22話 成果の代償
藍川はドアの前で祈っていた。
そこへ屋外階段を駆け上がる足音が近づく。
靴底が金属板を叩く乾いた音は、彼女の早すぎる鼓動と重なり合った。
(早く……早く……)
気配を感じ、ドアノブが回る直前にロックを解除。
間を置かず、三人の影がなだれ込む。
最後尾の天沢がドアを勢いよく閉めると、床に何かが滴り落ちた。
「……っ!」
藍川が息を飲む。
剣崎の右手。掌の肉が溶け、親指と人差し指、そして中指の第一関節から先が消失していた。爛れた皮膚から黄色い体液が滴り、床に小さな染みを作る。
「おじさん!」
「騒ぐな、死にはせん」
強がるが、額には脂汗が光り、唇は血色を失っている。そんな彼の肩を支えている片瀬が急く。
「給湯室へ。流水で洗浄しないと!」
「俺は亜香里さんを呼んで来る」
藍川が慌てて道を空けると、天沢は駆け抜けて行った。
◇
三階給湯室。
蛇口から迸る水の音が静寂を打ち消す。剣崎の右手から流れ落ちる水。最初こそ薄紅色だったが、次第に透明になっていった。
「……っ!」
溶けた皮膚の下からは、白い組織がのぞく。
あまりの激痛によろけた剣崎を支える片瀬の指先が、微かに震えている。
それを、藍川は見逃さなかった。
(片瀬さんでも、怖いんだ)
いつも冷静に見えた。なのに今は、震えを抑えこもうとしている。
藍川は自分が出来ることを探し、棚から救急箱を取り出す。それとほぼ同時に、廊下から複数人の足音が届いた。
「どうしたんですか!?」
看護師の星月亜香里が息を切らせて現れた。
昨日の右足首の捻挫が癒えぬまま無理を承知で走り、一歩踏み出すたびズキズキと脈打つような痛みがあったが、それでも止まるわけにはいかなかった。
天沢が助けを求めた時、彼は息が途切れて舌が回らない状態だった。その慌てふためく様が、尋常ではなかったからだ。
「いったいどうしたんですか!」
「膠喰体にやられた。掌の負傷です」
片瀬が簡潔に説明する。
亜香里はすぐに剣崎の手を確認した。
「酸性の液体に晒されたのね。流水でよく洗えた?」
「五分ほど流し続けています」
「良い処置ね。でも、もっと流し続けて」
亜香里の落ち着いた声に、藍川は肩の力が少し抜けた。医療知識のある亜香里の存在は、誰よりも心強かった。
「――待て」
少し遅れて権藤も現れた。
剣崎の苦悶の表情にも、爛れた掌にも目を向けない。
彼の視線は、床に置かれたリュックだけを見据えていた。
騒ぎを聞きつけ、桐村と小野も同様に近づいて来る。
「食料の確保はできたのか?」
誰に対しても礼節を欠かさない片瀬だったが、この瞬間は奥歯を噛み締めた。剣崎は苦痛に耐えている。それでも、この人の目に映るのは食料だけなのか。言い返したい衝動を押し殺し、「……はい」とだけ答えた。
権藤は食料の詰まったリュックに口角を上げ、満足した笑みを浮かべる。成果をあげたと評価したのだ。
「よくやった。桐村、それを持っていけ」
奥から現われた桐村は、リュックを受け取る際に片瀬と視線が交錯する。
「片瀬、あまりいい気になるなよ」
囁くような声で吐き捨てると、桐村は舌打ちを鳴らし去っていた。それと入れ替わるように、何も知らない小野美咲が中を覗き込む。
「何があったんですか……」
剣崎の負傷した掌を、目にする。いや、目にしてしまった。
その場面。彼女には、世古が溶解される場面と重なった。
グロテスクな記憶がフラッシュバックする。胃の内容物が逆流した。
「うっ……うぇぇっ、げほっげほっ!」
ビチャビチャ。
昼食の残滓が、吐瀉物として飛び散った。
