2話 日常
朝の陽光がオフィスを照らす。
柔らかな光に包まれた室内で、長身を折り畳むようにデスクに向かっている片瀬義人の視線が、ふと隣の席へと移る。
そこは入社一年目の後輩、藍川一九のデスクだ。モニターの隅には、小さな銀色のスパナ型キーホルダーが揺れている。機械いじりが好きで、整備士の資格まで持っている彼女は、ときおり「なんでこうなっちゃったんだろ」と今の仕事をぼやくことがある。
それでも仕事に手を抜くことはなく、目の前の業務には真摯に向き合う。その姿勢に、片瀬はいつも感心していた。
「おい藍川、特定商品はA社固定に決まってるだろ。発注先を勝手に変えるな」
ひょろりとした体格の桐村康が、机に手をついて身を乗り出した。
「手配前には桐村さんにも確認しました。その時、金額が合ってるなら進めろとおっしゃいましたよね?」
肩までのストレートヘアが揺れる。
藍川は細身ながら姿勢がよく、真っ直ぐ桐村を見返した。
「新人のくせに口答えするな。俺がどれだけお前の面倒を見ていると思ってる」
片瀬がこれまで耳にした桐村の指導は、「売り上げトップの俺を見習え」だとか、「俺みたいに上役に気に入られる努力が足りない」といった話ばかりだった。少なくとも、具体的な指導をしている場面は見たことがない。
片瀬は、すっと立ち上がり助け舟を出す。
「横からすみません。その見積書、見せてもらえますか」
百八十五センチの長身が二人の間に割って入り、机にあった書類を手にする。ぎょっとしてのけぞる桐村に対し、藍川の視線は自然と片瀬の胸元のネクタイ結び目まで届いた。
「……こっちだと二割も安いんですね。すごい藍川さん。よく見つけましたね」
普段の藍川は品のある大人びた雰囲気だが、笑うとあどけない可愛さが出る。褒められてはにかむと、整った歯並びの中でわずかに飛び出た鋭い右の八重歯がちらりと覗いた。
「おい、安けりゃいいってもんじゃねえだぞ。付き合いってものがあるんだよ」
「でも、この価格ならA社との交渉材料にもなりますよね」
穏やかな物腰だが、桐村との身長差は十三センチもある。しかも片瀬はかなり鍛えている。思わぬ迫力が溢れ出て、桐村はわずかに視線を泳がせた。
「しゃねえな。今回は俺が上に説明する。だから片瀬、代わりに俺の担当先から来たクレーム対応行っとけ」
「えっ!?桐村さんの担当ですよね?片瀬さんは関係ないんじゃ」
「だから、俺が代わりにA社の面倒見るんだよ!」
語尾を強めた声は裏返った。これは対等な交換条件ではない。
桐村には目論みがあった。安価な取引先を見つけたと、自分の手柄として上司へ報告。面倒なクレームは押し付ける。一挙両得の企てだ。
「なぁ片瀬、別にいいよなぁ、お前ならやれるよなぁ」
「わかりました」
すぐに返答した。片瀬は腹の探り合いが苦手だ。それが災いして、損な役回りを引き受ける人間だと周囲から見なされてきた一面は確かにあった。それでも誠実な仕事ぶりと真摯に話を聞く姿勢は崩さず、取引先からの信頼は厚い。
(まあ、これまでも何度かあったことだし、別に構わないか)
「午前中までに詳細をメールでください。今日中に対応しておきますので」
巻き込んでしまって申し訳ない。藍川はそんな気持ちから肩を狭め、心苦しそうにしている。
「お~偉い偉い。さすが片瀬。つうかお前さ、どうせ良い女の前だからカッコつけてんだろ?だっせぇな、下心がバレバレだぞ」
桐村は藍川に向かってニヤリと笑った。さっきは片瀬の圧に押されてたじろいだものの、この盤面は思うままに転がしている。
安い見積もりは自分の手柄に、面倒なクレームは押しつけ、藍川の前で主導権を握った。完璧な一手。
一石二鳥どころか、三鳥も獲った気分で鼻の下が伸びる。
その笑みは人造の花のようで、ホワイトニングで白く光る歯が薄い唇の奥から覗いている。
だが藍川は、そんな思惑を見抜いていた。というより、誰の目にも明らかだった。彼の顔に書いてある。今この瞬間も「俺って凄いだろ、賢いだろ」そうアピールしているのが痛々しくて、思わず目をそらした。
逸らした視線の先で、片瀬と目が合う。藍川が少し気まずそうにはにかむと、片瀬は……。
「確かに……かなりの美人ですね。特に八重歯がチャームポイントで」
「何言ってるんですかっ!」
藍川は整った歯列の中で、飛び出た右の八重歯を舌で隠す仕草をする。顔は真っ赤だった。実は学生時代からの、ちょっとしたコンプレックスだったのだ。
(……そんな真顔で言います?)
