17話 暗躍
昼下がりの社長室。権藤部長と密談を交わしている桐村の頭を占めているのは、ただ一つ。如何にして片瀬を陥れるか、それだけだった。
「部長、食料管理についてご指示を仰ぎたいのですが」
わざとらしく腰を低くして、権藤の機嫌を探る。
青白い皮膚に張り付いた笑み、ネクタイの結び目を弄ぶ細い指。それら全てが、取り繕いを浮き彫りにしていた。
「急に何だ?」
「実はですね……」
桐村は部屋を見回し、二人きりであることを確かめてから話し始めた。
「昨日の戦況を見る限り、救助は当分期待できません。このままでは剣崎や天沢が、勝手に食料を管理し始めるかもしれません」
権藤が太い指で顎を撫でる。
桐村は間を置かず続けた。
「片瀬も、あれだけ皆から信頼されています。『食料は公平に』と言われれば、反対する人はいないでしょう」
権藤は太い指で顎を撫でながら唸る。
「なるほどな……確かに剣崎の態度は前から気に入らん」
「はい。しかし、この会社の責任者は部長です。非常時だからこそ、指揮系統は一つであるべきです」
「言われずともわかっておる」
権藤は胸を張る。
それを見た桐村は、さらに畳み掛けた。
「以前、部長はおっしゃっていましたよね。『非常時ほどトップダウンで動け』と……今、このビルには九人います。そのうち過半数は、我が社の社員です。部長の指示に従わない者がいるなら、それは会社への裏切りではないでしょうか」
肉厚の瞼の奥で、権藤の目が鋭く光った。
ソファからゆっくり身体を起こし、腹を突き出すように胸を張った。
「連中に指示系統を勘違いさせる気はない」
一拍置く。
「……多数派工作でもしておくか」
「さすが部長です。まさに、そのご判断が必要だと思っておりました」
桐村は、へつらうように頭を下げた。その姿は、かつて自分が見下していた世古と、どこかよく似ていた。もちろん、桐村自身はそれに気づいていない。
「では早速、星月さん親子と小野を連れて参ります。負い目のある彼女たちなら、部長のご指示に従うでしょう」
「なぜ片瀬や藍川は呼ばん?」
「彼らは今、三階で剣崎や天沢とバリケード設置作業をしております。ふたりだけを呼び出しては、怪しまれかねません。それに今の生存者は九名です。五人いれば多数派になれるかと」
「よし、いいだろう。それでいけ」
権藤は満足そうに頷く。
桐村は静かに一礼し、社長室を後にした。
扉が閉まる。その瞬間だけ。誰にも見えない位置で、桐村の口元がわずかに歪んだ。
撒いた餌には、もう食いつき始めている。
あとは網を引くだけだった。
◇
女性が集まっている役員室の前で、桐村は一度足を止めた。
ドアの向こう側から、話し声が聞こえる。
「天沢先生って何事にも一生懸命で、本当に素敵よね」
亜香里の熱のこもった声。娘の鈴音が「お母さん、また天気おじさんの話してる」と呆れたように笑っている。
「あのおじさんって、ただのオタじゃん」
「ただのオタってなんですか!そもそもオタは、ただ者じゃないんですぅ!」
小野の冷めた口調に、亜香里は両手をぐっと握り、ぷんすか反論している。
その様子に鈴音が吹き出した。
「もう、お母さん必死すぎ」
部屋には穏やかな笑いが広がる。昨日まで他人だったとは思えないほど、三人の距離は縮まっていた。
桐村は黙って聞いていた。胸の奥が、じり、と焼ける。
(……気に入らない)
こんな状況でも笑える。人は、こんなにも簡単に打ち解けられる。
この原因は片瀬だ。あいつの影響で、皆が勝手にまとまり始めた。
(だから壊す)
心の中だけで呟く。そのために、今日ここへ来た。まだ始まったばかりだ。焦る必要はない。策略はまだ始まったばかり。ここで足元を乱すなど、愚の骨頂だ。
薄い唇を舐め、無表情の仮面を被る。
掌で頬を撫で、わずかに緩んだ表情を整えてから、深く息を吸い込む。
慎重に次の一手を打つように、三度、完璧な間隔でドアをノックした。
「失礼します。権藤部長がお呼びです」
小野がマスク越しに警戒の視線を向けた。
亜香里は鈴音を膝から降ろし、不思議そうに首を傾げる。
「権藤部長が?何の用かしら」
亜香里が訝しげに首を傾げる。
桐村は意図的に視線を伏せ、控えめな態度を装った。
「食料配分について、ご相談したいとのことです。剣崎さんや天沢さん、片瀬……たちは、バリケード作業に出ていますので後ほど」
藍川の名前が頭をよぎると、胃が熱く疼いた。