よろめいて壁にしがみつく小野の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃ。鼻を突く吐瀉物の悪臭が狭い給湯室で充満する。
彼女の嗚咽が、緊迫した空気をぶち壊した。
治療に集中しようとする片瀬と藍川、そして亜香里も、思わず顔をしかめた。最も強い反応をしたのは権藤だ。彼は怒りを隠そうともせず怒鳴りつける。
「お前っこんな所で吐きやがって!」
「だ、だって、骨が、見えて」
「言い訳するな!気分が悪いのならトイレにでも行け!」
「小野さん、落ち着いて。ここは離れて」
藍川はできるだけ優しく言おうとしたが、剣崎の手から滴る体液と小野の吐瀉物が混じり合う状況に、自身の胃も収縮。吐き気を催し、えずきそうになっていた。
「だって、仕方ないじゃない、こんなの知らなかったし……私のせいじゃない」
小野はこの場から動けない。
「私は悪くない」
それしか言えなかった。
彼女はもう、自分が何をしているのかさえ、わからなくなっていた。ただ、怖かった。溶けていく人間の姿が、世古と重なって、怖くて仕方がなかった。
目を閉じても、耳を塞いでも、その光景は消えない。誰かに「大丈夫だ」と言ってほしい。誰かに「あなたは悪くない」と決めてほしい。自分で考えるのは、もう無理だった。
なのに、周りからは非難の眼差ししか送られない。
吐瀉物の生温かな臭気が給湯室に広がっていくと、また胃の中から腐ったような酸っぱい匂いがこみ上げてきて、嗚咽を漏らした。
「っ、うぅえぇ」
「お前、また吐くつもりか!」
「いい加減にしてください!ここで騒ぐのならすぐに出て行って!」
治療に専念したい亜香里がきつく言い放つ。
普段と打って変わったその声に、権藤は一歩引く。
だがその一言に、誰よりも傷ついたのは小野だった。
亜香里は部外者。ここでは立場的に一番弱い存在のくせにと。
この上下関係は、権藤が利己的に定めたルールに過ぎない。それでも、小野にとっては重要だった。
小野は自分より下の人間がいると、安心を得られた。優越感を抱けた。亜香里になら、多少は無遠慮な物言いをしても許されると、どこかで思い込んでいた。
亜香里はそんな態度さえ気に留めず、自然に接した。だから小野は、彼女を理解者だと思い込み、いつしか心の拠り所にしていた。
亜香里が鈴音を優先にするのは親子だから仕方がない。常に守ってくれなくても、亜香里なら自分を拒絶しない。そう思っていたのに、拒まれた。これは小野にとって、裏切りでしかない。
誰も頼りにならない、誰も信じることができない。
その現実だけが残った。
小野の涙で濡れた瞳。
それは見開かれ、黒い瞳孔は砕けたガラスのように光を乱反射させた。
「やだっやだやだやだ!」
絶叫は、剣崎の苦痛の呻きを掻き消す。
片瀬が「静かに!」と制するが、もはや声すらも届かない。
「いやぁああああああ!」
首を横に振る。
全てを拒絶する小野の悲鳴がビル全体に響き渡った。
その声は不協和音となり、廊下の窓ガラスを微かに震わせる。
「バカが、黙れ!外に聞こえるだろ!」
権藤の怒声と、耳をつんざく小野の悲鳴。
これでは外の膠喰体に気づかれる。
権藤は慌てて小野の腕を掴むが、彼女は狂ったように腕を振り払う。
叫びながら給湯室から飛び出す。
そのままオフィスへ逃げるように走り込んでいった。
藍川は同情よりも、なぜ今、こんなときにという歯がゆさが湧きあがっていた。
剣崎は負傷し、手のひらが溶けているというのに、小野は場をかき回した。状況を悪化させた。憤りが胸を灼く。
それでも、見捨てられない。精神的に弱っている人を見ると、どうしても母と重なるからだ。
咄嗟に藍川は後を追おうとした。しかし、片瀬に止められる。
