21話 食料調達作戦
屋外階段から、路上を見下ろす。
地上は西日に照らされていた。目を細めても逃れられない日差しの下で、無数の膠喰体が鈍く徘徊していた。
「……こっちには気付いてない。急げ」
剣崎の低い囁きが背中を押す。三人は身を屈めたまま階段を降りていく。
先頭の片瀬が二階にたどり着くと、止まれのハンドサインを送る。ドアに耳を押し当てて、中の様子を窺う。
中は静かだ。息を潜めたまま、ノブを回す。
わずかに開いた隙間から零れる、湿り気を帯びた風。息を飲んで、三人は二階の中へと滑り込んだ。
◇
食堂前の廊下。
日差しに焼かれた網膜が、暗闇に呑まれて真っ白に痺れていた。
片瀬がL字の廊下の角から様子を見る。その先はまるで古井戸のような闇が沈み、微かな、ジュルリという湿った音、そして生臭さがあった。
十数秒後、やっと薄暗さに目が慣れてくる。
それから壁に沿って前進。
床に散らばった電灯の破片が、靴底に噛みつくように軋む。一歩ごとに、(踏むな、音を立てるな、息をするな)と、脳内が叫ぶ。
心臓が嫌になるほど大きく鳴っていた。
食堂をのぞき込む。
ブラインドの羽根の隙間から漏れた光が、床に細い光の帯をうっすら描いている。それはまるで暗闇を測る目盛りのようだった。
触手はすぐに見つけられた。電柱ほどの太さで、一階から伸びてきた触手は大蛇のように横たわっている。眠っているのか、動きはない。
片瀬は振り返り、人差し指で目尻に触れる。
危険察知サインだ。足が止まり、三人が密集する。
「どうする」
天沢が囁く。
「核の位置が、見えませんね」
鈴音から聞いた話では、膠喰体は体内の核で周囲を認識している。だが、この距離と薄暗さでは核を視認できない。
「迷っても仕方ありません、行きましょう」
「よし」
剣崎が同意する。
廊下沿いにある売店まで、距離は十メートルほど。
腰を屈めてサッと移動。すぐに辿り着く。
昨日、襲撃があったのは昼前だった。売店には、補充直後の食品が大量に陳列されていた。これで食料には困らない。助かった。その安堵が、ほんの一瞬だけ油断を招く。
「おぉっ……」
天沢が思わず、感嘆の声を漏らしてしまった。
(しまった!)
そう思った時には遅い。三人は息を飲む。
食堂の奥。巨大な触手が、ぴくりと震えた。
片瀬たちは慌てて棚の陰へ身を伏せる。
触手は売店の方へ向きを変えた。粘液を引きずる音が食堂に響く。
近付いてくる。
ゆっくり。
ゆっくりと。
止まれ。止まってくれ。
三人とも祈ることしかできなかった。
あと少し、あと数メートルで見つかる。そう思った瞬間だった。
触手はぴたりと止まる。それ以上は進まない。
やがて向きを変え、元いた場所へ戻っていった。
三人は同時に息を吐く。
天沢は両手を合わせ、何度も頭を下げていた。
「……ったく」
剣崎はため息を吐く。
「手分けするぞ、見張りは俺がする」
「はい」
そう小声で指示をした剣崎は、自分が背負っていたリュックを片瀬に渡した。
回収作業は慎重に取り掛かる。
お弁当のほかに、菓子パンやサンドイッチ等を音を立てずに入れていく。一つ一つの包装紙が擦れる音にさえ、今は大きく聞こえた。
だが、天沢は少し図太い。
リュックがはち切れそうなくらいパンパンに詰め込むものだから、そのたびに袋の擦れる音がする。
沢山の食料を確保する重要性は理解しつつも、片瀬はもっと慎重にしてほしいと、気が気じゃなかった。
(天沢さん、もう少し慎重に)
我慢できず、天沢の肩をトントンと叩いた。
大量の食料を前に興奮していた天沢は、わかっていると言わんばかりに鼻を膨らませてコクコク頷く。
剣崎も鋭い視線を投げつけた。
そこで目が合った天沢は慌ててリュックを背負う。
さっき叱られたばかりだ。焦ってしまい、ストラップが肩から滑り落ち、咄嗟に受け止めようとした手が棚の缶詰を叩き落とす。
カラン!
