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膠喰体《ゲルイーター》  作者: 禍福
エピソードⅠ 秘密
19/23

18話 不当な分配

 バリケードを完成させた片瀬たちが五階へ戻った頃には、昼を回っていた。階段を上り切った天沢は、星座模様のネクタイを緩め、胸元を手で扇ぐ。


「はぁー……腹減ったぁ。何か食べるもんないのかぁ?」

「……食事の準備ならしている。早く入って来い」


 桐村が答える。その言葉を聞いた途端、天沢の顔がぱっと明るくなった。


「おお!食事か!ありがとう!」


 勢いよく大会議室へ入っていく。片瀬たちも後に続いた。部屋には全員が揃っていた。そこで片瀬は足を止める。何かがおかしい。小野は俯いたまま視線を上げない。亜香里も鈴音も、どこか表情が硬い。部屋の空気だけが、不自然なほど静かだった。

 胸に引っ掛かるものを覚えながらも、片瀬は先に報告を済ませる。


「バリケードが完成しました」

「ご苦労」


 権藤は満足そうに頷く。


「非常時こそ、こうした結束が大事だからな」


 そう言って、亜香里と小野へ視線を向けた。


「では、食事の準備を」

「……はい」


 亜香里は静かに立ち上がる。机へ次々と食料が並べられていく。権藤の前には、カップ麺、おにぎり二つ、チョコレートバー、ジュース。桐村、片瀬、藍川には、その七割ほど。小野はさらに少ない。そして亜香里、鈴音、剣崎、天沢の前に置かれたのは、それよりさらに少ない食料だった。


 亜香里の手が、一瞬止まる。目の前にある、小さなパン。これでは到底足りない。天沢は朝からずっと、重い机を運び続けていた。


(こんなの、おかしい……)


 せめて一つだけでも。そっと、おにぎりを天沢の皿へ移そうとする。その瞬間に、権藤と目が合った。手が止まる。

 ほんの数秒、迷った末に、手を引いた。


「……これだけ?」


 天沢が目を丸くした。亜香里は答えられない。視線を落としたまま、小さく唇を噛む。天沢は自分の皿と権藤の皿を見比べた。


「デザートでもあるのか?」

「ない。文句があるなら食うな」


 権藤は即座に言い切った。

 部屋の空気が凍り付く。


「……どういうつもりだ?」


 剣崎が机へ両手をつき、身を乗り出す。

 静かな怒気が、室内の空気を張り詰めさせた。


「救助隊がいつ来るかわからんからな」


 権藤は椅子へ深く腰掛けたまま答える。


「食料は節約せねばならん」

「節約することに異論はない」


 剣崎は一度言葉を切る。


「だが、この配分は説明がつかん」


 権藤は鼻で笑った。


「部外者は身の程をわきまえろ。うちの社員を優先するのは当然だ」


 その一言だった。

 片瀬は幼い頃に飢えを経験しいてる。冷たい床の上で腹を抱え、弟と親の残飯を分け合った日々。その記憶が、権藤の言葉と重なった。


「権藤部長。こんな時だからこそ、協力して乗り越えるべきじゃないですか」


 隣で藍川も頷く。


「私も、公平に分けるべきだと思います」


 権藤が答える前に、桐村が口を開いた。


「では、多数決にしよう」


 その場の全員が桐村を見る。

 桐村は歪んだ笑みを浮かべていた。


「それなら公平だろ」


 剣崎はゆっくり頷く。


「……いいだろう」


 異論はなかった。少なくとも、その時までは。

 桐村は誰にも気付かれないよう、小さく口角を上げる。

 盤面は、思い描いた通りに動いている。


「では、権藤部長の案に賛同する方」


 桐村が静かに周囲を見渡した。最初に手を挙げたのは権藤だった。当然だと言わんばかりに腕を上げる。続いて桐村。そして、小野が少し震えながら手を挙げた。

 剣崎が目を見開く。


(小野まで……?)


 その視線を受けた小野は、顔を上げられない。

 俯いたまま、小さく肩を震わせている。


 残るは星月親子だった。亜香里は膝の上で手を握り締めたまま動けない。

 権藤を見る。鈴音を見る。そして、もう一度権藤を見る。

 迷いが、その表情に浮かんでいた。その時だった……鈴音が、小さく手を挙げた。


「……鈴音」


 亜香里が息を呑む。娘は何も言わない。ただ、不安そうに母を見つめていた。

 その小さな手を見た瞬間。亜香里はゆっくりと目を閉じる。そして、自分も手を挙げた。


「五人」


 桐村が静かに数える。


「これで可決です」


 部屋が静まり返る。


「はっはっは!これで文句はないな!」


 権藤だけが満足そうに笑った。


 剣崎は言葉を失う。予想していた結果ではなかった。小野が、星月親子まで、権藤へ従うとは思っていなかった。

 握った拳へ力が入る。こんな状況で、生き残ることより先に、人を支配しようとしている。怒りとも、呆れとも違う感情が胸の奥で渦巻いた。

 これ以上ここにいたら、何を言うか分からない。剣崎は自分の少ない食料を掴み、そのまま立ち上がる。


 バタンッ!

