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ゲルイーター  作者: 禍福
エピソードⅠ 秘密
25/44

24話 限界ライン(前)

 二十畳ほどの広さの社長室。

 執務デスクと会議用テーブルは置かれたままだが、簡易ベッド代わりにソファが並べられている。


 そのソファの上で、剣崎のまぶたが開く。

 額に貼られた冷却シートがずれかかっており、彼の右手からは鈍い痛みが脈打つように伝わってきた。


「っ!」


 苦痛の息が漏れた。その声に反応し、まどろんでいた藍川がはっと顔を上げる。


「……おじさん、お水どうぞ」


 藍川はペットボトルのキャップを開け、手渡す。剣崎はひび割れて切れそうなほど喉が渇いており、それを貪るように飲み干した。


「……ふぅ、今は何時だ?」

「夜の八時半過ぎです。みんなは大会議室で夕食の支度をしています」


 剣崎の体調は、率直に言って最悪だった。べたつく汗が皮膚に滲み、まぶたは重く、視界の端がかすむ。傷の深部からは、ズキズキ刺すような疼きが絶え間なく襲う。しかし、刑事として民間人を守らなければならない使命感が彼を突き動かす。


(警察の俺がしっかりしなくてどうする)


 その信念で起き上がろうとしたが、身体は鉛のように重く、激しい眩暈でふらつく。咄嗟に藍川がその上半身を支えた。


 再び横になった剣崎の胸の内には、悔しさと情けなさが同居する。せめて状況だけでも把握しておこうと。崩れそうな意識に鞭を打ちながら、首だけを起こした。


「あれから、どうなった。片瀬と天沢はどこだ?」

「食料の分配について、権藤部長と話し合いをしています」


 食料分配は権藤の采配で決まる。藍川の口調には、かすかな毒が混じっていた。まだそこに悔しさが残っているのだ。


「もめているのか?」

「いえ、大丈夫です」


 剣崎は彼女のことを幼いころから知っている。彼女には、ストレスを感じると下唇を噛む癖があった。つまり、今も何かを隠している。だが、敢えて追求はしない。この件について、今の自分にできることなど何もないと悟ったから。代わりに、ずっと喉元で引っかかていた懸念をこぼす。


「一九ちゃん、普段の片瀬義人はどんな男だ?」


 予想外の質問に、藍川の肩がぴくっと震えた。だがなんとなく、剣崎が片瀬を見る目に棘があるのは見抜いていた。


「それは、どういう意味ですか?」

膠喰体ゲルイーターの光学迷彩の件だが、あの男、結局情報の出所を口していない。それに一般人とは思えない冷静な態度や判断力、裏がないか気になってな」


 藍川は、膝の上のスカートの生地をぎゅっと握りしめた。静かに、怒りを堪えている。


「片瀬さんは、これまで何度もみんなを助けてきましたよ」

「貢献しているのは認めるが、それらは信用を得るための常套手段でもある」


 刑事として狡猾な犯罪者を見てきた者ならではの、確信があった。手品師はトリックを隠すために観客の目をそらす。詐欺師も同じ、まず信頼を得て、ここぞという場面で裏切る。しかも人は、危機的状況ほど騙されやすい。


「ちょっと、その言い方は酷いと思います」


 藍川は納得がいかない。

 片瀬は皆が寝ている間も働き、自分の食料さえも全て分け与えた。それを恩に着せることも自慢することもなく、ただ黙々と献身的に働く。その姿をしっかりと見てきたからだ。


「お前は父親に似ているな。情に厚く、純粋で、すぐに人を信じる」

「父はいつも信じるべき、正しい人を信じて来ました」


 彼女にとって父親は誇りだ。お人好しで損ばかりしていても、よく笑い、前向きで、頑張り屋で、ときどき子供のように無邪気にはしゃぐ、そんな人だった。大好きだった。そんな父を批判するような言葉は、到底受け入れられない。


