19話 自己犠牲
五階の廊下の隅で、藍川が片瀬の袖をそっと引いた。
「片瀬さん、ちょっといいですか」
二人きりの話があるのだろう。そう察した剣崎と天沢は無言で道を譲る。
藍川は片瀬を十数歩ほど離れた場所へ連れて行き、立ち止まった。剣崎たちの目は届くが、声は聞こえない程度の距離だ。
「どうかしたの?」
「……片瀬さん。食料はあと、どのくらい持つと思います?」
さっき、権藤の目を盗んで自分の食料を持ち出そうとした時。
あと一歩のところで権藤に見つかりそうになると、気を利かせた亜香里が片瀬たちに目配せし、「今後の食料配分について」と権藤に話しかけた。その隙に、二人は持ち出すことができていた。
その際、長机に並べられた残りの食料が視界の端に映った。
パンが五袋。おにぎりは八個。ジュースは三本。お菓子も少しだけあったが人数を考えれば……。
「たぶん、この調子だと明日には尽きると思う」
「やっぱり、そうですか」
藍川も同じ考えだった。彼女は食料不足の不安を煽りたくなくて、二人だけで話をしたかったのだ。
「部長が管理している限り、公平な分配は望めません。それに、鈴音ちゃんに十分な食事が行き渡らないのは我慢ならないんです」
「俺もそう思う」
片瀬は少しだけ考え込む。やがて顔を上げた。
「まずは水だ」
藍川も顔を上げる。
「まだ水道は生きてる。飲み水を確保しよう」
「……はい」
藍川の視線は、片瀬の疲れた表情に向いている。
目の下の隈、少しひび割れた唇。早朝から仮眠もとらずに作業を続け、ほとんど休んでいない。なのに、視線は常に周囲に行き届いている。
(片瀬さん……また無理してる)
配給された食事。片瀬はこっそり、鈴音にも譲った。残っていたおにぎりでさえも、天沢に渡した。
すべてを分け与えてしまったから……彼は、何も食べていない。
空腹を感じているはずなのに、表情には表さない。むしろ、誰かが食べているのを見て、ほんの少しだけ頬が緩んでいた。
この事実は、ずっと片瀬を目で追い続けていた藍川だけが知る、静かなる献身だ。
そんな彼女の心配をよそに、片瀬はゴミ箱から空のペットボトルを探し始める。分別されたゴミの中から、汚れていないものを選び出す。その動作は、DIYで培われた、無駄のない実直さに満ちていた。
「いったい何をやっているんだ?」
剣崎と天沢が興味深そうに近づいて来た。
「――なるほど、水の確保か。それなら我々もやるぞ!」
天沢は明るい声で星座模様のスーツの裾をまくり、ゴミ箱を漁りだす。
ここで藍川が目配せする。廊下の奥から近づいて来る人影があった。
「部長たちが近づいてきます」
権藤と桐村が並んで歩いてくる。桐村は何かを囁き、権藤は何度も頷いていた。
「……お前たち、さっきから何をこそこそ話しているんだ」
「今後の方針を話し合っていました。水道からいつまで水が出るかわかりませんから」
権藤に対し、片瀬がペットボトルを見せて答えた。
「水ねえ。それでゴミを漁っていたのか。意地汚い連中だ」
嘲笑いを含んだ眼差し。桐村は明け透けに見下している。
「意地汚いだと?この状況がいつまで続くのか、お前には想像できないのか!?」
「なんだ?この状況に不満があるのなら、出て行けばいいだけの話しだろ」
「この状況で外に出ろと言うのか!?」
「まあ、待て」
カッとなった天沢を、剣崎が制する。刑事として不用意な衝突は避けるべきと判断したからだ。
その間に桐村は権藤の耳元に顔を寄せ、何かを囁き、最後に小さく顎を動かした。すると権藤がゆっくり前に出で、高らかに宣言する。
「せっかく貴重な食料を部外者にも分けてやったというのに、そのように横柄な態度をとるなら今後食料提供はせん」
見下すように言い放ち、そのまま続ける。
「当然、星月さん親子も部外者だから同様にだ」
「……ッ!」
天沢が拳を握る。
「そんな道理があるか!ふざけるのも大概にしろッ!」
「天沢、落ち着くんだ!」
いきり立つ天沢を、剣崎がなだめる。だが剣崎も、権藤たちに対する憤りが蓄積されており、その目は鋭かった。
一方で、片瀬だけは静かだった。
何かを考えている。その横顔を見た藍川の胸が、ざわついた。
(まさか……)
嫌な予感だけが、大きく膨らんでいく。
そして、片瀬は口を開く。
「ではせめて……」
藍川の鼓動が速くなる。
「俺の分だけでも、星月さんたちへ回してください」
頭が真っ白になった。
片瀬はまだ、自分を削ろうとしている。配給をすべて譲った上に、今度は自分の権利までも手放そうとする。どれだけ自分が重荷を背負うのだ。
藍川は、無意識に身体が動いていた。片瀬の腕を強く掴む。
「片瀬さん、やめて」
「いや、星月さんたちは俺が引き入れた。だから責任は俺にっ」
「違います」
藍川は首を振る。
「そういうことじゃありません」
喉の奥が熱い。
言葉が震える。
「……はいはい、凄いな片瀬は!」
乾いた拍手が割って入る。
桐村だった。
「さすが片瀬。親子を助けた時も思ったけど、お前は本当にすごいよ」
目は笑っていない。口元だけで笑っている。
「あんな状況で二人を助けて帰って来るなんて、俺たちとは出来が違う」
藍川は息を呑んだ。褒めている。なのに、胸騒ぎしかしない。
しかも桐村は笑みを崩さない。
「だったらさ……片瀬なら、一人で食堂まで行けるんじゃないか?」
何気ない口調で言ったその一言に、藍川の背筋が凍り付いた。
桐村の策略はまさにこれ、断れない状況を生み出すこと。仮に片瀬が食料調達を成功させても、直面している問題を解決できる。
断れば偽善者と罵るも良し、失敗すれば罵倒するも良し、消えれば尚良い。どう転んでも損はない。この桐村の思惑を、藍川はハッキリと読み取っていた。
(桐村さんは、片瀬さんを危険な場所に送り込もうとしている!)
