?」
権藤の太く重い足が一歩、また一歩と近づく。肉厚の影が桐村を覆い尽くす。
背中が壁にぶつかる。もう後ずさりできない。逃げ場を失ったネズミのように、瞳孔が左右に揺れる。
「俺がこの会社で三十年、どうやって生きて来たか知りたいか?」
権藤の太い指が桐村のネクタイを掴む。絞めつける力で、首元が締め上げられた。
「お前みたいな小賢しい真似する奴を、何人も干してきた。部下のひとりくらい、俺の指示ひとつでどうだって出来るんだぞ」
喉仏がゴクリと上下する。
その時、ドアの向こうから天沢たちの陽気な笑い声が聞こえてきた。
桐村の目が、カメラのシャッターのように瞬く。
焦っていた。自分の失態を、他の誰かに知られるのは避けたい。弱みを握られたくなかった。
「部長、誤解です。私はっ」
「黙れ!」
権藤の唾が顔面に飛び散った。低音の咆哮が鼓膜を揺らす。
「この非常事態が終わったら、お前のキャリアも終わりだ。クビだけじゃ済まさねぇぞ。徹底的に潰してやるからな」
そこでガチャリとドアノブが回る音。権藤の眉がピクリと動く。
天沢の弾んだ声が流れ込んだ。
「おー、飯の準備できてるなっ!そんじゃあみんなで……」
不穏な様子に気づいた天沢は、口が途中で固まった。
権藤はサッと桐村から手を離し、表情を切り替える。まるで何事もなかったようにして……。
「ああ、ちょうど良かった。みんなで食べよう」
急激に緩まった表情。その豹変ぶりに、誰もが戸惑う。
崩れ落ちそうな膝を支えた桐村の頬はひきつり、薄い唇から血色が消えていた。
一方で片瀬は、大会議室の食卓を見回している。
(藍川さんがいない)
ついさっきまで藍川は食事の準備をしていた。なのに今、権藤と桐村の間には不穏な空気がある。この雰囲気を放置して、藍川が席を外すとは思えない。
何かあったのかもと、心配になった。
「天沢さん、すみません。藍川さんを探してきます」
そう告げて、この場を離れた。
膠喰体は今もどこかで潜んでいる。単独行動は危険だ。
片瀬は理性的な考えのもと、同僚として心配していると思い込んでいる。
しかし、それは違う。もっと強い、別の感情が脈打っていた。仲間としてではなく、一人の女性として、藍川の安否が気がかりでならなかったのだ。