「俺が言いたいのは、安易に人を信じるな。曇った眼で片瀬を信用するな」


 口喧嘩など望んでいない。重症を負った剣崎を興奮させたくない。だから、耐えるしかなかった。




 部屋を隔てた廊下側。ドアに耳を当て、盗み聞きをしている男がいた。桐村だ。

 偶然だった。入室しようとした矢先、剣崎の声が聞こえ、足を止めた。


「片瀬を信用するな」


 その言葉を聞いた瞬間、桐村の頬がわずかに緩む。


(剣崎が疑っている)


 これ以上の材料はない。証拠など要らない。刑事が疑っている事実だけで、人は勝手に想像を膨らませる。


(あとは疑心暗鬼になってくれればいい)


 桐村は静かに踵を返した




 場面は戻る。

 藍川は強い意志が宿る瞳で、剣崎を見据えている。

 彼女は剣崎の言葉を頭の中で反芻したが、どうしても割り切れなかった。


(父さんは、人を信じることを教えてくれた。片瀬さんは、その教えを体現している人なのに)


 だからこそ剣崎の言葉は、どうしても受け入れられなかった。喉の奥まで反論が込み上げる。それでも。彼は重傷を負っている。今ここで感情をぶつける相手ではない。

 藍川は唇をきつく噛み、ゆっくりと立ち上がった。ギィィ、と椅子を引く音だけが部屋に響く。


「星月さんに、食事を持ってきてもらいます」


 それだけ言い残し、藍川は背を向けて部屋を出る。バタンッと、少し強すぎるドアの閉まる音が空虚に響いた。


 一人残された剣崎は天井を見つめ、深い息を吐いた。


「やってしまったな」


 藍川一九を傷つけてしまったことへの後悔があった。

 独身の剣崎にとって、藍川は娘のような存在。だからこそ、父親を引き合いに出すべきではなかった。もっと別の言い方があったはずだ。


 だが、それでも。片瀬義人への疑念だけは消えなかった。彼がこの会社を訪ねた本当の理由は、親友である藍川良春の死の真相を追うためだった。

 良春の遺体は、普通ではなかった。全身が、機械に巻き込まれたように捻じ切られていた。その損傷は、かつて剣崎が見た別の事件。片瀬義人の両親の遺体と、酷似していた。

 しかも良春は、生前よく片瀬の様子を見に行っていた。


(お人好しのあいつらしい……まだ子供だった片瀬を放っておけなかったんだろう)


