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膠喰体《ゲルイーター》  作者: 禍福
エピソードⅠ 秘密
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1話 兆し

 うち明けられない秘密とは、胸に石を抱えているようなもの。重くて、時折ゴロゴロと転がり、肋骨の内側を鈍く疼かせる。

 話すとき、笑うとき、ささやかな日常を過ごすときでさえ、その石は言葉の隙間に潜み、己の一部となって呼吸するたびにその存在を思い出させる。


 秘密とは、平穏を破るひび割れ。そしてそれは、新たな日常へと繋がる裂け目でもある。























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 膠喰体ゲルイーターによる襲撃が始まる二日前、令和十二年十月二十三日。


 ――晩秋の暮れゆく午後に、ざわめく雨音。

 コンビニ前の有機ELパネルに照らされた軒下で、一人の配達員がタバコをくゆらせていた。彼の濃紺のジャケットには急行運送のロゴがある。ズボンの裾には泥跳ねの跡が目立ち、足元のスニーカーは湿気を吸って重たげだ。

 気だるげに吐き出した煙は螺旋を描き、通りかかった母子にふわりと散らされた。


 母親と子供は、配達員の隣で雨宿りを始めた。狭いコンビニの軒下。三人が並ぶと互いの体温が伝わりそうなほど近い。そこへ――


「お母さん。あそこに何かあるよ」


 少女の指が鉛色の空を指す。袖を引かれた母は少し遅れて顔を上げた。しかし、視界に映るのはただの雨雲、鈍い灰色だけだった。


「消えちゃった、お母さんは見えなかった?」

「ごめんね、ちょっとぼーっとしてて。何かあったの?」

「ん~、わかんない」


 少女はにへらっと無邪気に笑い、母のコートに顔をうずめる。雨の冷たさが母子のぬくもりを奪っていく。母は開いたコートの襟で娘を包み込むように引き寄せ、優しく少女の濡れた髪を撫でた。


「雨止みそうにないね、傘買って帰ろっか」

「お母さん。ついでにお弁当も買おうよ」

「だめよ。ちゃんと栄養のある手作りを食べないと」

「栄養は健康のためでしょ。だったら身体を休めるのも大切だよ」


 大人びた言葉とは裏腹に、少女は年相応に宇宙模様の靴をぴょんと跳ねさせ、観念した母の手を引いた。

 そのまま母子がコンビニの自動ドアへ向かう姿を見届けた配達員は、少女の指さしが頭をよぎる。あの子は何を見たのだろうと。


 ふと、空を見上げる。


「ん!?」


 何かが一瞬、ゆらりと揺れた気がして、瞬きをする。


 退屈しのぎにポケットからスマホを取り出し、惰性で動画を回した。

 録画が始まって数秒――雷光が曇天を切り裂く。


 ドォォォンッ!


