表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゲルイーター  作者: 禍福
エピソードⅠ 秘密
26/46

25話 限界ライン(後)

 誰もが予期していなかった膠喰体ゲルイーターの出現に、しんと静まり返る。

 ここで小野は、自分のショーツの微妙な湿り気に気づく。暗がりでは目立たないものの、肌に密着した生地の冷たさが、震えをいっそう強くした。


「あっ……あんたたち……あんたたちのせいだ!二階に行ったから!あれは、あんたたちが連れて来たんでしょ!」


 小野の声は甲高く裏返っていた。

 瞳孔は拡散し、定まらない目の焦点が虚空をさまよう。

 もはや正常な会話など成立しない状態だ。


「あんたらどう責任取るのよ!?どうしてくれんのよ!」

「小野さん、落ち着いて」


 亜香里が近づくが、小野は狂ったようにその手を振り払う。


「触らないで!どうせ私のことなんて、どうでも良いんでしょ!ほっといてよ!」


 その声はガラス片のように鋭く、耳を切り裂くようだった。

 乱れた髪、引きつった表情、すべてが彼女の精神崩壊を物語っている。


 亜香里は看護師として学んだことを実践しようとした。しかし医療現場で学んだパニック対応と、この非現実的な状況との乖離に、無意識に半歩後退してしまう。そのわずかな躊躇が、かえって小野の激昂を助長させた。


「何よっ何よっ!私を異常者みたいに扱わないで!」


 藍川は、亜香里と少し違った。錯乱した母を重ねていた。

 母がカウンセリングを受けていた時の医師の助言。パニック時は理屈で諭すよりも、共感を示すこと。


 まず膝をつき、小野と同じ高さに腰を下ろす。藍川自身もまだ怖い。突如現れた膠喰体が恐ろしい。それでも、この瞬間だけは強くありたい。

 震える自分の手を隠すように、そっと小野の手を包み込んだ。


「怖かったよね」


 藍川の母親も、感情を制御できなくなることがあった。どうにかしてなだめた時と同じ声のトーンにした。


「私も怖かった。本当に」


 柔らかな声に、小野の荒い息遣いが止まった。手の温もりに、誰かが自分のことを理解してくれていると感じたから。


「でも、もう逃げたから、一緒に深呼吸しよ?ね?」

「バカにしないで!」


 ――パンッ!

 小野の手が藍川の左頬を強く打ち付けた。

 乾いた音が響き、思わず鈴音が「ひっ」小さく悲鳴を上げる。


 藍川の頬に赤い掌形が浮かび上がった。

 熱が走る。一瞬だけ息が止まり、視界が揺れた。それでも藍川はぐっと堪えた。母が発作を起こした時、どれだけ傷つけられても決して離さなかったあの日のことを思い出して。だから――。


