プロローグ
令和十二年十月二十五日、午前十時三十二分。
日常は音を立てて崩れ落ちた。
最初の異変に気づいたのは、都内の幹線道路を走る一台のタクシー。その運転手だった。
赤信号で停車中、彼は何気なく都心のビル群を見上げる。
夏の陽炎のように、大気が揺らめいていた。
空の青がにじみ、高層ビルの輪郭がゆらりと波打つ。
その歪みの中から、何かが降下した。
透明でありながら、確かな質量を感じさせるソレは光を屈折させ、音もなくビルの谷間へ滑り落ちていく。
「なんだあれ……」
呟きが車内に染みた。
信号は青に変わる。
後続車のクラクションが鳴った。
それでも運転手はアクセルを踏めなかった。
その瞬間。歪みは消える。
代わりに現れたのは、信じがたいほど巨大な異形。
頭上を覆う影。
――グシャッ!
タクシーは、紙コップのようにその巨体に押し潰された。
半透明のゼリー状の体躯。
内部では無数の発光粒子が銀河のように渦を巻いている。
それは数百本もの触手が意思を持つかのように蠢き、大気を漂う巨大なクラゲのようだった。
――ドォォンッッ!!
触手が、隣接するオフィスビルを薙ぎ払った。
ガラスが粉々に砕け散る。無数の破片が雨のように路上へ降り注ぎ、鉄骨は小枝のようにひしゃげ、コンクリートの塊が崩れ落ちる。
街の平穏は引き裂かれた。
「逃げろ!」
「何なんだ、あれは!」
阿鼻叫喚の坩堝と化した。
人々は我先に逃げ惑い、車列はけたたましくクラクションを鳴らす。
歩道の隅では、心臓発作を起こしたのか、一人の老人が顔を真っ青にしてうずくまっていた。
呼吸は浅く、速い。
若い男が駆け寄り、老人の肩を抱いて声をかける。しかし、その背後には巨大な触手の影が迫っていた。男は振り返る。迫り来る死と、目の前の老人。
その狭間で一瞬ためらい。そして、走り去った。
老人は、何も言わなかった。
ただ逃げていく背中を見送り、皺だらけの瞼を静かに閉じた。
横断歩道を渡っていたサラリーマンの一団に触手が迫る。
足をすくわれ、粘液に覆われた触手へ絡め取られた。
身体が宙へ浮く。
誰も助けられない。
もがけばもがくほど、触手は強く締めつける。
半透明の粘液が、意思を持つかのように男の全身を這い上がる。
ゆっくりと包み込んでいく。
「ああああッ!たすけ……!」
叫びは途中で途切れた。
皮膚が溶け、赤い筋となって粘液の中へ広がる。
続いて筋肉が崩れ、内臓が湯に溶ける角砂糖のように消えていく。
一瞬だけ白い骨片が浮かび上がる。
それも、すぐに跡形もなく溶けて去った。
――まだ終わらない。
路上に停車していた観光バスへ、巨大な触手が巻きつく。
鋼鉄の車体がミシミシと悲鳴をあげる。
アルミ缶を握りつぶすようにひしゃげ、窓ガラスが一斉に砕け散る。
車内からは観光客の断末魔が響いた。
さらに触手が締め上げる。
屋根が裂け、座席が吹き飛び――ボンッ!!という衝撃とともにバスは炎を噴き上げた。
濛々と立ち昇る黒煙。人間の焼ける異臭が広がっていく。
惨劇は至る所で起こっていた。
路上には無数の遺留品。
スーツケース、ハンドバッグ、片方だけのハイヒール、血に染まったぬいぐるみ。
それらはすべて、ほんの数分前までは誰かの大切な日常の一部だった。
地面に横たわる遺体にも、触手は容赦なく伸びる。
粘液に包まれた肉体は、何も残さず溶けていく。
そこへ。
Jアラートがけたたましく鳴り響く。
『緊急警報。これは訓練ではありません。直ちに頑丈な建物内に避難してください』
機械的な警告が虚しく繰り返される。
混沌とする街で、人々の悲鳴と怒号が津波のように押し寄せていた。
時計の針は、十時四十分を指す。
わずか十分足らず。
人類は、食物連鎖の頂点から引きずり落とされていた。
◇
官邸危機管理センター。
室内は怒号と報告が飛び交い、戦場さながらの緊迫感に包まれていた。
壁一面のモニターには、日本各地の惨状が次々と映し出されている。
札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡。どの画面にも映るのは、半透明の異形が街を蹂躙する光景だった。
「埼玉県川越市で数百メートル級の大型個体を確認!市街地を西へ移動中!」
「横浜・みなとみらい地区、被害拡大!ランドマークタワー倒壊の危険があります!」
「大阪・梅田地下街……通信、途絶しました!」
電話が鳴り続ける。
怒号が飛ぶ。
モニターの一角には海外の衛星映像も映し出されている。
ニューヨーク、ロンドン、パリ、上海。世界中で、同じ光景が繰り返されていた。これは日本だけの災害ではない。人類そのものが襲撃されていた。
テレビ各局は通常番組をすべて打ち切り、終日特別報道へ切り替えていた。どのチャンネルを回しても映るのは、崩壊する街、炎、黒煙、逃げ惑う人々。悲惨な映像ばかりだった。
「最新情報です。現在確認されている未確認生命体は、数十センチから数百メートル級まで確認されており、その数は国内だけでも──」
専門家と呼ばれる人々がコメントを始める。生物学者。物理学者。軍事評論家。だが、誰一人として答えを持ってはいなかった。飛び交うのは推測と憶測ばかり。誰にも、この怪物の正体は分からない。
――そして、その日の夕方。
政府の公式発表が始まった。
官邸の記者会見場に、総理大臣をはじめとした関係者が姿を現す。
報道陣の数は普段より明らかに少ない。空いた席が、この国の異常事態を如実に表していた。
総理は憔悴しきった表情で口を開く。一語一語に重みがこもる。それでも、現段階で分かっている情報を国民に伝えた。
すると記者から、あれは何者なのかと質問が飛ぶ。
総理は言葉を切り、隣に座る白髪の男性に視線を送った。
防衛省付属・特殊生物研究所の所長だ。
彼は厳しい表情でカメラを見据えて、軽い前置きを置いた後、深く息を吸い込み、一呼吸置いてから、静かに、しかし重々しく告げた。
『――あれは、完全捕食体。我々は、膠喰体と命名しました』
捕食する者。
それはつまり、人間が食べられる側になったという、残酷な現実の宣言だった。
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