16話 藍川良晴
三階フロアは、昨夜のまま時間が止まっていた。
積み上げられた机とロッカー。床へ置かれたロープや工具箱。作りかけのバリケードが二人を待っていた。
「少し進めようか」
「はい」
片瀬は工具箱を開き、中身を見渡す。ハンマーへ手を伸ばしかけて、止めた。社長室では、みんなが眠っている。この静けさを壊したくなかった。代わりに結束バンドとドライバーを取り出す。
「今日は音の出ない作業からやろう」
「わかりました」
藍川も自然としゃがみ込み、結束バンドを手に取る。片瀬が机の位置を微調整し、藍川が脚同士を固定する。片瀬がロープを張り直せば、藍川が余った結束バンドを切り揃える。
静かな朝。聞こえるのは、結束バンドを締める小さな音と、ロープが擦れる乾いた音だけ。その静けさの中で、時間だけがゆっくりと流れていく。
二時間ほど作業が続いた。
片瀬は重いデスクを一人で持ち上げ、少しずつ位置を調整していく。額には汗が浮かび、背中にはじんわりと汗が滲んでいた。その姿を、藍川は時折そっと目で追う。
(また無理をしてる……)
昨日もそうだった。誰よりも動き、誰よりも考え、誰よりも責任を背負おうとしている。その姿は頼もしい。でも同時に、どこか危うい。
この人には、歯止めを掛けてくれる人が必要なのかもしれない。
そんな思いが胸をよぎる。
「あの、少し休みませんか?」
遠慮がちに声を掛ける。
片瀬は手を止め、大きく息を吐いた。肩から力が抜ける。
「そうだね。力仕事は思ったより体力を使うな」
「ずっと緊張が続いてましたから、無理ありませんよ」
藍川が腰を下ろす。片瀬もその隣へ座った。冷たい床の感触が、火照った身体をゆっくり冷ましていく。
片瀬はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を眺める。圏外の表示。昨日から変わらない表示だった。
「藍川さんは?」
藍川もスマートフォンを取り出し、小さく首を横へ振る。
「まだ駄目です」
「そっか」
短く頷く。
「早く、お母さんと連絡が取れるといいね」
その一言だった。藍川の視線が膝へ落ちる。
スマートフォンを握る手へ、少しだけ力が入った。
「実は、その……」
言葉が続かない。何度か口を開きかけては閉じる。
片瀬は急かさなかった。ただ、隣で待っている。
藍川は小さく息を吐いた。
「母とは、少し……いざこざがあって」
ぽつりと零す。
「今の会社も、本当は私が選んだ就職先じゃないんです。母が決めました」
少しだけ間を置く。
「私は、自動車整備士になりたかったんです」
そう言って、自分の手を見つめた。工具を握ってきた手。細かな傷跡。薄く硬くなった指先。夢を諦めても、その痕跡だけは今も残っている。
片瀬はその手へ、目を向ける。
「……お母さんとは、話し合ったの?」
その問いかけに、藍川の唇が固く結ばれた。
(言うべきか……言わない方がいいのか……)
指先が、スカートの裾をぎゅっと握る。
このことは、誰にも話したことがなかった。職場でも。友人にも。心の奥へ閉じ込めたまま、一人で抱えてきた秘密だった。
なのに。隣に座る片瀬の横顔を見ていると、不思議と口を開きたくなる。何も言わずに耳を傾けてくれる、その静かな佇まいが、少しだけ背中を押してくれた。
「刑事だった父が八年前に殉職してから、母は感情の起伏が激しくなって、会話にならなくなったんです」
言い始めたら、止まらなかった。
「カウンセリングの先生からも、『母は精神的に弱っているから、あまり刺激しないように』って言われてたから、逆らえなかったんです」
言ってしまった。
これこそが、藍川一九が誰にも言えずに抱えてきた秘密だった。
母親は、精神的に病んでいる。
誰にも知られたくなかった。強くて、頼りになる自分でいたかったから。だから家のことは、誰にも話さなかった。なのに、彼の前では不思議と鎧が剥がれ落ちてしまう。
それはきっと、彼が父親と似ていたから。だから片瀬にだけは、初めて口にできた。
「父は遺体の損傷が激しくて……最後に顔を見て、お別れができなかったんです」
大好きだった父との死別は、悲劇だった。対して、片瀬は虐待と育児放棄を繰り返すような親の元で育った。これは、どちらがより不幸なのかを比べる話ではない。心の傷は、人それぞれ形が違う。
だから二人は、軽々しく「あなたの痛みは分かる」とは言えなかった。完全に理解することはできない。それでも、分かろうと隣へ座ることはできる。並んで座り、同じ方向を見つめるような、そんな寄り添い方がある。藍川はそう思っていた。そして片瀬もまた、きっと同じなのだろうと思えた。
「母も私も、まだ父の死を乗り越えられていないみたいです」
遠くを見るように微笑む。
「急なお別れって、覚悟ができないから……しこりが残るんでしょうね」
話し終えた藍川は、自分でも驚くほど心が軽くなっていることに気付いた。
秘密を抱え続けることは、思っていた以上に苦しかったのだ。
それを誰かへ預けた。相手が片瀬だったからこそ、話せたのかもしれない。
「片瀬さんは、お父さんに少し似てるなって思う時があるんです……何も押し付けずに、黙って聞き役に回る時の感じが特に」
少し恥ずかしそうに笑う。
「もちろん、それだけじゃないですよ」
藍川は指を折りながら数え始めた。
「名前も、父は良春っていうので少し似てますし、自分より誰かを優先して助けようとするところも、そっくりなんです」
ふっと表情を曇らせる。
「だから星月さんたちを助けに行った時は……本当に怖かったんですよ」
横目で片瀬を見ると、目を見開き表情を固まらせていた。
「……すまない」
ようやく、それだけを絞り出した。
藍川は、片瀬の「すまない」は、星月たちを助けに向かった無茶への謝罪だと思った。
「無茶は駄目ですよ。」
少しだけ頬を膨らませる。
「でも……片瀬さんがいてくれて、本当に良かった」
ここで藍川は小さく欠伸をする。
秘密を打ち明けた安心感から、張り詰めていた糸がぷつりと切れていた。
「……藍川さん……良春さんは……」
片瀬が、慎重に探るように話しかけた。
しかし、藍川の頭が肩に寄りかかっきて、穏やかな寝息が立ち始めていた。
「……眠ってしまったか」
起こさないよう身体を支えて、ゆっくりと床へ横たえた。
脱いだ上着を掛け、乱れた前髪へ手を伸ばしかける。けれど、その指先は途中で止まり、引っ込められた。
寝ている藍川を起こさないよう、物音を立てず補強作業へ戻る。
それでも穏やかな寝息は、不思議と耳から離れなかった。
彼女の胸の静かな上下が伝わる、この距離感。
縮まれば、その温もりに触れられるのに、離れればもう届かない。
そんな思いが、胸へ降り積もっていた。