「今、優先すべきは剣崎さんの治療です」
言う通りだった。小野のメンタルよりも、今は剣崎の状態の方が急を要する。どちらを優先するのか悩むまでもなく、藍川は受け入れた。
「これを飲ませて。傷の痛みでショック状態になる前に」
亜香里が救急箱から鎮痛剤を探し出す。片瀬は意識が朦朧としている剣崎の首を支え、薬を飲ませる。藍川は新しいガーゼと消毒液を亜香里に手渡した。
「消毒液は逆効果になるから使えないわ。滅菌ガーゼを出来るだけ沢山集めてきて。あと、すみません権藤部長。小野さんの様子を見てきてください」
普段なら人の指図を受けない権藤だが、まだ叫び声や大きな物音がする。
このままでは本当に膠喰体をおびき寄せ兼ねない。放置するわけにはいかなかった。
「くそっ、面倒な女だな」
権藤は煩わしそうに小野の後を追う。
◇
オフィス内。
小野が通ったライン上に書類やペン等が散乱していた。
彼女は机の陰で胎児のように丸くなり、爪が皮膚に食い込むほど頭を掻きむしっている。
瞳孔は揺らぎ、よだれが顎から糸を引くほどに開いた口から、「溶ける、溶ける、誰も、助けてくれない、いや、いや、いやぁあああ」と断続的に悲鳴が上がった。
彼女はどこかで、自分がおかしいとわかっていた。周りに迷惑をかけている。でも、止められない。
「小野、黙らんか!」
「ヤダヤダヤダァアアア!」
耳を塞いで叫ぶ。
彼女が欲しいのは、ただ「あなたは大丈夫だ」という言葉だけ。
苛立った権藤は、すぐさま小野に覆いかぶさって口を手で塞いだ。
小野の頬は涙で濡れており、権藤の掌にある脂汗と混じり合った。
「うっ!んんっ!」
抵抗する小野の体が、権藤の下でくねる。
制服の下から伝わる体温、柔らかな腰の曲線が掌に吸い付くような感触が、彼の欲求を呼び覚ました。だぶついた頬がわずかに紅潮し、目は色情に染まる。
(こいつ……意外と悪くない肉付きだな)
権藤のもう片方の手が、無造作にスカートの裾を捲り上げた。
「っ!?」
小野の目がさらに見開かれる。錯乱した彼女の瞳孔は、もはや焦点を失っていた。
「なぁに、ちょっとしたお遊びだ……散々迷惑をかけたんだ。少しくらい付き合え」
声は濁っていた。だがその時。
「誰かいるのか?」
息も絶え絶えの天沢。そして鈴音だった。
天沢は全力で五階に駆け上がった後、少し休息してから鈴音と戻ってきた。
彼らには、権藤たちはオフィス机の死角になって姿が見えていない。声しか聞こえていない。権藤は慌てて小野から離れ、何事もなかったかのように立ち上がった。
「あ、いや、こいつが大声を出してな。膠喰体を呼び寄せかねんだろ。黙らせようとしただけだ」
この隙に、小野は泣きながらオフィスから飛び出して行った。
「あっ!……おじさん、わたし行ってくる」
涙をこぼす小野に気づいた鈴音は、小さな足で廊下へ飛び出していく
「待て、鈴音ちゃん」
天沢が咄嗟に手を伸ばしたが、指先は空を切った。
まだ状況を掴めていない天沢だったが、小野の乱れていた制服と、権藤の汗ばんだ顔に不信感を高まらせていた。
(まさか……)
良からぬことをしたのか。そんな疑いを強める。
「まったく、女の癇癪は手に負えんなぁ」
天沢の疑惑の目に、権藤は焦った。
この場に留まるのが居た堪れないのか、袖で汗を拭い、そそくさとオフィスから出ていく。
「待て!話がある!」
その背を追う天沢は……気づかなかった。
小野の甲高い悲鳴と、権藤の怒声。それらは屋外まで届いていた。
窓ガラスの向こう側。粘液を垂らす半透明の塊が這い上がってくる。
それは確かに、こちらを見ていた。じっと、獲物を見定めるように。




