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ゲルイーター  作者: 禍福
エピソードⅠ 秘密
24/44

23話 溶解する境界線

 あまりの激痛に意識を失った剣崎は、社長室のソファで浅い眠りについていた。


 小野は壁に背を預け、膝を抱えている。

 鈴音に心配され、表面的には錯乱状態から脱していた。それでもまだ吐瀉物の酸っぱい臭いが鼻にこびりつき、喉の奥はヒリヒリと疼いたままだった。


(また、吐きそう)


 剣崎の溶けた掌。肉がジュルジュルになって骨は剥き出しになっていた。まるで、プラスチックが熱で歪むように。


(課長も、あんな風に)


 世古課長が触手に飲み込まれる瞬間がフラッシュバックする。彼の右腕だけがバタバタと暴れ、ぼとりと落ちた。あの時、目は大きく見開かれ、唇が震えていた。助けを求める声さえ出せず、ただ、溶けていくのを感じていたに違いない。


「うっ」


 胃が逆流し、吐き気がこみ上げるが、もう吐くものはない。喉が焼けるように熱く、痛い。


 小野は隣で手を繋いでくれている少女に目をやる。鈴音は、まだ小学生。自分が同じ年頃の時は友達と遊び、宿題を嫌がり、上手くいかないことがあれば大人のせいにしていた。


 小野の親は過保護だった。甘やかすというよりも、完璧に整備された道をまっすぐ歩けばいい。不安という石ころは取り除かれ、綺麗な道を素足で歩くことが出来た。

 故に、幸せを享受している自覚すらなかった。


(私がドアを開けたから?そのせいで、世古課長は死んだの?)


 大人になった今はもう、誰も正解を教えてくれない。誰のせいにもできない。助けても責められ、見殺しにしていればもっと責められる。


「はぁ……はぁ……」


 呼吸が浅くなる。


(もう、無理。誰か、誰か助けてよ)


 胸が締め付けられ、指先が痺れてきた。

 虚ろな目で、暗い感情に飲み込まれていく。


 守ってほしい。

 でも、誰かに「必要とされたい」ともされたい。そのためには強くならなければならない。でも、自分はいつも誰かに寄りかかってばかり。

 矛盾していた。守ってほしいのに、守られるだけでは嫌。必要とされたいのに、自分から何も差し出したくない。

 どちらも本心で、どちらも叶わない。両立しないとわかっていた。それでも、手放せない。手放せば、自分には何も残らないから。その渦の中で、彼女はいつも溺れていた。


 亜香里なら助けになってくれると思った。そばに居てくれるだけで良かったのに、給湯室では出て行けと追い出された。

 片瀬は頼りになって優しい人だと思った。なのに、ずっと藍川ばかり気にかけている。藍川が彼を独占しているから、誰も自分に優しくしてくれない……そうやって、悪い方にばかり思考が流れて行く。


 ふと目が合った権藤と桐村は睨んでいるようだった。この役立たず、視線がそう囁いているようで、さらに身が縮こまる。


(私は誰にも必要とされない。ここにいちゃダメなの、追い出されるの)


 心が、折れかけていた。


 そこへ社長室の重々しいドアが開く。

 片瀬義人、天沢晴、藍川一九の三人が神妙な面持ちで入室した。


「皆さんに話があります」


 絡まった空気を解くように、片瀬が発言する。

 今後の食料分配に関する話が始まった。

 二階から調達した食料は日持ちしない物から消費していく。量は十分にあるので、暫くは公平に分配していきたい。そんな提案だった。


 権藤は目を閉じたままその話を聞き、首を縦に振る。


「良いだろう。但し、引き続き食料の管理は私がする」

「待て!それはないだろ。あれは俺たちが回収を……」


 天沢の反論を、権藤が断ち切る。


「調子に乗るな。このビルにある物の所有権はわが社にある」

「権藤部長、先ほども申し上げましたが、食料は公平に分配を……」

「そこはわかっている。無駄に腐らせるような真似はせん」


 今までなら、権藤が不平等な発言をすると、剣崎が真っ先に制した。だが彼は今、そのような対応が出来る状態ではない。

 猪突猛進の天沢に交渉事は向いていないし、片瀬も強引な進め方が出来る性格ではない。どちらも役不足感は否めなかった。


 沈黙が落ちる。その隙を待っていたように、桐村が口を開いた。


「部長、剣崎さんが負傷したのは、食料調達を言い出した片瀬の責任ではありませんか」

「何を言い出すんですか!」


 藍川の肩までの髪が揺れる。桐村はそんな彼女を見向きもしない。


「ここは何らかの責任は取らせるべきです」


 片瀬への糾弾。それを期待していたが……。


「不要だ」

「えっ!」


 桐村の顔が固まる。


「食料を持ち帰った。それが全てだ」


 権藤は片瀬を見る。


「成果を出した人間を責める理由はない」


 桐村は喉まで込み上げた不満を、ギリギリの所で飲み込んだ。


(見誤った)


 権藤は横柄で支配欲が強い。だが同時に、利益を追及する結果主義者でもある。利用価値のある者への手のひら返しや、露骨なえこひいきも厭わない。

 桐村は敵対者を自分の視点で、片瀬に置き換えていたこと、憎悪が、視野を狭めていた。


「なんだ桐村、文句があるのか?だったら次はお前が回収しに行くか?」

「いえ、承知しました」


 桐村は権藤に背を向け、部屋の隅に移動する。

 不機嫌そうに爪を噛みながら、必死に抗議の言葉を頭の中で巡らせてはみるものの、どのような方向から責めても論破できるイメージはわかない。腹黒く、はかりごとに長けた権藤を説き伏せる自力はない。それが腹立たしくて仕方なかった。