思わずもう一度だけ片瀬を見る。
当の本人は何事もなかったように、見積書へ視線を戻していた。
◇
夕暮れの幹線道路。
急行運送のトラックが路肩に停まっていた。
運転席の男はスマホの画面にかじりつき、指先で画面を何度もスクロールしている。次々と流れ込む通知が、画面を埋め尽くしていた。
>#謎の浮遊物体の投稿者、正体判明した?
>こいつ本当に急行の配送員か?制服が偽物じゃね?
>連続窃盗事件。空き巣だ。こいつ指名手配されてるぞ。
>住所特定済み。警察に通報した。
男は膝をゆすっていた。
タバコの煙が狭い車内に澱み、汗ばんだ指先で挟んだフィルターは湿っていた。
(やべえ、どうすりゃいいんだ)
震える指で画面を更新する。新しい通知が表示された。
>コンビニの防犯カメラ画像流出。確実にお前だ。
喉が鳴る。首筋へ冷たい刃を当てられたような悪寒が走った。
――コン、コン。
窓ガラスを叩く音。肩が跳ね上がる。
恐る恐る顔を向けると、制服姿の警察官が立っていた。
頭が真っ白になる。
耳の奥では鼓動だけが大きく響く。
警察官の口が動いているのは見えるのに、言葉が頭へ入ってこない。
「すみません。少しお尋ねしたいことがあります。一度、外へ出てもらえますか」
まるで水の中から聞こえるような声だった。
鼓動が速い。息が浅い。思考がまとまらない。このままでは捕まる。
その恐怖だけが男を支配していた。
「くそっくそ!」
アクセルを踏み込む。
エンジンが唸りを上げ、トラックは急発進。
燃えさしのタバコが跳ね、太腿へ落ちた。
「熱っ!」
反射的に火種を払う。その一瞬だった。
顔を上げる。横断歩道を、ランドセルを背負った小学生が渡っていた。
(しまった!)
慌ててハンドルを切る。が、速度は乗っている。
到底、間に合わない。
男は思わず顔を背けた。
その瞬間――車体が大きく揺れた。
タイヤがアスファルトを激しく軋ませ、トラックは急激に進路を変える。
「なっ!?」
男には、見えない巨人に横っ面を殴られたような衝撃だった。
車体が傾く。
横転。
ジャアアアァッ――!!
火花を散らしながらアスファルトを削り、交差点の中央まで滑って停止。
ランドセルの少年とは、十メートル近く離れていた。
少年は何が起きたのか分からないまま、その場に立ち尽くしている。
(な、なんだ今の?)