その音に肝を冷やしたら、今度は膨らんだリュックがアルミ製の棚に、ガシャン!っとぶつかった。
触手は大蛇のように起き上がる。こっちに伸びてきた。
「おっ、おまえぇ……!」
剣崎が拳を握り、恨みがましそうに天沢を睨む。
天沢は我が行動の愚かさに頭を抱えた。
触手は勢いよく迫る。だが、またしても売店の手前で止まった。
触手は伸びきったロープのように、ピンと張っている。
「……どうやらこの触手……届く範囲に制限があるみたいですね」
片瀬が小さく呟いた。
偶然ではなかった。
一度目も、今も。
売店まで来られない理由が、確かにそこにあった。
胸を撫で下ろす一同。
すると、ここで天沢が立ち上がる。好奇心に吸い寄せられるように、一歩、一歩と足を進ませた。学者としての本能が、観察へと駆り立てていた。
片瀬と剣崎がこっちに戻れと合図する。
しかし、天沢の目は触手に釘付けだ。一歩、また一歩と近づく。止まらない。
剣崎は何度も拳を振り下ろし、緊急退避の合図を送っている。
届かない。夢中になっている天沢の目には、もう膠喰体しか映っていなかった。
「おい、やめろっ。天沢!」
ついに声が漏れる。
しかし天沢は触手を見つめたまま答えた。
「核の動きを観察したい。生体がわかれば、今後に役立てられる発見があるかもしれん」
もう、どっちも声を潜めるのを止めていた。
天沢は動物園にいる猛獣に興味を持つ少年のようだ。もう身を隠すこともせず、触手との距離を詰めていく。
触手は完全にこちらの位置を捕捉していた。
一旦引いて勢いを付けるが、建物の構造上、引っかかって一定の距離から近寄ってこれない。何度やっても同じだった。
「あーくそっ!!もうどうなっても知らんぞ!」
毒づいた剣崎も、身を隠すのをやめた。
片瀬から渡していたリュックを受け取り、二人で天沢に近づく。
天沢はスマホのライトを点けて、食い入るように触手の先端を観察し始めた。半透明の触手の中に、核がひとつ浮かんでいた。
その核は三人の内、誰を狙うか品定めしているかのように動き回っている。
「剣崎さん……何か、ものすごく嫌な予感がするんですが」
「奇遇だな、俺もだ」
頬を引きつらせた剣崎が、天沢に「戻るぞ」と声をかける。
ちょうどその時だった。触手の根元の方から、新たな核がひとつ、粘液の中を泳ぐようにして近づいてくる。
それが先端に到達すると、もとからあった核と信号を送り合うかのような明滅を始める。その反応に、天沢の興奮は頂点に達する。
「なになにっ!これはなんなんだ!」
核の一つが触手を体内から突き破るかのように、外層へと押しやられだす。
周囲が盛り上がり、やがて巨大なナメクジの目玉のように突き出した。
「これヤバいですよ!逃げましょう!」
「ああぁっちょちょっと」
片瀬が強引に天沢の手を引く。だが、踏ん張られてしまう。
――ベチャリ。
突き破った核は粘液を纏い、触手から分離する。
それは三十センチくらいの、芋虫のような形。
そこから形態を変える。
みるみる足が生え、尾が伸び、半透明のトカゲのような姿へと変形していく。
天沢は顔面蒼白になる。
「あ、これ危ないかも……」
「さっきからそう言ってるだろ、走れ走れ!」
剣崎の号令で、横並びになって一斉に駆けだす。
トカゲの膠喰体が天沢の背に向かって飛び掛かる。膨れ上がったリュックに張り付く。そこから薄っすらと煙が上がった。
「天沢さん!リュックを捨てて!」
天沢は後ろに倒れそうな勢いで肩掛けを下ろすが、膠喰体はリュックを伝って二の腕に回り込もうとする。
「うぉおおおっ!!」
剣崎の雄叫び。
躊躇なく膠喰体を鷲掴みにし、そのまま力任せに投げ飛ばした。
天沢はすぐにリュックを背負い直して感謝する。
それを剣崎は「行くぞ」と切迫した様子で返す。と、足元がふら付く。腐敗したような酸っぱい匂いが立ち上った。
掴んだとき、膠喰体の溶解液に触れていた。
剣崎の掌は皮膚が溶け、泡立ち、指の関節が白く浮き上がっている。彼の視界は激痛で白く染まっており、意識が飛びそうになるのを気合で繋ぎとめていた。
片瀬は走りながら「大丈夫ですか!?」と問う。
剣崎は歯を食いしばっており、返答する余裕はない。
投げられた膠喰体は猫のように宙で体勢を整え、着地。と同時に追ってくる。
廊下を駆ける三人。
床を蹴る足音が空洞に響く。背後から「ペタペタ」と粘液を浴びた足音が迫る。
三人はL字の廊下を抜け、避難階段に辿り着く。
先頭の片瀬がドアを押し開けると、強烈な西日が差し込んだ。
「……っ!」
ドアを押さえたまま剣崎と天沢を先に行かせる。そして追ってくる膠喰体を弾き飛ばそうと、念動力を発動させようとする。
「片瀬君、来い!」
「今行きます!」
天沢の呼びかけに答えながらも、膠喰体から目を離さなかった。
西日が差し込む境界線。
そこで、トカゲ型の膠喰体の動きが鈍る。
天沢が先ほど観察していた核が、光を浴びて激しく脈動し、まるで混乱しているようだった。
(光が……苦手?いや、もしかして目が眩んでいるのか!?)
「動けないのなら、全力で決める!」
片瀬は息を止め、視線を一点に凝縮させる。
無形の力が渦を巻き、収束していく。腕を伸ばす必要さえない。ただ、脳裏で「吹き飛べ」と念じる。
「……っ!」
――パンッと、衝撃波が炸裂。
空気が軋む。見えない拳が廊下を駆け抜け、膠喰体を押し潰す。
粘体が一瞬で圧縮され、ゼリー状の肉塊がびよーんと伸びる。
炸裂した不可視の力が、怪物を吹き飛ばした。
天井にぶつかり、壁を弾み、廊下の奥深くへと放り出される。
半透明の体液が飛沫した。
「っふぅ」
片瀬は呼吸を整える。高出力で使用した反動で、少しだけ視界がちらつく。
「おいっどうした!」
天沢が駆け戻り、片瀬の腕を掴んで引っ張る。非常階段の中腹にいた剣崎も、手すりに寄りかかりながら片瀬を待っていた。
「すみません。でも、あいつ。どうやら光で目が眩むみたいです」
片瀬は西日を指さす。
ドアの隙間から差し込む光の帯が、まるで聖域のように闇と隔てていた。
「光か。なるほど、それは重要な発見だ!」
「おいっ早く三階に戻るぞ」
興奮する天沢と異なり、剣崎は激痛に喘ぎ、かすれた声になっていた。
男二人だとギリギリの幅しかない階段で、片瀬はすかさず剣崎に肩を貸し、三人は階段を上がった。
警戒心など一切捨て、ただ逃げることだけに集中した。
三階のドアの向こうにいる、藍川の息遣いを感じるまで。




