23話 溶解する境界線
あまりの激痛に意識を失った剣崎は、社長室のソファで浅い眠りについていた。
小野は壁に背を預け、膝を抱えている。
鈴音に心配され、表面的には錯乱状態から脱していた。それでもまだ吐瀉物の酸っぱい臭いが鼻にこびりつき、喉の奥はヒリヒリと疼いたままだった。
(また、吐きそう)
剣崎の溶けた掌。肉がジュルジュルになって骨は剥き出しになっていた。まるで、プラスチックが熱で歪むように。
(課長も、あんな風に)
世古課長が触手に飲み込まれる瞬間がフラッシュバックする。彼の右腕だけがバタバタと暴れ、ぼとりと落ちた。あの時、目は大きく見開かれ、唇が震えていた。助けを求める声さえ出せず、ただ、溶けていくのを感じていたに違いない。
「うっ」
胃が逆流し、吐き気がこみ上げるが、もう吐くものはない。喉が焼けるように熱く、痛い。
小野は隣で手を繋いでくれている少女に目をやる。鈴音は、まだ小学生。自分が同じ年頃の時は友達と遊び、宿題を嫌がり、上手くいかないことがあれば大人のせいにしていた。
小野の親は過保護だった。甘やかすというよりも、完璧に整備された道をまっすぐ歩けばいい。不安という石ころは取り除かれ、綺麗な道を素足で歩くことが出来た。
故に、幸せを享受している自覚すらなかった。
(私がドアを開けたから?そのせいで、世古課長は死んだの?)
大人になった今はもう、誰も正解を教えてくれない。誰のせいにもできない。助けても責められ、見殺しにしていればもっと責められる。
「はぁ……はぁ……」
呼吸が浅くなる。
(もう、無理。誰か、誰か助けてよ)
胸が締め付けられ、指先が痺れてきた。
虚ろな目で、暗い感情に飲み込まれていく。
守ってほしい。
でも、誰かに「必要とされたい」ともされたい。そのためには強くならなければならない。でも、自分はいつも誰かに寄りかかってばかり。
矛盾していた。守ってほしいのに、守られるだけでは嫌。必要とされたいのに、自分から何も差し出したくない。
どちらも本心で、どちらも叶わない。両立しないとわかっていた。それでも、手放せない。手放せば、自分には何も残らないから。その渦の中で、彼女はいつも溺れていた。
亜香里なら助けになってくれると思った。そばに居てくれるだけで良かったのに、給湯室では出て行けと追い出された。
片瀬は頼りになって優しい人だと思った。なのに、ずっと藍川ばかり気にかけている。藍川が彼を独占しているから、誰も自分に優しくしてくれない……そうやって、悪い方にばかり思考が流れて行く。
ふと目が合った権藤と桐村は睨んでいるようだった。この役立たず、視線がそう囁いているようで、さらに身が縮こまる。
(私は誰にも必要とされない。ここにいちゃダメなの、追い出されるの)
心が、折れかけていた。
そこへ社長室の重々しいドアが開く。
片瀬義人、天沢晴、藍川一九の三人が神妙な面持ちで入室した。
「皆さんに話があります」
絡まった空気を解くように、片瀬が発言する。
今後の食料分配に関する話が始まった。
二階から調達した食料は日持ちしない物から消費していく。量は十分にあるので、暫くは公平に分配していきたい。そんな提案だった。
権藤は目を閉じたままその話を聞き、首を縦に振る。
「良いだろう。但し、引き続き食料の管理は私がする」
「待て!それはないだろ。あれは俺たちが回収を……」
天沢の反論を、権藤が断ち切る。
「調子に乗るな。このビルにある物の所有権はわが社にある」
「権藤部長、先ほども申し上げましたが、食料は公平に分配を……」
「そこはわかっている。無駄に腐らせるような真似はせん」
今までなら、権藤が不平等な発言をすると、剣崎が真っ先に制した。だが彼は今、そのような対応が出来る状態ではない。
猪突猛進の天沢に交渉事は向いていないし、片瀬も強引な進め方が出来る性格ではない。どちらも役不足感は否めなかった。
沈黙が落ちる。その隙を待っていたように、桐村が口を開いた。
「部長、剣崎さんが負傷したのは、食料調達を言い出した片瀬の責任ではありませんか」
「何を言い出すんですか!」
藍川の肩までの髪が揺れる。桐村はそんな彼女を見向きもしない。
「ここは何らかの責任は取らせるべきです」
片瀬への糾弾。それを期待していたが……。
「不要だ」
「えっ!」
桐村の顔が固まる。
「食料を持ち帰った。それが全てだ」
権藤は片瀬を見る。
「成果を出した人間を責める理由はない」
桐村は喉まで込み上げた不満を、ギリギリの所で飲み込んだ。
(見誤った)
権藤は横柄で支配欲が強い。だが同時に、利益を追及する結果主義者でもある。利用価値のある者への手のひら返しや、露骨なえこひいきも厭わない。
桐村は敵対者を自分の視点で、片瀬に置き換えていたこと、憎悪が、視野を狭めていた。
「なんだ桐村、文句があるのか?だったら次はお前が回収しに行くか?」
「いえ、承知しました」
桐村は権藤に背を向け、部屋の隅に移動する。
