27話 光と闇の狭間
膠喰体の襲撃から、二日目の夜が明けた。
自衛隊は撤退。街は静寂に包まれ、炎上した戦車の残骸が黒い骨のように転がっている。誰も何も口に出さないが、希望が抜け落ちていた。
「見張りが必要だな。今日は俺がやる」
天沢が重苦しい空気を払拭するように言った。そんな彼の目は、連日の寝不足で充血している。
「一緒に行きます」
亜香里も申し出ると、母の袖を掴んでいた鈴音の小さな手が、名残惜しそうに離れた。
「お母さん、わたしなら一人でいられるから」
「鈴音ちゃんの傍には私がいますね」
鈴音の強がりに、近くにいた藍川が優しい目でその小さな頭をそっと撫でた。そんな藍川の微笑は弱々しくぎこちない。
この二日間で、誰もの生命力が削り取られていた。疲労は色濃い。
本来なら男女別々に分かれて寝るべきところだが、今は誰もそれを口にする気力がない。ただ互いの息遣いを確かめ合うように、各々はその場で身を横たえた。
◇
五階廊下を巡回する二人。
雨筋が窓ガラスを伝う。曇天から差し込む朝日が、天沢晴の星座模様のスーツにゆらめく影を落とす。
「風向きが南東に変わった。これは台風の渦に巻き込まれつつあるな」
天沢は雨煙る街並みを見つめる。
亜香里は窓に額を寄せ、冷たいガラスにそっと触れながら考え事をしていた。
(あのとき、鈴音がお腹が痛いと言わなかったら)
――膠喰体が現れた日のこと。
鈴音はたまにあるストレス性の腹痛で、お腹を小さな手で押さえていた。
仕事が終わるまで我慢できるか聞いたら、鈴音は泣きそうな顔でうなずいた。
(いつも、我慢させてばかりだった)
娘が涙ぐむ姿に胸を打った亜香里は、悩んだ末に職場の病院に連れて行く。職員用の休憩スペースで休ませた。その選択が、今では奇跡的な幸運のように感じる。
あれは午前の、患者の検温を終えたときだ。Jアラートが鳴ると同時に、病院は襲撃を受けパニックに包まれた。
看護師としての義務感。母親としての本能。それらが葛藤する中、亜香里は娘の手を引いた。
「鈴音、逃げるよ!」
病院の非常口から飛び出した瞬間、背後でガラスが砕ける音がした。振り返れば、半透明のゼリー状の塊が廊下を這いずり、看護師仲間の悲鳴が聞こえた。
選択を迫られていた。
亜香里は、走った。
前だけを見て。
振り返らずに。
仲間の悲鳴を背中に受けながら。
看護師なら、戻るべきだったのかもしれない。
患者を助けるべきだったのかもしれない。
同僚の手を取るべきだったのかもしれない。
けれど、その手には鈴音がいた。
小さな指が、震えながら自分の手を握っていた。
その温もりを離すことだけは、どうしてもできなかった。
(私は、逃げた)
それが、星月亜香里が誰にも言えずに抱え続けてきた秘密。
母親として当然の選択だとしても、看護師としての自分は許せずにいた。
命を救うべき立場の者が、命を選んで逃げてしまった。その思いが、罪の意識として重くのしかかっていた。
亜香里たちが逃げた街は、地獄絵図だった。
ビルは傾き、道路には亀裂が走っている。逃げ惑う人々の間を縫うように、地下に向かおうと駅を目指した。
「お母さん、あれ、あれは何?」
鈴音が指さした先で、逃げ遅れたスーツ姿の男性が膠喰体に包まれていた。みるみるうちに肉が溶け、骨さえも消化されていく。
「見たらだめ!」
駅前広場では、さらに悲惨な光景だった。
逃げ場を失った人々が次々と捕食される。
地上は生きたまま消化される人々の悲鳴で、埋め尽くされていた。
(私は命を救うべき立場なのに……見捨てた)
自責の念が、心を苛み続ける。
その後は、警官に導かれて近くの商業ビルへ向かった。
振り返ると、数十メートルはある巨大な膠喰体が飛翔してきた。電柱ほどの触手が暴れる。たどり着いたビルの自動ドアは開かない。施錠されていた。目の前が、絶望の色に染まる。
だが、警察官は使命を果たす。
その瞳には揺るぎない決意が燃えていた。
ドアガラスに向かって警棒を振り下ろす。一度、二度。ガシャン!と。手に伝わる衝撃で虎口が裂け、血がにじむ。それでも彼は止まらなかった。傷だらけになるのもいとわず、ドアガラスをたたき割った。
「早く中に入れ!」
亜香里は鈴音を抱きかかえ、割れたガラスの隙間からビル内へと飛び込む。背後で聞こえた叫びは、今でも耳から離れない。
「子供を、守れ……!」
警察官は膠喰体に胸を貫かれていた。その叫びと共に、彼の身体はゼリー状の塊に包まれ、みるみる溶解していった。
最期まで彼はこちらの方を見つめ、唇を動かしていた。その形は、間違いなく「守れ」だった。
亜香里は息を飲む。今ここに生きていられるの奇跡であり、同時に彼女が抱え続ける罪という名の秘密のおかげだと。
――窓ガラスに伝う雨粒は、警官の最期の叫びを連想させた。
ガラスに飛び散った、まだ若い警官の血だ……。
「星月さん?」
天沢の声が、暴走しかけた記憶を現実へ引き戻す。
廊下の冷たい空気。雨の匂い。そして隣に立つ天沢の存在。それらが、過去の悪夢を今この瞬間へと繋ぎ止める錨となった。
ここで亜香里は、あることに気付く。
この人と出会う確率だ。それは統計的に考えて、どれほど稀有なのだろう。毎朝テレビで見ていた顔が、今や同じ絶望を分かち合う隣人としてここにいる。
