18話 不当な分配
バリケードを完成させた片瀬たちが五階へ戻った頃には、昼を回っていた。階段を上り切った天沢は、星座模様のネクタイを緩め、胸元を手で扇ぐ。
「はぁー……腹減ったぁ。何か食べるもんないのかぁ?」
「……食事の準備ならしている。早く入って来い」
桐村が答える。その言葉を聞いた途端、天沢の顔がぱっと明るくなった。
「おお!食事か!ありがとう!」
勢いよく大会議室へ入っていく。片瀬たちも後に続いた。部屋には全員が揃っていた。そこで片瀬は足を止める。何かがおかしい。小野は俯いたまま視線を上げない。亜香里も鈴音も、どこか表情が硬い。部屋の空気だけが、不自然なほど静かだった。
胸に引っ掛かるものを覚えながらも、片瀬は先に報告を済ませる。
「バリケードが完成しました」
「ご苦労」
権藤は満足そうに頷く。
「非常時こそ、こうした結束が大事だからな」
そう言って、亜香里と小野へ視線を向けた。
「では、食事の準備を」
「……はい」
亜香里は静かに立ち上がる。机へ次々と食料が並べられていく。権藤の前には、カップ麺、おにぎり二つ、チョコレートバー、ジュース。桐村、片瀬、藍川には、その七割ほど。小野はさらに少ない。そして亜香里、鈴音、剣崎、天沢の前に置かれたのは、それよりさらに少ない食料だった。
亜香里の手が、一瞬止まる。目の前にある、小さなパン。これでは到底足りない。天沢は朝からずっと、重い机を運び続けていた。
(こんなの、おかしい……)
せめて一つだけでも。そっと、おにぎりを天沢の皿へ移そうとする。その瞬間に、権藤と目が合った。手が止まる。
ほんの数秒、迷った末に、手を引いた。
「……これだけ?」
天沢が目を丸くした。亜香里は答えられない。視線を落としたまま、小さく唇を噛む。天沢は自分の皿と権藤の皿を見比べた。
「デザートでもあるのか?」
「ない。文句があるなら食うな」
権藤は即座に言い切った。
部屋の空気が凍り付く。
「……どういうつもりだ?」
剣崎が机へ両手をつき、身を乗り出す。
静かな怒気が、室内の空気を張り詰めさせた。
「救助隊がいつ来るかわからんからな」
権藤は椅子へ深く腰掛けたまま答える。
「食料は節約せねばならん」
「節約することに異論はない」
剣崎は一度言葉を切る。
「だが、この配分は説明がつかん」
権藤は鼻で笑った。
「部外者は身の程をわきまえろ。うちの社員を優先するのは当然だ」
その一言だった。
片瀬は幼い頃に飢えを経験しいてる。冷たい床の上で腹を抱え、弟と親の残飯を分け合った日々。その記憶が、権藤の言葉と重なった。
「権藤部長。こんな時だからこそ、協力して乗り越えるべきじゃないですか」
隣で藍川も頷く。
「私も、公平に分けるべきだと思います」
権藤が答える前に、桐村が口を開いた。
「では、多数決にしよう」
その場の全員が桐村を見る。
桐村は歪んだ笑みを浮かべていた。
「それなら公平だろ」
剣崎はゆっくり頷く。
「……いいだろう」
異論はなかった。少なくとも、その時までは。
桐村は誰にも気付かれないよう、小さく口角を上げる。
盤面は、思い描いた通りに動いている。
「では、権藤部長の案に賛同する方」
桐村が静かに周囲を見渡した。最初に手を挙げたのは権藤だった。当然だと言わんばかりに腕を上げる。続いて桐村。そして、小野が少し震えながら手を挙げた。
剣崎が目を見開く。
(小野まで……?)
その視線を受けた小野は、顔を上げられない。
俯いたまま、小さく肩を震わせている。
残るは星月親子だった。亜香里は膝の上で手を握り締めたまま動けない。
権藤を見る。鈴音を見る。そして、もう一度権藤を見る。
迷いが、その表情に浮かんでいた。その時だった……鈴音が、小さく手を挙げた。
「……鈴音」
亜香里が息を呑む。娘は何も言わない。ただ、不安そうに母を見つめていた。
その小さな手を見た瞬間。亜香里はゆっくりと目を閉じる。そして、自分も手を挙げた。
「五人」
桐村が静かに数える。
「これで可決です」
部屋が静まり返る。
「はっはっは!これで文句はないな!」
権藤だけが満足そうに笑った。
剣崎は言葉を失う。予想していた結果ではなかった。小野が、星月親子まで、権藤へ従うとは思っていなかった。
握った拳へ力が入る。こんな状況で、生き残ることより先に、人を支配しようとしている。怒りとも、呆れとも違う感情が胸の奥で渦巻いた。
これ以上ここにいたら、何を言うか分からない。剣崎は自分の少ない食料を掴み、そのまま立ち上がる。
バタンッ!