「わっ!……ん?え?……なんだあれ?」


 落雷に驚いたのも束の間、慌てて空を見上げる。だが、何かあったはずのそこには、稲光とともに何も残っていなかった。雨雲が垂れこめる空に、不審なものはもうない。

 だが、その一瞬をカメラはしっかりと捉えていた。


 動画を再生する。コマ送りにすると、鉛色の雲の裂け目から、何かが透けて見えた。透明なゼリー状の何かが脈打っている。

 その輪郭は、まるで大気という海を漂う巨大なクラゲ。

 無数の触手が幽かに揺らめき、雲のヒダを這うように伸びては縮む。そんな姿が浮かび上がっていた。


「すげえ!これバズるんじゃね!?」


 好奇心に満ちた彼は「#謎の浮遊物体」と打ち込み、SNSにアップロードする。


 このとき彼は知る由もなかった。

 その好奇心が自らを破滅へと導き、やがて渦巻くことになる、巨大な波紋の最初の一滴になることを。




 翌朝の、十月二十四日。

 鉄板を叩きつけるような電子音が鳴り、片瀬義人かたせよしひとはベッドの上で目を覚ます。


「……っ」


 目覚まし時計のスイッチが自動で切れる。

 寝起きのぼやけた頭で起き上がると、窓の外にはくすんだ空が垂れ込めていた。

 左腕に革ベルトを巻いたアナログ時計の文字盤が六時三十分を指している。秒針は、彼の鼓動と奇妙にシンクロしているようだった。


 リモコンに触れずとも、視線を向けるだけでテレビが自動で点く。

 薄型ディスプレイに映ったのは、季節外れの台風情報。気象予報士が解説を終えると、カラフルな星座模様のネクタイとスーツに身を包んだ男が映し出された。


 彼はこの番組の準レギュラー、民間気象会社の研究員である天沢晴あまざわはる

 がっしりとしたラグビー仕込みの体格で、寝癖のように逆立った髪の間から、ぎらぎらした子供のような瞳がのぞいている。


『昨日、#謎の浮遊物体のハッシュタグで投稿されたこの動画をご覧いただきたい!』


 不意を突かれた司会のアナウンサーが、焦り気味に制しにかかる。


『天沢さん、今は台風特集です。未確認映像は専門家の検証を済ませてから……』

『私がその専門家だ!』

『天沢さんは気象の学者ですよね!?』

『空を見る専門家!すなわち、空は全部つながっている!』

『強引な理屈で押し切らないでください』


 スタジオから笑いが漏れる。


『それよりも!この投稿と類似した映像がニューヨーク、パリ、上海でも確認されている!これを偶然で済ませるには、出来すぎているとは思わないか!』


 声がでかい。そう思った片瀬はテレビの音量を下げていく。天沢が暴走する姿はこの番組の目玉のひとつでもあるのだが……。


「今日はいつもより本気だな」


 湯気の立つコーヒーを口に含みながら呟く。


「……いや、いつも本気か」


 独り言が白い吐息に混ざる。

 整髪料で整えた前髪の隙間から、捲れ上がったワイシャツの袖が視界に入った。その下には古い火傷のような痕がある。それを撫でるのが、片瀬の癖だった。


 七時十五分。論争は収まる気配がない。あれはUFOだと宣言する天沢に対し、スタジオの常識派コメンテーターが冷笑を浮かべていた。


「そういやこの人……先週は積乱雲の形で競馬の三連単を当ててたな」


 古傷を隠すように袖口を伸ばす片瀬は、ボタンをかけながら苦笑する。


 天沢は気象現象からUFOの出現確率を予測する無茶な研究に人生を捧げているが、冗談で口にした競馬の予想だけは妙に当たる。

 以前の放送で司会者から「今週の競馬はどうですか」と聞かれるや否や、『だから私は気象学者ですって!』と全力で否定した直後、やけくそ気味に答えた買い目が見事に的中した。


 翌週。視聴者から、競馬情報だけ教えくれと大量の投稿が寄せられ、『違うんです!私は雲を研究したいんです!』と、本気で頭を抱えていた。


「おっと、もうこんな時間か」


 いつの間にか、壁掛け時計の針が七時三十分を指していた。

 出勤時間が近い。身支度を整えると、左手を振る。テレビの電源が落ちた。


「行くか」


 玄関を出て、自宅マンションの片廊下を駆けながら右手の指先を動かす。すると、ドアノブの鍵が回った――カチリと、背後で施錠される。


 触れずとも動く、不可思議な現象。

 だがこれが片瀬にとっての日常だった。


 彼には秘密がある。

 物体を意志の力のみで動かす、いわゆる念動能力が使える。


 人とは違う特別な力。だが、見方を変えれば特別ではない。

 秘密を抱えて生きるという一点においては、世にありふれているから。少なくとも、片瀬はそう思っている。


 例えば、マンションのエレベーターで顔を合わせた同年代のサラリーマン。ここはペット禁止なのに、彼のスーツには動物の毛がビッシリと付いている。

 駅にいたリクルートスーツの青年。就職ノートの隙間から、バンドデビューのオーディション通知がのぞく。


 通勤電車に揺られながら、片瀬は改めて辺りを見回す。


 窓ガラスにはAR広告が流れている。静かな車内。学生、サラリーマン、OL、それぞれの鞄や胸に潜むのは、実用品だけではない。負債もあれば趣味や夢のカケラ、どれもがこの街の息吹として混ざり合っている。


(誰もが声に出せない、何かを抱えて生きてるんだろうな)


 駅の改札を出て、空を見上げた。薄れつつある雲の向こうで、今朝テレビで論争された話は嘘のように青く澄み渡っている。


 すれ違い、行き交う人々。彼らひとりひとりの隠したい本音や秘密は、天気のように移り行くものなのかもしれない。


 片瀬は人目を気にしながら、念動力で職場のエレベーターボタンを沈ませる。


「俺にも、いつか晴れ間が来るのだろうか」


 そう静かに独りごち、彼はオフィスへと向かった。

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