そして、もう一つ。
天沢は「失敗を恐れない」と公言する男だ。笑われても、間違えても、それでも前に進む。彼は失敗を恐れずに立ち向かう。決して逃げない。
(――私は、逃げたのに)
その対比が胸に刺さる。彼女が天沢に惹かれるのは、彼が自分にはないものを持っているからだ。彼は逃げない。失敗しても笑い飛ばす。それが、自分にはどうしてもできない。
「……天沢先生の傘指数。毎朝チェックしてました。雨の日は特に」
頭の中で思っていたことが、言葉に出て喉につかえた。これは些細な、日常の会話。だがそれが、生きている実感を取り戻す大切な儀式になった。
「あのコーナー、実は局の評判は悪かったんだよ。ディレクターも、降水確率と紫外線の量で傘の数値なんてヘンって渋ってさ」
天沢の声が、雨に濡れた廊下に吸い込まれていく。
亜香里は窓の結露に指先を当て、ゆっくり線を引いた。
「私は好きでしたよ。五十%なら折り畳み傘、でも紫外線が強いなら日傘しよう。『今日はこれでいいんだ』って、背中を押してもらえた気がして」
「おっ?さては合理主義かな?」
「そうじゃないんです」
亜香里の指が窓ガラスで丸い顔を描く。雨粒がそれを涙のように流す。
「判断に迷うことが多くて、離婚する時も、夜勤続きで鈴音をひとりにする時も。天気予報の降水確率みたいに、数値でこうしようって決められたらって」
「正しいかどうかなんて、後にならないと分からない……でもさ、その時に必死で決めた答えなら、それはもう誰にも笑えないと思う」
天沢は、なんでもないことのように言った。
亜香里は、隣にいた天沢の息遣いが止まったのに気づく。
隣にいる彼は珍しく、真顔で窓の外を見つめていた。
風が強まる。非常時の非日常が、不思議な親近感を生んでいた。
「鈴音ちゃん、藍川さんとよく話してるな」
「え?」
「あの子、片瀬君のことを理想の彼氏って言ってたよ」
亜香里の耳が熱くなる。
先日の記憶が蘇る。鈴音が藍川に小声で質問していた場面だ。
「すみません。あの子最近、妙に大人びてて」
「いや、いいことだ。お母さんが頑張ってる背中を見てるから。多少の背伸びは、成長には欠かせないだろ」
窓に映る天沢の横顔が、テレビとは違う等身大の優しさを帯びている。
「私なんて夜勤続きで、鈴音の夕食はコンビニとかレトルトばかりなんです」
「それでもさ」
天沢は静かに言った。
「鈴音ちゃん。お母さんみたいな人になりたいって言ってたぞ」
「本当ですか?」
「俺の天気予報より確かだ」
亜香里は目を丸くする。二人の笑い声が、廊下の向こう側まで微かにこだました。
その時、亜香里の中で何かが溶けた。
(私は、逃げた。あの日、病院から逃げた。でも……)
鈴音が生きている。
それだけで、あの選択が間違いだったとは、どうしても思えなかった。
看護師を名乗る資格を失ったかもしれない。それでも、母親として、娘を守った。その事実だけは、誰にも否定できない。
天沢は「失敗を恐れない」と口にする。でも、亜香里は思う。逃げることも、時には必要な選択なのかもしれない。だって、逃げたからこそ、今ここに鈴音と共にいられる。天沢たちとであることができた――それが、今出せる彼女なりの答えだった。
この会話を聞いているものがいた。
ドアの隙間からこっそり覗く少女。鈴音にとって、これは思いがけない光景だった。
母が心から頬を緩ませて笑っている。取り繕った笑顔ではない。そんな姿、久しぶりに見た。だから鈴音も嬉しくて、母と同じように自然な笑みがこぼれていた。
(お母さん、こんな顔、できたんだ)
鈴音の、秘密。
それはどんなにつらくても、寂しくても、「大丈夫」と言い続けてきたこと。
母に負担をかけたくなかった。でも今、母は誰かに心を開いて笑っている。それは、自分が無理に強がらなくても、母はちゃんと生きていけるという証拠であった。
その気づきが、鈴音の胸に小さな安堵をもたらした。
(邪魔したらダメだ)
そっとドアを閉める。
鈴音は指先に伝わるドアの重みが、なぜか軽く感じられた。
それからも、天沢は自分の失敗談を面白おかしく話し続ける。
「まあ俺の天気予報は、上司からよく当たるとは言われているが、たまにトンデモなので困ると嘆かれているんだけどね」
彼は照れ隠しに逆立った髪を掻きながら、雨に煙る窓の外を見やった。その横顔には、等身大の姿がある。
亜香里は、この人は失敗を笑い飛ばすのが上手いんだなと思った。少年のような無邪気さに、肩に込められていた過剰な力が抜けていった。
そこでふと、廊下に備え付けられた鏡へと目をやった。そこには思いがけない表情をした自分が映っていた――。
「天沢さん、もっとお天気の話を聞かせてください」
「おっ、ようやくファンが一人増えたかな!?」
はしゃぐ天沢の星座ネクタイが揺れる。
亜香里の顔は、もう長い間忘れていた表情が引き出されていた。
「もうずっと前から、あなたのファンですよ」
今この瞬間だけは、鏡の中にいる亜香里の頬は自然に上がっていた。
非常時の雨音は、なぜか心地よいリズム。
二人の会話はほんの少し、明日への希望を宿していた。