ドアが大きな音を立てて閉まった。
天沢は自分に配られたひとつのバターロールよりも、鈴音に置かれてる半分に割られた栄養バーに目が行った。小さな手はそれに伸びない。母の顔色を窺っている。
天沢も立ち上がる。権藤を睨みつけたまま、何も言わず部屋を出て行く。
静まり返った室内で、亜香里だけが俯いていた。
自分の食料を見る。剣崎たちの背中を見る。唇を強く噛んだ――せめて、この食料だけでも。そう思い、立ち上がろうとした、だが……。
「どこへ行く」
権藤の低い声が飛ぶ。
足が止まる。
「食べないなら残飯扱いだ。娘の分も含めて、こちらで管理するぞ」
鈴音が、ぎゅっと母の腕へ抱きついた。亜香里は何も言えない。震える手で、自分の栄養バーを鈴音へと差し出す。
「鈴音……食べて」
鈴音は首を横に振った。
「お母さんが食べて」
その一言が、亜香里の胸へ深く突き刺さる。
視界が滲む。
それでも涙だけはこぼさなかった。
権藤は何事もなかったようにカップ麺の蓋を開ける。桐村も黙って箸を取った。二人だけが、満足そうに食事を始める。
小野は動かなかった。
机の上の食料にも手を付けず、ただ虚ろな目で一点を見つめ続けていた。
◇
五階廊下の突き当たり。
大会議室を飛び出してから、しばらく経っていた。
「……あのクソジジイ」
天沢が壁を拳で叩く。鈍い音だけが廊下へ響いた。怒りは、まだ収まらない。
剣崎は腕を組み、黙って窓の外を見つめていた。
呼吸はもう乱れていない。熱くなった頭が、少しずつ冷えていく。感情に流されれば判断を誤る。それは刑事になってから、嫌というほど学んできたことだった。
「落ち着け。今は仲間割れしている場合じゃない」
「でも納得できるか!」
天沢が振り返る。
「あの配分はおかしい!俺たちだけじゃない!星月さんも鈴音ちゃんも、全然足りてなかったじゃないか!」
剣崎は小さく頷く。
「……ああ」
気になっていたのは、そこだった。
権藤ではない。亜香里たちの反応だ。小野は終始うつむいたまま。亜香里は何度も権藤の顔色を窺っていた。そして、多数決。
あの挙手は、とても自分の意思で決めたようには見えなかった。
(何か、弱みを握られているのか)
そう考えれば、すべて辻褄が合う。権藤は圧力を掛けた。だから逆らえなかった。そう考えるのが自然だった。
「星月さんたちは、脅されているのかもしれん」
その時だった。
「剣崎さん」
背後から声が掛かった。
振り向くと、片瀬と藍川が立っていた。
二人とも周囲を気にするように足早に近付いてくる。
「……これ」
片瀬はポケットから、おにぎりを取り出して、天沢へ差し出す。
一瞬遅れて、藍川も菓子パンを取り出し、剣崎へ手渡した。
「実は……」
藍川が声を潜める。
「これを持ち出そうとした時、部長に見つかりそうになったんです」
剣崎が眉をひそめる。
「でも」
藍川は小さく笑った。
「亜香里さんが、機転を利かせて注意を逸らしてくれました」
剣崎は手の中のパンを見る。それから、ゆっくり頷いた。
「そういうことか……」
やはり間違っていなかった。亜香里は権藤へ従ったのではない。従わざるを得なかった。
それでも、できることをしようとしていた。
「ありがとう」
パンを握る手へ、少しだけ力が入る。その温もりが、不思議と心まで伝わってきた。
天沢は片瀬から受け取ったおにぎりを見つめた。まだ少し温もりが残っている。ゆっくりと口へ運び、一口かじる。米の甘みが広がる。しかし……。
「……くそ。こんな時に……こんなことで……」
思わず声が漏れた。
握る手に力が入る。悔しかった。自分の取り分が少なかったからじゃない。腹が減っていたからでもない。女子供にさえ十分な食事が行き渡らない。そんな当たり前のこと一つ守れなかった。
目の前で理不尽がまかり通っているのに、何も変えられなかった。会議室を飛び出すことしかできなかった自分が、情けなかった。
学生時代。
ラグビー部の監督から、何度も言われた言葉がある。
――失敗を恐れるな。笑われてもいい。間違えてもいい。動かなければ、何も始まらない。その言葉が好きだった。
だから天気予報士になってからも、予報を外すことを恐れなかった。頭を下げて済むことなら、何度でも謝ればいい。また伝えればいい。逃げないことの方が大事だと思っていた。
なのに今日は違う。権藤の横暴を前にして、何一つ行動できなかった。言い返すことも。止めることも。女子供を守ることも、できなかった。
「俺は……口だけじゃないか……」
喉が詰まる。
その言葉と一緒に、涙が頬を伝った。
誰も慰めなかった。
剣崎は黙って壁へ背を預ける。
片瀬は床に視線を落とした。
藍川も何も言わない。
励ましの言葉では、この悔しさは消えない。
これが自分自身で受け止めるしかない痛み。
しばらく誰も口を開かなかった。
だが天沢は袖で涙を拭くと、大きく息を吐いて。
「……駄目だな」
自嘲するように笑う。
「俺がこんなんじゃ」
もう一口、おにぎりを口へ運ぶ。
味わうように噛み締める。
飲み込む。
それから顔を上げた。
その目には、もうさっきまでの涙は残っていなかった。