朦朧とする視界の向こう。
一人の男が歩いていた。
背の高いスーツ姿。
男は一瞬だけこちらへ視線を向けると、そのまま何事もなかったように歩き去っていく。
「おい、待て!」
運転席から這い出そうとした瞬間だった。
「動くな!」
「手を頭の後ろに!」
警察官が一斉に駆け寄る。
腕をねじ上げられ、地面へ押さえつけられた。
頬に伝わるアスファルトの冷たさ。
苦し紛れに顔だけ上げる。
さっきのスーツ姿は、すでに人混みへ紛れて消えていた。
――事故現場へ集まる野次馬の流れに逆らうように歩きながら、片瀬は首を軽く鳴らした。
「しんど……」
こめかみの奥が脈打つ。
頭の中をかき回されるような鈍い痛みがあった。
念動能力は万能ではない。
最大出力はざっくり、肉体で動かせる質量の十倍。有効範囲は百メートルほど。無理をすれば反動は頭痛となって返ってくる。
しかも今のは突発的だったので、負担は大きかった。
(……どうやら、気付かれてはいないか)
肩の力が抜ける。もちろん、見殺しにするつもりはなかった。それでも能力を使えば、いつ秘密が露見するか分からない。人を助けたい。能力は知られたくない。その二つは、いつも天秤の上にある。
だが交差点の向こうで、警察官に保護されたランドセル姿の少年が、きょとんとしている無事な姿を見て、自然と口元を緩めた。
(……無事で、本当によかった)
それだけ確認すると、何事もなかったように駅への道を歩き始めた。
少し歩いたところで、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
着信画面には彰の文字。
双子の弟からだ。
通話ボタンを押し、スマートフォンを耳へ当てる。
「もしもし。久しぶりだな」
『兄貴。今朝のテレビに出ていた天沢晴は知っているな』
開口一番、それ。相変わらず前置きがない。
受話口から聞こえる弟の声は、自分によく似ている。一卵性双生児だから当然なのだが、電話越しに聞くたび、不思議な感覚に襲われる。まるで、自分自身と会話しているようだった。
(……兄弟なら、そんなものか)
「急にどうした。普通は『元気か』くらい聞くだろ」
彰とは昔から仲が良い。寡黙で群れるのを嫌う弟は少し粗暴な男だ。兄とは正反対の性格のようで、根っこの価値観は同じで馬が合った。
『今朝放送された動画だ。雲の中に巨大な浮遊体が映っていた』
その口調には、普段にはない張り詰めたものがあった。
『稲光が光学迷彩を乱反射した』
片瀬は思わず歩みを止める。
『天沢晴に伝えてくれ』
「は?」
『光学迷彩で姿を隠している、と』
「いや、だから俺は知り合いでも何でもないぞ」
『会えば分かる』
「分からないって」
彰は昔から独特だった。子供の頃も、学校へ遅刻しそうな時間になっても焦る様子ひとつ見せず、自分のペースを崩さなかった。そんな弟が、今日は違う。
言葉数は少ないままなのに、どこか切迫している。その温度差が、妙に引っ掛かった。
『必ず伝えてくれ』
短く、それだけ言う。
「まさか、お前。本気であれがUFOだとか言うつもりじゃないだろうな」
『悪い。詳しいことは、また後で』――ッ。
「あっ、おい。こいつ切りやがった」
一方的な電話に首を傾げる。
天沢晴。
UFOは外し続けるのに、競馬だけ妙に当たる変な学者。今朝「これは宇宙クラゲです!」と言い切っていた。
(そんな人に伝えろって言われてもなぁ)
ふと腕時計を見れば、思ったより時間が経っていた。
「まずい」
足早に駅へ向かう。
頭の片隅には、彰の言葉が残ったままだった。
――光学迷彩。
――天沢に伝えろ。
意味は分からない。でも、弟があんな声を出すのは珍しい。少し、気になった。
◇
会社へ戻る頃には、すっかり日が暮れていた。
オフィスには、まだ藍川が一人残っている。
帰ってきた片瀬を見つけると、ぱっと表情を明るくした。
「お帰りなさい。クレーム対応は大丈夫でしたか?」
「……ん、んーまぁ」
「怒られました?」
「え?」
「顔見れば分かります」