不機嫌そうに爪を噛みながら、必死に抗議の言葉を頭の中で巡らせてはみるものの、どのような方向から責めても論破できるイメージはわかない。腹黒く、はかりごとに長けた権藤を説き伏せる自力はない。それが腹立たしくて仕方なかった。
仕掛けた罠で片瀬を追い詰めるはずだったのに。結末は、食料調達の成功で想定以上に評価されてしまった。何よりも腹立たしいのが、片瀬を見る藍川の目だ。熱を帯びている。それを見るたび、胸に刺さるような嫉妬が疼いた。
権藤は、そんな桐村の変化を露程も気に留めていない。少しでも利のあることがあれば搾り取る。それだけだった。
「片瀬。天沢でもいい。他に報告はあるのか」
「ある!」
さっきまで肩を落としていた天沢が、ぱっと顔を上げた。
「実はこっちが本題なんだ」
天沢は星座模様のネクタイについた埃を払い、身を乗り出した。
「二階で、トカゲ型の膠喰体と遭遇した」
「なに?」
権藤が眉をひそめる。
部屋の空気が張りつめた。
「しかも、重要なことが分かった。奴らは、光に弱い」
天沢は興奮を抑えきれない様子で言い切った。
その一言で、一同の視線が集まる。
「弱いだと?」
「ええ。正確には、強い光を浴びると動きが鈍るんです」
今度は片瀬が説明を引き継ぐ。
「逃げる途中、西日が差し込む場所でトカゲ型の動きが急に止まりました。その瞬間、体内の核だけが激しく震え始めたんです」
権藤は腕を組んだまま黙って聞いている。
「鈴音ちゃんが教えてくれた通り、核には目と耳の役割があります。人なら眩しければ瞼を閉じられます。でも、膠喰体は体が半透明です。光を遮れません」
結果を待ちきれない権藤が答えを急く。
「つまりなんだ!」
「サングラスすら持ってないってことだ!」
天沢が自信満々に捕捉するが、鈴音には呆れられる。
「お天気おじさんって、なんか緊張感が薄い」
「うそっ!的確でわかりやすいだろう!」
「ええい、やかましい!ようは強い光をまともに見られない。そういうことだろうが!」
権藤に叱られて、天沢はシュンと肩を落とした。
「……その可能性が高いです。まだ一度しか確認できていませんが」
仕方なく、片瀬が言葉を続ける。
だが権藤は顎を撫で、悩まし気にした。
「そうか、一度だけの反応では、偶然とも取れるな」
「あっ!昨日だ!」
天沢がまた勢いよく顔を上げる。
「昨日、自衛隊は何度も閃光弾を撃っていた!あれは威嚇じゃない。もし軍が奴らの特性を掴み始めていたとしたら?」
興奮した声が室内に響く。
誰も口を挟まない。
「あるいは実験だったのかもしれない!光への反応を確かめるために!」
権藤はゆっくり息を吐く。
「……ふむ。それなら話は繋がるな」
先ほどまで半信半疑だった表情が、少しだけ変わる。
感触を得た天沢は、思わず拳を握った。
「だろう!?俺もそう思うんだ!」
学者らしい純粋な喜びだった。危険な目に遭ったことも忘れ、新しい発見だけに目を輝かせている。
その様子に、片瀬は思わず苦笑した。さっきまで権藤に叱られて落ち込んでいた人とは思えない。転んでも、すぐ前を向く。
それが天沢という男だった。
そこへ鈴音が嬉しそうに身を乗り出した。
「お天気おじさん!それって弱点なんだよね!」
「まあ、少なくとも逃げる時間は稼げるだろうな」
天沢はにっと笑う。そして、両手をパンっと叩いた。
「だからさ!難しい話はこの辺にして、飯にしよう!俺もう腹ペコなんだ!」
その一言で、重苦しかった社長室に小さな笑いが広がった。
ひと時の安息。
そんな最中でも、ひとりだけ。小野の瞳は恐怖に塗り潰されたままであった。
(トカゲ型って何よ。逃げても逃げても、追い詰められる。いえ、逃げ場なんて、もうどこにもない)
彼女は震える指で顔を覆った。
その指の隙間から、権藤を覗き見る。
(余計なことは言うなよ)
そう言わんばかりの、高圧的な彼の視線が、自分は性の捌け口としか役に立たないと罵っている。
小野はさらに体を縮こませる。
給湯室からオフィスに逃げ込んだ時、スカートの裾を捲られた感触が蘇った。全身が粟立つ。
太った指が自分の肌を這った時の、粘ついた肌触り。皮膚の上にアリが這い回っているかのような不快な感触。それらこびりつき、掻きむしりたくなった。
(触らないで、近づかないで)
喉が締め付けられる。嫌悪感で、吐き気と共に涙が溢れ続けていた。
◇
誰もいない三階。
そこでは、異変が起こっていた。
屋外側の窓ガラスに、一メートルほどの膠喰体が張り付く。甲羅のような外骨格を持つ、新たな個体。
一方、少し離れた階段前。
バリケードの隙間から、一匹のトカゲ型膠喰体が頭を押し込んでいた。
半透明の体液が、木材へ触れる――ジュッと白い煙が細く立ち昇る。溶解液は木を侵し、わずかな隙間をさらに広げていく。
少しずつ。確実に。人間たちの築いた防壁は、内側から蝕まれ始めていた。
誰も、そのことに気づいていない。
膠喰体は、確実に侵入領域を広げていた。