 ドアが大きな音を立てて閉まった。


 天沢は自分に配られたひとつのバターロールよりも、鈴音に置かれてる半分に割られた栄養バーに目が行った。小さな手はそれに伸びない。母の顔色を窺っている。

 天沢も立ち上がる。権藤を睨みつけたまま、何も言わず部屋を出て行く。

 静まり返った室内で、亜香里だけが俯いていた。


 自分の食料を見る。剣崎たちの背中を見る。唇を強く噛んだ――せめて、この食料だけでも。そう思い、立ち上がろうとした、だが……。


「どこへ行く」


 権藤の低い声が飛ぶ。

 足が止まる。


「食べないなら残飯扱いだ。娘の分も含めて、こちらで管理するぞ」


 鈴音が、ぎゅっと母の腕へ抱きついた。亜香里は何も言えない。震える手で、自分の栄養バーを鈴音へと差し出す。


「鈴音……食べて」


 鈴音は首を横に振った。


「お母さんが食べて」


 その一言が、亜香里の胸へ深く突き刺さる。

 視界が滲む。

 それでも涙だけはこぼさなかった。


 権藤は何事もなかったようにカップ麺の蓋を開ける。桐村も黙って箸を取った。二人だけが、満足そうに食事を始める。


 小野は動かなかった。

 机の上の食料にも手を付けず、ただ虚ろな目で一点を見つめ続けていた。




 五階廊下の突き当たり。

 大会議室を飛び出してから、しばらく経っていた。


「……あのクソジジイ」


 天沢が壁を拳で叩く。鈍い音だけが廊下へ響いた。怒りは、まだ収まらない。


 剣崎は腕を組み、黙って窓の外を見つめていた。

 呼吸はもう乱れていない。熱くなった頭が、少しずつ冷えていく。感情に流されれば判断を誤る。それは刑事になってから、嫌というほど学んできたことだった。


「落ち着け。今は仲間割れしている場合じゃない」

「でも納得できるか!」


 天沢が振り返る。


「あの配分はおかしい!俺たちだけじゃない!星月さんも鈴音ちゃんも、全然足りてなかったじゃないか!」


 剣崎は小さく頷く。


「……ああ」


 気になっていたのは、そこだった。

 権藤ではない。亜香里たちの反応だ。小野は終始うつむいたまま。亜香里は何度も権藤の顔色を窺っていた。そして、多数決。

 あの挙手は、とても自分の意思で決めたようには見えなかった。


(何か、弱みを握られているのか)


 そう考えれば、すべて辻褄が合う。権藤は圧力を掛けた。だから逆らえなかった。そう考えるのが自然だった。


「星月さんたちは、脅されているのかもしれん」


 その時だった。


「剣崎さん」


 背後から声が掛かった。

 振り向くと、片瀬と藍川が立っていた。

 二人とも周囲を気にするように足早に近付いてくる。


「……これ」


 片瀬はポケットから、おにぎりを取り出して、天沢へ差し出す。

 一瞬遅れて、藍川も菓子パンを取り出し、剣崎へ手渡した。


「実は……」


 藍川が声を潜める。


「これを持ち出そうとした時、部長に見つかりそうになったんです」


 剣崎が眉をひそめる。


「でも」


 藍川は小さく笑った。


「亜香里さんが、機転を利かせて注意を逸らしてくれました」


 剣崎は手の中のパンを見る。それから、ゆっくり頷いた。


「そういうことか……」


 やはり間違っていなかった。亜香里は権藤へ従ったのではない。従わざるを得なかった。

 それでも、できることをしようとしていた。


「ありがとう」


 パンを握る手へ、少しだけ力が入る。その温もりが、不思議と心まで伝わってきた。


 天沢は片瀬から受け取ったおにぎりを見つめた。まだ少し温もりが残っている。ゆっくりと口へ運び、一口かじる。米の甘みが広がる。しかし……。


「……くそ。こんな時に……こんなことで……」


 思わず声が漏れた。

 握る手に力が入る。悔しかった。自分の取り分が少なかったからじゃない。腹が減っていたからでもない。女子供にさえ十分な食事が行き渡らない。そんな当たり前のこと一つ守れなかった。

 目の前で理不尽がまかり通っているのに、何も変えられなかった。会議室を飛び出すことしかできなかった自分が、情けなかった。


 学生時代。

 ラグビー部の監督から、何度も言われた言葉がある。

 ――失敗を恐れるな。笑われてもいい。間違えてもいい。動かなければ、何も始まらない。その言葉が好きだった。


 だから天気予報士になってからも、予報を外すことを恐れなかった。頭を下げて済むことなら、何度でも謝ればいい。また伝えればいい。逃げないことの方が大事だと思っていた。


 なのに今日は違う。権藤の横暴を前にして、何一つ行動できなかった。言い返すことも。止めることも。女子供を守ることも、できなかった。


「俺は……口だけじゃないか……」


 喉が詰まる。

 その言葉と一緒に、涙が頬を伝った。


 誰も慰めなかった。

 剣崎は黙って壁へ背を預ける。

 片瀬は床に視線を落とした。

 藍川も何も言わない。


 励ましの言葉では、この悔しさは消えない。

 これが自分自身で受け止めるしかない痛み。

 しばらく誰も口を開かなかった。


 だが天沢は袖で涙を拭くと、大きく息を吐いて。


「……駄目だな」


 自嘲するように笑う。


「俺がこんなんじゃ」


 もう一口、おにぎりを口へ運ぶ。

 味わうように噛み締める。

 飲み込む。

 それから顔を上げた。


 その目には、もうさっきまでの涙は残っていなかった。

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