苦笑した片瀬は肩を竦めた。
「ちょっとだけね」
クレームの相手は、桐村本人に腹を立てていた。
「気(K)が利かない、融通(Y)が利かない。空気(K)も読め(Y)ない。WKY野郎!」
妙齢の女性は終始にこやかだった。だからこそ、その笑顔が恐ろしかった。
「私が、そのWKY野郎に何て言われたか聞きたいですか?」
笑っている。なのに目だけが笑っていない。
片瀬は何も言い返せなかった。桐村なら、失礼なことを平気で言いそうだと思ってしまったから。
話を聞き終えた藍川は、唇を尖らせた。
「あんな人の呼び名なんて、別に気にする必要ないですよ」
「いや、でもさ」
片瀬は真面目な顔で言う。
「桐村さんのフルネームは桐村、康で、イニシャルがKY。だから、トリプルなんだよ」
一拍置いて続ける。
「しかも俺のイニシャルもKY。なんだか人ごとじゃなくてさ」
藍川はきょとんと目を丸くした。
次の瞬間――。
「そっ、そう来ますか!」
堪えきれず吹き出した。
「あはははっ!」
静かなオフィスに笑い声が響く。
その笑顔を見ていると、頭の奥を締めつけていた鈍痛が、少しだけ遠のいた気がした。
「ねえ片瀬さん」
藍川がいたずらっぽく笑う。
「これから飲みに行きません?」
「ん~まだ仕事の後始末が残ってて」
「あーっ!」
藍川が人差し指を突き付けた。
「片瀬義人さん、やっぱりKYだぁ」
「うっ……それ、地味に傷つくなぁ」
「はいはい、じゃあその傷ついた心を癒しに行きましょ!私、今日は愚痴りたい気分なんです!」
「愚痴?」
「まぁ、いろいろと」
「そっか、それは聞いた方がよさそうだね」
「でしょう?」
そう言うなり、鍛えられた片瀬の腕を両手で掴む。
「まずはビール!」
「ちょ、ちょっと待って」
「乾杯してから待ちます!」
「順番がおかしいって」
「仕事は逃げません!」
「俺は?」
「片瀬さんも逃がしません!」
「理不尽だなぁ」
「はい、理不尽です!」
藍川に引っ張られながら、片瀬は苦笑した。
今日だけで何度目だろう。自然と笑みがこぼれる。
少なくとも今は頭痛よりも、その笑顔の方が強かった。
◇
外の廊下。
オフィスの明かりがドアの隙間から細く漏れ、桐村康の歪んだ横顔を照らしていた。
藍川の表情が、自分に向けられた時とはまるで違うことに腹立たしさがこみ上げていた。
(あの女、俺にはあんな態度、一度も)
脳裏に、今年四月の入社式の光景が蘇る。
新入社員紹介で壇上に立つ藍川。肩まで伸びたストレートヘアが春の日差しを受けて揺れ、笑った拍子に覗いた右の八重歯。
胸が高鳴った。
女に興味を持ったことは何度もあるが、ここまで心を奪われたのは初めてだった。
(絶対に、手に入れる)
桐村は、人を操ることに自信があった。少し優しくする。少し突き放す。自信を削り、不安にさせ、依存させる。そうすれば相手は自分から離れられなくなる。少なくとも、彼は本気でそう信じていた。
だから藍川にも同じように接した。評価を上げてやる、とほのめかした。ランチを奢ると誘った。仕事帰りに食事へ誘ったこともある。だが――。
「自分の実力で評価されたいので」
「ありがとうございます。でも結構です」
返ってくるのは、いつも穏やかな笑顔だった。
怒りもしない。媚びもしない。踏み込ませもしない。
まるで柔らかな壁を相手にしているようだった。
どれだけ距離を詰めても、その澄んだ瞳の中に自分の姿は映らない。なのに。片瀬義人には違う。あんなふうに笑う。腕まで掴む。自然に距離を縮める。
(なんでだ)
喉の奥が熱い。胸の内側を、黒い感情がゆっくりと満たしていく。理由は分かっている。認めたくないだけ。藍川が見ているのは、自分じゃない。最初から、片瀬だけだった。
「……くそっ」
歯の隙間から漏れた小さな呟き。
恋心は、いつしか嫉妬へ移ろっていた。
その矛先は、ただ一人。片瀬義人へと向けられる。
桐村は拳を握る。爪が食い込み、掌に鈍い痛みが走った。それでも、その痛みより胸の奥に渦巻く感情の方が、ずっと強かった。