「大丈夫」


 藍川は我慢する。もう一度小野に手を差し伸べる。

 頬の痛みなど、今はどうでもよかった。痛みなど感じないふりをして、(今の小野さんを、一人にしたらダメだ)と、それだけが頭を占めていた。


「ごめんね、小野さんは何も悪くないのに……ひどいよね、でも小野さんは一人じゃないよ」


 欲しかった言葉を得られた小野。目から大粒の涙が溢れる。

 へたりこむ小野を、藍川はそっと抱きしめる。震えが少しずつ和らいでいく、狂気じみた表情が徐々に緩んでいく。


「……私……私」

「うん、わかってる。大丈夫、皆一緒だからね」


 藍川の胸に、小野の頭の重みが預けられた。

 ぐったりと力なく倒れ込む。まるで人形のように。


「一旦、剣崎さんのいる社長室に集合しましょう」


 片瀬の提案に、藍川は優しく小野を支えながら立たせた。

 膠喰体の脅威に対し、身を寄せ合うのが最善。その判断に異議を唱える者など、一人もいなかった。




 社長室の薄暗い室内で、男たち四人が、膠喰体をどう始末するか作戦を立てていた。

 誰もが色んな方法を考えていたが、良い案が思いつかない。閉じ込めるか、逃がすか、倒すか。どれも決め手に欠けていた。


 片瀬が決断を下す。

 喫煙所から持ち込んだステンレス製のバケツを床に置いた。


「膠喰体をこのバケツで捕獲し、外に放り捨てましょう」


 誰もの表情は暗い。すぐには賛同を示せないでいた。


「はぁ」


 天沢は深く息を吐く。

 剣崎の負傷を考えれば当然の反応。少し触れただけで重症だ。この作戦の危険性は明白。バケツで未知の生物を捕まえるなど、正気の沙汰とは思えない。

 しかしこの閉鎖空間で膠喰体を放置すれば、寝首をかかれる危険性が高い。次の犠牲者は、寝ている剣崎か、あるいは幼い鈴音かもしれない。


「危険だが他に手はないな」


 理性では否定したい。それでも、現実として受け入れざるを得ないという苦渋がにじむ。

 そこで権藤は重苦しく咳払いをし、顎に手をやった。


「女性を守る者が必要だろう。負傷し動けない剣崎は当てにはできんからな、私が残る」


 それは守ると言うよりも、危険を回避するための言い訳だった。


 桐村も率先して危険に立ち向かう気など毛頭なく、できるなら片瀬か天沢に任せきりにしたい。しかし、権藤のような言い訳は何一つ思いつかなかった。


「では三人で、天沢さん、桐村さん、行きましょう」


 ドアに向かう片瀬の背中を、藍川がじっと見つめていた。


「気をつけて」


 喉の奥で転がっていたのは「行かないで」という本音。

 膠喰体が怖い。片瀬を危険な場所に送り出すのが怖い。彼が戻ってこなかったら、この先、どうやって自分たちだけで生き延びればいいのか。同時に、彼なら何とかしてくれると信じている自分もいる。不安と信頼が入り混じった、複雑な感情が胸を締め付けていた。




 権藤は亜香里と鈴音を引き連れて、大会議室に戻った。放置されたままの食料が気がかりで、回収しに行ったのだ。


 社長室に残っているのは、鎮痛剤の効き目で深い眠りについている剣崎。あとは、藍川と小野のふたり。

 ふと小野が虚ろな目で、独り言のようにつぶやく。


「トイレに行ってくる」


 砂漠を這いずるような乾いた囁きだった。

 先ほどの膠喰体の出現で、彼女の精神は消耗しきっていた。そんな彼女を見守るために、藍川は居残っていた。


「一緒に行きましょう」


 優しい笑顔で、明るく答えた。小野は先ほどの膠喰体の出現でショーツが湿り気を帯びたままで、顔を歪めて拒否する。


「一人にさせて、片瀬さんを独占するあんたなんか要らない」


 この悪態は、彼女の余裕のなさを現わしていた。


(あんたなんか要らない……か)


 感情を爆発させた母から投げつけられた言葉とそっくりだった。いつもいつも、胸の奥がじんじんと疼く。慣れているはずなのに、心が熱く重く、チクチクと痛くなる。


「わかった。でもすぐ戻ってきてね」


 小野は返事どころか振り向きさえもせず、幽霊のように暗い廊下へ消えていく。


 ドアが閉まる音と同時に、藍川の膝ががくっと折れた。

 誰もいなくなった社長室で、ようやく崩れるように部屋の隅で膝を抱え、小さくなる。

 叩かれた頬の熱さはまだとれない。小野の言葉が胸を締め付ける。彼女に対し、自分でも嫌悪したくなる感情もあった。


(私が片瀬さんを独占?)


 意味がわからなかった。知らないうちに、無自覚に、小野を傷つけたのだろうか。自分なりに精一杯、寄り添ったつもりだったのに。


(今の小野さんは、心が弱っている。断られても、無理にでも、トイレに付き添うべきなのに)


 すぐにでも後を追うべき。わかっていても、口も身体も動かない。

 拒絶された頬と心の痛み。それによって、もし小野に何かがあっても、それは自業自得じゃないかという感情が抑えられない。


 自分が嫌になった。自己嫌悪の渦に飲み込まれそうになる。そうしていると、リュックを回収した亜香里と鈴音、権藤が戻ってくる。藍川は慌てて涙を拭い、無理やり作った笑顔を貼り付けて出迎えた。




 小野の精神は、崩壊の淵にあった。

 壁に手をつきながら進む彼女の耳には、世古課長の声が亡霊のようにこびりついて離れない。


『小野、お前のせいだ。お前が鍵を開けたからだ』

(違う、違う、違う!)