今頃あの女は、きっと片瀬の傍でいい顔をしているのだろうと。
「わかりました」
亜香里は素直に立ち上がる。
「鈴音、行こうか」
「うん」
小さく返事をする鈴音が、ぴょんと跳ねた。
小野は少しだけ迷うように視線を泳がせたが、黙って後に続いた。
三人の背中を見送りながら、桐村は心の中で静かに数える。
(一人……二人……三人)
これで駒は揃う。
次はいよいよ、盤面を動かす番だった。
◇
社長室で待ち構えていた権藤は、ソファでふんぞり返っていた。傲慢と威厳が混在する佇まいだ。
「お呼び出しを頂きましたが……」
不穏な空気を感じ取った亜香里は背筋を伸ばし、より丁寧なお辞儀をする。
それを当然のように受け流す権藤は、平然と核心を突く言葉を口にする。
「星月さん。世古課長の件もあるが、お前たちがこのビルへ来たせいで、二階の食堂へ降りられなくなった。食料不足の原因は、あなた方にある。小野、正面玄関の鍵を開けたお前も同罪だ」
他人事としてうつむいていた小野は、ぎょっとして顔を上げる。
「それは……私の責任です。娘には何の責任もありません」
亜香里は反射的に鈴音を抱き寄せ、自分の影で娘の存在を小さく見せようとした。
だが権藤は太い指で机を叩き、「まだ話は終わっておらん」と遮る。女性三人は思わず肩をびくっと縮めた。
「今後このような過ちを犯さぬよう、食料配分は私の判断に従え。そうすれば追い出しはせん」
その一言に、亜香里は言葉を失う。外には、あの化物がいる。このビルを追い出されることだけは避けたい。拒むという選択肢は存在せず、亜香里は「……はい」と言いなりになるしかなかった。
「お前はどうなんだ」
小野は弱い自分を抱きしめるように縮こまり、浅く速い呼吸を繰り返す。
(権藤部長……私が鍵を開けたことを、知っていたんだ……)
ここで逆らえば、権藤はもっと問い詰める。
世古課長が死んだ責任を問われる。
それこそが、彼女が最も恐れること。
実は彼女には、誰にも知られたくないことがまだある。
それは世古が一階のロビーに降りてくる前の話。亜香里と警官が、正面玄関で開けてくれとドアを叩いていた場面で、彼女はすぐにドアを開けなかった。怖かったのだ。
遅れて来た世古課長が「ドアを開けるな!」と言った顔は醜悪だった。
それが自分と重なって、身勝手さが浮き彫りになって……それでやっぱり、助けなくては、そう思い直した。
(迷わず、すぐにドアを開けていれば、誰も死ななかった)
――それが、小野美咲が誰にも言えずに抱え続けてきた秘密。
これを知られたら、自分がどれほど臆病で、身勝手な人間かが露わになる。それだけは避けたい。
たった数秒の迷い。この判断の遅れが、世古課長の命を奪った。いや、あの警官も死ななかったかもしれない。そんな思いが、彼女の中で何度も何度も繰り返し、再生されては消えなかった。
俯いたまま、権藤を直視できない。
責められるのが怖い。ならば、従えばいい。部長の言う通りにしていれば、問い詰められない。誰も、あの時のことを掘り返さない。ただ、指示に従っているだけの人間でいればいい。
プレッシャーに逆らえない彼女は、誰かの影に隠れて安心を得たかった。
――コンッ!
権藤の太い指が、机を強く叩く。この音に、小野の肩がびくっと跳ねる。
「おい小野、話を聞いているのか?返事くらいしろ」
「……はい」
消え入りそうな返事だった。
「ったく、要は俺に従ってりゃ食いっぱぐれねえんだ。それぐらい覚えておけ」
小野のマスクの下は青ざめていた。
権藤に逆らったら、何をされるかわからない。
彼女は知っている。この会社で彼に逆らった者の末路を。
左遷された先輩、辞めさせられた同僚。逆らえば、簡単にクビにされる。自分も亜香里たちと同じように、出て行けと言われかねない。
オドオドした態度の小野を、桐村は見下していた。
これ見よがしに呆れた溜息を出し、言葉を添える。
「私も了解しました。私ども四人は部長のご指示に従います」
「よし、わかれば良いんだ」
権藤は満足そうに踏ん反り返り、肉厚の二重顎を引く。
対する桐村は深々と頭を下げる。
その表情は長い前髪で隠れているものの、隙間から冷たい笑みが見えた。
(これで五人。多数派は作れた)
あとは、この流れに沿って行けば良い。
彼の頭の中では、次の策が巡っている。
片瀬を罠に嵌め、藍川を手元に引き寄せる計画を。