 仕掛けた罠で片瀬を追い詰めるはずだったのに。結末は、食料調達の成功で想定以上に評価されてしまった。何よりも腹立たしいのが、片瀬を見る藍川の目だ。熱を帯びている。それを見るたび、胸に刺さるような嫉妬が疼いた。


 権藤は、そんな桐村の変化を露程も気に留めていない。少しでも利のあることがあれば搾り取る。それだけだった。


「片瀬。天沢でもいい。他に報告はあるのか」

「ある!」


 さっきまで肩を落としていた天沢が、ぱっと顔を上げた。


「実はこっちが本題なんだ」


 天沢は星座模様のネクタイについた埃を払い、身を乗り出した。


「二階で、トカゲ型の膠喰体と遭遇した」

「なに?」


 権藤が眉をひそめる。

 部屋の空気が張りつめた。


「しかも、重要なことが分かった。奴らは、光に弱い」


 天沢は興奮を抑えきれない様子で言い切った。

 その一言で、一同の視線が集まる。


「弱いだと?」

「ええ。正確には、強い光を浴びると動きが鈍るんです」


 今度は片瀬が説明を引き継ぐ。


「逃げる途中、西日が差し込む場所でトカゲ型の動きが急に止まりました。その瞬間、体内の核だけが激しく震え始めたんです」


 権藤は腕を組んだまま黙って聞いている。


「鈴音ちゃんが教えてくれた通り、核には目と耳の役割があります。人なら眩しければ瞼を閉じられます。でも、膠喰体は体が半透明です。光を遮れません」


 結果を待ちきれない権藤が答えを急く。


「つまりなんだ!」

「サングラスすら持ってないってことだ!」


 天沢が自信満々に捕捉するが、鈴音には呆れられる。


「お天気おじさんって、なんか緊張感が薄い」

「うそっ!的確でわかりやすいだろう!」

「ええい、やかましい!ようは強い光をまともに見られない。そういうことだろうが!」


 権藤に叱られて、天沢はシュンと肩を落とした。


「……その可能性が高いです。まだ一度しか確認できていませんが」


 仕方なく、片瀬が言葉を続ける。

 だが権藤は顎を撫で、悩まし気にした。


「そうか、一度だけの反応では、偶然とも取れるな」

「あっ!昨日だ!」


 天沢がまた勢いよく顔を上げる。


「昨日、自衛隊は何度も閃光弾を撃っていた!あれは威嚇じゃない。もし軍が奴らの特性を掴み始めていたとしたら?」


 興奮した声が室内に響く。

 誰も口を挟まない。


「あるいは実験だったのかもしれない!光への反応を確かめるために!」


 権藤はゆっくり息を吐く。


「……ふむ。それなら話は繋がるな」


 先ほどまで半信半疑だった表情が、少しだけ変わる。

 感触を得た天沢は、思わず拳を握った。


「だろう!?俺もそう思うんだ!」


 学者らしい純粋な喜びだった。危険な目に遭ったことも忘れ、新しい発見だけに目を輝かせている。

 その様子に、片瀬は思わず苦笑した。さっきまで権藤に叱られて落ち込んでいた人とは思えない。転んでも、すぐ前を向く。

 それが天沢という男だった。


 そこへ鈴音が嬉しそうに身を乗り出した。


「お天気おじさん!それって弱点なんだよね!」

「まあ、少なくとも逃げる時間は稼げるだろうな」


 天沢はにっと笑う。そして、両手をパンっと叩いた。


「だからさ!難しい話はこの辺にして、飯にしよう!俺もう腹ペコなんだ!」


 その一言で、重苦しかった社長室に小さな笑いが広がった。

 ひと時の安息。

 そんな最中でも、ひとりだけ。小野の瞳は恐怖に塗り潰されたままであった。


(トカゲ型って何よ。逃げても逃げても、追い詰められる。いえ、逃げ場なんて、もうどこにもない)


 彼女は震える指で顔を覆った。

 その指の隙間から、権藤を覗き見る。


(余計なことは言うなよ)


 そう言わんばかりの、高圧的な彼の視線が、自分は性の捌け口としか役に立たないと罵っている。


 小野はさらに体を縮こませる。

 給湯室からオフィスに逃げ込んだ時、スカートの裾を捲られた感触が蘇った。全身が粟立つ。

 太った指が自分の肌を這った時の、粘ついた肌触り。皮膚の上にアリが這い回っているかのような不快な感触。それらこびりつき、掻きむしりたくなった。


(触らないで、近づかないで)


 喉が締め付けられる。嫌悪感で、吐き気と共に涙が溢れ続けていた。




 誰もいない三階。

 そこでは、異変が起こっていた。


 屋外側の窓ガラスに、一メートルほどの膠喰体が張り付く。甲羅のような外骨格を持つ、新たな個体。


 一方、少し離れた階段前。

 バリケードの隙間から、一匹のトカゲ型膠喰体が頭を押し込んでいた。

 半透明の体液が、木材へ触れる――ジュッと白い煙が細く立ち昇る。溶解液は木を侵し、わずかな隙間をさらに広げていく。


 少しずつ。確実に。人間たちの築いた防壁は、内側から蝕まれ始めていた。

 誰も、そのことに気づいていない。

 膠喰体は、確実に侵入領域を広げていた。


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