 耳を塞ぎ、爪先で床を掴むようにして歩く。


「どうして。どうして私だけが」


 辿り着いたトイレの鏡に映った自分の姿は、涙で滲んでいた。流れる涙が顔の輪郭を溶かし、まるで自分自身がゼリーのように溶解してい錯覚に襲われる。


「片瀬さん、亜香里さん、藍川さん」


 守ってくれるはずだった片瀬。

 寄り添ってくれるはずだった亜香里。

 優しく思いやってくれるはずだった藍川。


 全て虚像に感じる。自分だけが汚れていて、誰からも必要とされていない。そんな絶望が蝕む。


 すがるように洗面台へしがみつく。

 嗚咽を押し殺す気力もなく、涙声がトイレに響いた。

 誰もいないこの空間でなら、本当の自分をさらけ出せた。


 泣き崩れる彼女の背後から、何かが……ゆっくりと接近する。


 湿った蛇が地を這うような音に、背筋が凍った。

 恐怖で下半身の力は抜け、その場にへたり込む。

 それでも、本能が振り返らせた。


 トカゲ型がいた。否、手足を縮ませ、蛇のような姿になっていた。

 女性の手首ほどの太さになって、顔面に飛び掛かる。

 先端には無数の微細な吸盤が開閉し、粘液を滴らせていた。


「ッ……!」


 膠喰体が眼前に迫る。

 小野が息を呑んだその隙を逃さず、青白く光る粘液の塊が彼女の口内へ流れ込む。それは舌の上で広がり、歯茎の隙間を這い、上顎にへばりついた。冷たいのに、触れた場所だけが焼けるように熱い。甘く腐敗したような味が鼻腔を突き抜け、意識の縁が白く霞んでいく。


(息が、できない!)


 ――記憶が飛ぶ。

 先週、一人でランチを食べたコンビニのおにぎり。

 誰からも「おはよう」と言われなかった朝の出勤。

 誰も気づいてくれなかった新しいマスカラ。

 鏡の前で何度も付け直したマスク。

 そして、誰かに必要とされたいという願い。


 どれもこれも、もう二度と戻れない日常の欠片。

 それらが、黒く染まり始める視界と共に闇に飲まれていく。

 鼓膜の奥で、自分の心臓の音だけがやけに大きく響いていた。


「──ぐぐっ、ごぼっ」


 粘液塊が喉の奥へと滑り込む。肺から空気が抜けていく。

 戦慄が脊髄を走る。逃げることも、叫ぶこともできない。ただ、喉から這い入る異物の感触がたまらなく不快だった。


 自分を置き去りにした全員の顔が駆け巡る。


(ねえ、誰か、助けてよ……私を、一人にしないで)


 願いも虚しく、ゲル状の生物はたちまちのうちに彼女の気管を埋め尽くした。喉を通り越し、内側から貪り食われるような、むせ返るような圧迫感。


 身体は生命の危機に本能的な拒絶反応を起こし、のけ反り、激しく痙攣。四肢の力は急速に失われ、洗面台にもたれる指先が微弱な震えを伝え、そして、静まる。


 小野美咲は、誰にも看取られることなく、一人で消えた。


 彼女が抱えていた秘密。

 ドアを開けるのをためらった罪悪感。

 誰かに必要とされたいという、小さな願い。


 そのどれも。誰にも届かなかった。


 ……いや、ただ一つだけ。

 彼女を求めるものがあった。


 誰にも必要とされなかった彼女の腹の奥。

 そこで、小さな鼓動だけが寄り添うように、脈を刻み始めていた。

ここで物語の折り返し地点になります。

続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークや評価をぜひお願いします。評価はこのページの下側にある【☆☆☆☆☆】をタップすればできます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