表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゲルイーター  作者: 禍福
プロローグ
1/44

プロローグ

 令和十二年十月二十五日、午前十時三十二分。

 日常は音を立てて崩れ落ちた。


 最初の異変に気づいたのは、都内の幹線道路を走る一台のタクシー。その運転手だった。

 赤信号で停車中、彼は何気なく都心のビル群を見上げる。


 夏の陽炎のように、大気が揺らめいていた。

 空の青がにじみ、高層ビルの輪郭がゆらりと波打つ。

 その歪みの中から、何かが降下した。


 透明でありながら、確かな質量を感じさせるソレは光を屈折させ、音もなくビルの谷間へ滑り落ちていく。


「なんだあれ……」


 呟きが車内に染みた。

 信号は青に変わる。

 後続車のクラクションが鳴った。


 それでも運転手はアクセルを踏めなかった。

 その瞬間。歪みは消える。

 代わりに現れたのは、信じがたいほど巨大な異形。

 頭上を覆う影。


 ――グシャッ!


 タクシーは、紙コップのようにその巨体に押し潰された。


 半透明のゼリー状の体躯。

 内部では無数の発光粒子が銀河のように渦を巻いている。

 それは数百本もの触手が意思を持つかのように蠢き、大気を漂う巨大なクラゲのようだった。


 ――ドォォンッッ!!

 触手が、隣接するオフィスビルを薙ぎ払った。

 ガラスが粉々に砕け散る。無数の破片が雨のように路上へ降り注ぎ、鉄骨は小枝のようにひしゃげ、コンクリートの塊が崩れ落ちる。

 街の平穏は引き裂かれた。


「逃げろ!」

「何なんだ、あれは!」


 阿鼻叫喚の坩堝と化した。

 人々は我先に逃げ惑い、車列はけたたましくクラクションを鳴らす。


 歩道の隅では、心臓発作を起こしたのか、一人の老人が顔を真っ青にしてうずくまっていた。

 呼吸は浅く、速い。

 若い男が駆け寄り、老人の肩を抱いて声をかける。しかし、その背後には巨大な触手の影が迫っていた。男は振り返る。迫り来る死と、目の前の老人。

 その狭間で一瞬ためらい。そして、走り去った。

 老人は、何も言わなかった。

 ただ逃げていく背中を見送り、皺だらけの瞼を静かに閉じた。


 横断歩道を渡っていたサラリーマンの一団に触手が迫る。

 足をすくわれ、粘液に覆われた触手へ絡め取られた。

 身体が宙へ浮く。

 誰も助けられない。

 もがけばもがくほど、触手は強く締めつける。

 半透明の粘液が、意思を持つかのように男の全身を這い上がる。

 ゆっくりと包み込んでいく。


「ああああッ!たすけ……!」


 叫びは途中で途切れた。

 皮膚が溶け、赤い筋となって粘液の中へ広がる。

 続いて筋肉が崩れ、内臓が湯に溶ける角砂糖のように消えていく。

 一瞬だけ白い骨片が浮かび上がる。

 それも、すぐに跡形もなく溶けて去った。


 ――まだ終わらない。


 路上に停車していた観光バスへ、巨大な触手が巻きつく。

 鋼鉄の車体がミシミシと悲鳴をあげる。

 アルミ缶を握りつぶすようにひしゃげ、窓ガラスが一斉に砕け散る。

 車内からは観光客の断末魔が響いた。

 さらに触手が締め上げる。

 屋根が裂け、座席が吹き飛び――ボンッ!!という衝撃とともにバスは炎を噴き上げた。

 濛々と立ち昇る黒煙。人間の焼ける異臭が広がっていく。


 惨劇は至る所で起こっていた。


 路上には無数の遺留品。

 スーツケース、ハンドバッグ、片方だけのハイヒール、血に染まったぬいぐるみ。

 それらはすべて、ほんの数分前までは誰かの大切な日常の一部だった。


 地面に横たわる遺体にも、触手は容赦なく伸びる。

 粘液に包まれた肉体は、何も残さず溶けていく。


 そこへ。

 Jアラートがけたたましく鳴り響く。


『緊急警報。これは訓練ではありません。直ちに頑丈な建物内に避難してください』


 機械的な警告が虚しく繰り返される。

 混沌とする街で、人々の悲鳴と怒号が津波のように押し寄せていた。


 時計の針は、十時四十分を指す。

 わずか十分足らず。


 人類は、食物連鎖の頂点から引きずり落とされていた。




 官邸危機管理センター。

 室内は怒号と報告が飛び交い、戦場さながらの緊迫感に包まれていた。

 壁一面のモニターには、日本各地の惨状が次々と映し出されている。

 札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡。どの画面にも映るのは、半透明の異形が街を蹂躙する光景だった。


「埼玉県川越市で数百メートル級の大型個体を確認!市街地を西へ移動中!」

「横浜・みなとみらい地区、被害拡大!ランドマークタワー倒壊の危険があります!」

「大阪・梅田地下街……通信、途絶しました!」


 電話が鳴り続ける。

 怒号が飛ぶ。


 モニターの一角には海外の衛星映像も映し出されている。

 ニューヨーク、ロンドン、パリ、上海。世界中で、同じ光景が繰り返されていた。これは日本だけの災害ではない。人類そのものが襲撃されていた。


 テレビ各局は通常番組をすべて打ち切り、終日特別報道へ切り替えていた。どのチャンネルを回しても映るのは、崩壊する街、炎、黒煙、逃げ惑う人々。悲惨な映像ばかりだった。


「最新情報です。現在確認されている未確認生命体は、数十センチから数百メートル級まで確認されており、その数は国内だけでも──」


 専門家と呼ばれる人々がコメントを始める。生物学者。物理学者。軍事評論家。だが、誰一人として答えを持ってはいなかった。飛び交うのは推測と憶測ばかり。誰にも、この怪物の正体は分からない。


 ――そして、その日の夕方。

 政府の公式発表が始まった。


 官邸の記者会見場に、総理大臣をはじめとした関係者が姿を現す。

 報道陣の数は普段より明らかに少ない。空いた席が、この国の異常事態を如実に表していた。


 総理は憔悴しきった表情で口を開く。一語一語に重みがこもる。それでも、現段階で分かっている情報を国民に伝えた。


 すると記者から、あれは何者なのかと質問が飛ぶ。

 総理は言葉を切り、隣に座る白髪の男性に視線を送った。


 防衛省付属・特殊生物研究所の所長だ。

 彼は厳しい表情でカメラを見据えて、軽い前置きを置いた後、深く息を吸い込み、一呼吸置いてから、静かに、しかし重々しく告げた。


『――あれは、完全捕食体。我々は、膠喰体ゲルイーターと命名しました』


 捕食する者。

 それはつまり、人間が食べられる側になったという、残酷な現実の宣言だった。

おもしろい、続きがみたいと思われた方はブックマーク、評価をおねがいします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