 二人は繋がっている。偶然とは思えなかった。片瀬を問い詰めれば、何かが動く。あの事件と良春の死。その真相へ近づけるかもしれない。刑事としての勘が、そう告げていた。

 だが今、それを口にすれば仲間は割れる。膠喰体という共通の敵を前に、疑心暗鬼は死を招く。問い詰めたいが、それでも言えない。


 ――それが、剣崎の秘密。


 正義と復讐の間で、彼は揺れる。

 だからこそ、片瀬の人間性を、そう簡単には信じられなかった。




 三十畳ほどの空間がある大会議室。

 三列ある中央には、大きな楕円形のテーブルが置かれてある。


 権藤が食料の入ったリュックサックを独占するように抱え、その楕円テーブルに座り込んでいた。

 その横で天沢は星座模様のスーツの袖をまくり、権藤と激しくも少し下らない論争を繰り広げている。


「日持ちしない物から消費すると決めただろう!この『お腹スマートヨーグルト』の期限は今日まで!だから俺が食って何が悪い!」

「それを毎朝食べるのは俺の日課だ!譲るわけにはいかん!」

「あんたはさっき食ってたじゃないか!」

「それは明日の分だ!」


 ぽっこりお腹をした二人の罵り合いに、鈴音が呆れている。

 そこへ勢いよくドアが開く。桐村だった。


「部長、大変です!刑事さんが目を覚ましましたが、片瀬のことを怪しんでるみたいです」

「ああ?」


 急になんだ?そう言わんばかりに権藤が怪訝そうに眉を寄せた。


 席を二つ開けたその場所では、小野が椅子の上で膝を抱えて小さくなっている。

 それを見た桐村は(あいつはヒステリックにすぐに場をかき乱す。片瀬の疑念が深まれば、更に混乱が増すな)と策略の要素に加え、内心で笑っていた。


「考えてみれば妙だとは思いませんか。警察がわざわざ会社まで片瀬を訪ねてきた。それに今回の騒動でも、片瀬だけ妙に落ち着いていた」


 わざと断定はしない。疑問だけを投げる。薄い唇の隙間から覗く白い歯は、獲物の喉元に突き立てる牙のようだ。


 少し遅れて、藍川が部屋に飛び込む。

 桐村の声は廊下まで響き渡っており、彼女は戸惑いながら片瀬へと視線を向けた。彼は穏やかな表情だった。

 そんな風に冷静でいられるのは、剣崎から怪しまれている自覚があったからだ。むしろ、その疑いが進展していない事が知れて、安堵さえあった。


 この互いの反応は、水と油のように混ざり合わない。


 それがもっとも顕著に表れたのは、天沢だった。ラグビー精神を重んじ、仲間を信頼し、絆を大切にする熱血漢である。十歳以上も年は離れているが、片瀬を友と認めていた。友人を貶める発言は、到底許せるものではない。


「ふざけるな!怪しむとはなんだ!剣崎さんが片瀬君を尋ねた件は、もう決着がついた話だろう!」

「どうだかな。だって考えてみろよ、片瀬の落ち着きようは不自然だ。まるで最初から何もかも知っていたみたいじゃねえか」

「それがどうした!彼ほど頼りになる男はいない!」

「言っただろう、不自然なんだよ。そこを刑事さんが疑ってんだって話をしてるんだ」

「疑うも何も、人を貶めるような真似は……」


 その時、小野がいた椅子の下を黒い影がすり抜けた。

 それは壁面へ跳び移ると、ヤモリのように吸着。側面を疾走し始めた。


「いっ……いやぁああっ!!」


 小野は金切り声を上げ、椅子から転げ落ちた。

 瞳孔は極限まで開き、震える指先で口元を押さえている。

 スカートの裾が床に引きずられても気にしない。狂ったように頭を振りながら、無様に後ずさった。

 精神の均衡が崩れかけている彼女には、あの怪物が自分めがけて突進してくるようにしか見えなかった。


 膠喰体ゲルイーターは窓のブラインドに飛びつく。

 バリバリという音を立ててプラスチック製の羽根を溶かし、ガラス面に張り付く。

 外は闇夜。分厚い雲で星一つない。


 そこへ雷鳴。

 稲光が、窓に張り付いたその核の表面に走る毛細血管のような組織を映した。

 全長三十センチほどの半透明の生物。そのゼラチン状の体内には、不気味に脈動する核がひとつ浮かび上がっている。


 そこへ片瀬がスマホのライトを照射。

 光を浴びたトカゲ型の膠喰体は核を守るように体を歪ませ、窓から飛び退く。


「効いたっ」

「光を当て続けろ!」


 天沢の呼びかけに連鎖し、皆がスマホを取り出す。

 震えて動かない小野を除き、少女の鈴音も懸命に光を当てた。


 膠喰体は床や壁面を這い回る、逃げ惑う。光を避けようとする。その移動経路には腐食性の粘液が残され、壁紙がジリジリと溶解していく。白い煙とともに漂う酸っぱい臭いが会議室に充満した。


 強力な光に耐えきれず、膠喰体は天井へ跳び上がる。

 そのまま換気口へ潜り込み、闇の中へ姿を消した。


 室内から音が消える。誰も動かない。ただ荒い息遣いだけが、静まり返った大会議室に残っていた。

 鈴音はスマホを握り締めたまま天井を見上げる。

 天沢も耳を澄ませる。


 どこだ。どこへ行った。


 ダクトの奥から、カサ……カサ……と何かが這う微かな音だけが聞こえてくる。音は近付いているのか。遠ざかっているのか。それすら分からない。


「……バリケードが、突破されたのか」


 片瀬が呟く。その一言で、全員が現実を理解した。膠喰体はもう外にはいない。彼らが最後の砦だと信じていたフロアへ、すでに侵入していたのだ。壁には、粘液が這った溶解痕が細く残っている。


 それは怪物がここにいた証であり、この建物の中にいる証でもあった。

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