「絶対にダメです!約束しましたよね。危ないことはしないって!」
バリケードの前で、交わした約束。
「お願いです……」
掴んだ腕へ、力が籠る。
「約束を破らないでください」
必死な声を受けても、片瀬は何も答えなかった。
ただ、掴まれた自分の腕を見つめている。その沈黙が、答えだった。
(やっぱり……)
この人は、一度決めたら止まらない。誰かを守ると決めた時だけは、絶対に。
片瀬はそっと藍川の手へ触れた。力ずくで振り払うのではなく。壊れ物を扱うように包み込む。
「ごめん」
その一言だけだった。
藍川は首を振る。
「謝ってほしいんじゃありません」
片瀬は気まずそうに笑った。
その表情が、余計に苦しかった。何かを覚悟した人の顔だったから。
桐村は、その様子を黙って眺めている。
藍川が触れるのは片瀬だけ。向けられる優しさも、心配も、全部、片瀬だけ。
嫉妬で狂いそうでも、表情は崩さない。
「部長。片瀬も、こう言っています。本人が行くと言っているんです。止める理由はありませんよね」
権藤が鼻を鳴らす。
「当然だ。行ってこい」
その一言で決まった。
藍川の指先から力が抜ける。止められなかった。約束を守らせることが、できなかった。
「ええいっでは俺が行く」
天沢が再度、前に出た。
「危険だ。お前のドジな所は承知している」
「失敬な!俺には気象学者としての観察眼がある!気圧の変化だって読めるんだ!あの化物の動きだって!」
剣崎は天沢をじっと見つめ、ゆっくり首を振る。
「読めん。却下だ」
一刀両断。
天沢が悔しそうに理屈をこねるが、剣崎は聞き耳を持たない。
そこへ片瀬が一歩踏み出す。
「部長、俺が行きます。確かに危険ですが、どちらにせよ必要なことです」
かつて味わった苦しみ。飢えは尊厳をも蝕む。
藍川との約束を違える罪悪感と、懸命に生きようとする命を守ること。その天秤は比べるまでもなく、最初から傾いていた。
「なんだ?結局は片瀬が行くのか?」
「私なら食堂の配置は頭に入っているので、効率的に動けます」
迷いはない。もう決めている。
藍川には、それが分かってしまった。それでも……。
「待ってください……」
もう一度、片瀬の腕を強く掴んだ。
離したくない。離してしまえば、この人は本当に行ってしまう。消えてしまう。そんな気がした。
「そんなの……そんなの、戻って来られる保証なんて、どこにもないじゃないですか。」
「大丈夫です。必ず戻ってきますから」
「そんなのわからないじゃないですか!」
もしあの触手に襲われたら、想像するだけで胸が張り裂けそうになる。
彼女は、人前で涙を流さないと決めている。父が亡くなって以来、ずっと。
泣いても何も変わらないから。誰も助けてくれない辛い現実があるだけだから。でも本当は、子供のように泣きじゃくりたい心がざわめいている。それを、必死に奥へと追いやっていた。
「すみません」
小さな傷のある藍川の手を、片瀬は両手で優しく包み込む。
その温もりは、指先にじんわりと染み渡り、かろうじて崩れずにいられる支えとなった。
少しだけ、落ち着ける薬になった。
「ひどいです」
「まあ落ち着け」
口を尖らせた藍川を、剣崎がなだめる。そして片瀬の目に、迷いがないのを確認した。
「……仕方がない。わかった。だが一人では行かせん。俺と天沢、片瀬の三人で行くぞ」
「それじゃあ私もっ」
「駄目だ」
藍川も加わろうとしたが、剣崎の鋭い視線に押し黙る。
「三人で行く、ここは譲らん」
こうなった剣崎は梃子でも動かない。幼い頃からの付き合いのある藍川には、わかっていた。
「……必ず、戻って来てください」
「ああ、今度こそ約束する」
その言葉を聞いた藍川は、小さく目を閉じた。
信じたい。信じるしか、なかった。




