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膠喰体《ゲルイーター》  作者: 禍福
エピソードⅠ 秘密
14/20

13話 牽制

 女性たちの居住スペースとなった役員室は、ソファをベッド代わりにして並べてある。

 そこへ簡易的な仕切りを、段ボールで作っていく。

 藍川が床に広げた段ボールに定規を当ててカッターで切っていると、鈴音がスキップしながら近づいてきた。ピタリと足を止め、興味津々に声をかけてくる。


「藍川さん。片瀬さんって、彼氏なの?」

「えっ!?」


 思わず手元が狂い、カッターの刃が定規から外れた。

 慌てて刃を戻し、藍川は鈴音を見つめ返す。


「ち、違うよ。ただの会社の先輩だから」

「そっかぁ。でも、片瀬さんってカッコいいよね」


 鈴音は残念そうに口を尖らせたものの、その表情はすぐに明るくなる。

 そして指を折りながら数え始めた。


「危ない時に助けてくれたし、すっごく力持ちだし、電気まで直しちゃうし……彼氏だったら、学校でいっぱい自慢できそう」


 憧れを隠そうともしない瞳に、藍川は苦笑する。


「自慢って……」

「だって、ヒーローだもん」


 その一言に、藍川の胸が小さく熱を帯びた。あの時、一人で母子を助けに飛び出した背中が自然と浮かぶ。無茶だと思った。心臓が止まりそうなくらい怖かった。


「すず……もしかして片瀬さんのこと、好きなの?」


 心配そうに声を掛けたのは亜香里だった。

 小学四年生の娘が、社会人に恋をしているかもしれない。母親として、わが子の恋愛観が少しだけ不安になった。


「え?」


 鈴音はきょとんとしてから、ぷっと吹き出す。


「違う違う。片瀬さんは、お兄ちゃんって感じ」


 大げさなくらい首を振った。


「そうよね。いくら片瀬さんが天沢さんみたいに素敵な人でも……」


 亜香里の目が、たちまち遠くを見つめるような輝きを帯びる。

 また始まった。

 鈴音は「あちゃぁっ」という顔になる。天沢の話になるといつもこうだ。母の暴走を止めるように、ことさら大きな声で言葉をかぶせる。


「はいはい。お母さんは、お天気おじさん推しだもんね」


 鈴音は慣れた様子で遮る。


「推しって……うん、そうね」


 照れくさそうに笑いながらも、否定はしない。


「救われたのは、本当だから」

「でも私は違うよ」


 鈴音もつられて笑う。

 そして少し偉そうに腕を組んで頷いた。


「お天気おじさんは一緒にいると楽しいけど、全然好みじゃない」

「えぇ?」


 亜香里は本気で驚いていた。


「あんなに優しい人なのに?」

「だって、宇宙の話してると思ったら急に筋トレ始めるんだもん」


 ついさっきも、鈴音が将来は「お天気おじさんみたいになりたい」と言ったら、天沢は「ハムストリングを鍛えるにはスクワットが基本で……」と訳の分からないことを言い出していた。


「あれは……そういうところが可愛いのよ」

「お母さんだけだよ、それ」


 二人のやり取りに、役員室へ小さな笑いが広がる。

 藍川も思わず吹き出した。

 笑ってしまった、その直後だった。


(……片瀬さん)


 また名前を思い浮かべてしまった。さっきから、少しおかしい。片瀬のことを考えるたび、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。


(だめだ……)


 これ以上この話題の中にいたら、平静でいられない。


「ちょっと、テレビの準備をしてきます」


 なるべく自然を装って立ち上がる。


「テレビ?」


 亜香里が振り向く。


「はい。早めに設置した方がいいと思うので」


 そう言い残し、役員室を出る。

 扉を閉めると、ひんやりした廊下の空気が頬を撫でた。

 ようやく一人になれた。壁へそっと背中を預け、大きく息を吐く。


「……はぁ」


 熱くなった顔を冷ましていると、すぐ近くから不意に声が掛かる。


「藍川さん」

「っ!」


 隠れ鬼で見つかった子どものように肩が跳ねる。そこには小野美咲が立っていた。マスク越しでも分かるほど、目元が少しだけ笑っている。


「こんなところで、何をやっているの?」


 藍川は慌てて姿勢を正す。


「テ、テレビを設置しようかと思いまして」

「ふーん」


 小野は藍川をじっと見つめたまま、小さく首を傾げる。


「じゃあ、手伝おっか?」

「大丈夫です!一人でできますから」


 少し大きな声になってしまった。

 その反応を見た小野は、一歩だけ近づく。どこか探るような視線を向けていた。


「……ねえ」


 ほんの少し間を置く。


「本当のところ、どうなの?」

「何が、ですか?」


 藍川はできるだけ平静を装った。しかし、小野は逃がすつもりはないらしい。


「とぼけなくても分かるよ。さっき鈴音ちゃんに聞かれて、あんなに慌ててたじゃない」


 マスク越しに細められた目が、藍川をまっすぐ見つめる。


「それは、その……急だったので」

「じゃあ聞き方を変える」


 小野は腕を組み直した。


「片瀬さんと桐村さん。どっちを選ぶの?」

「え?」


 その問いに、思わず息を呑んだ。

 これまで藍川が小野に抱いていた印象は、控えめでおとなしい女性。そんな人が詰め寄ってくるとは思いもよらず、ただただ意外だった。


 実際のところ、その印象は間違ってはいない。普段の小野は、こんな風ではない。ただこの時、女性陣で一致団結し、居住エリアを確保する作業で親睦を深めたことで、高揚していた。

 しかもだ。小野は察してしまった。

 桐村が藍川に執着していることを、片瀬が藍川を特別に扱っていることも。

 知れば知るほど、心にモヤモヤとした感情が巣くっていた。


(藍川さんばっかり、ずるい。片瀬さんは私のものだ)


 そんな思考に辿り着いていた。


「あの、何か誤解されていると思うんですが」

「誤魔化さないで。単に、あの二人だったらどっちを選ぶのかを聞いてるだけなんだから」


 藍川は、ずっとこの手の話題を避けてきた。父親を失ってから、恋愛にかまける心の余裕がなかったから。とは言え、興味がないわけではない。


 改めて考えてみる。

 桐村の執拗なアプローチは嫌がらせに近く、好かれているとは微塵も思えない。一方で片瀬は、冷静で優しくて頼りになって、それ以上の感情など……。


(だっ、ダメだ……っ!)


 やはり頭がのぼせる。他の男性社員と片瀬は明らかに違う。特別な人だと、認めざるを得なかった。


 過去を振り返れば、藍川は入社式の日から際立っていた。

 入社したばかりの頃。男性社員たちは競うように話しかけてきた。


「困ったことがあったら何でも聞いて」

「営業なら俺が教えるよ」

「今度一緒に昼飯でも」


 親切だった。でも、その親切は息苦しかった。仕事も楽な内容ばかり与えられて、難しい案件からは遠ざけられていった。自分自身が評価されていない気がして、できる限り面倒な仕事を引き受けた。雑務でも何でも構わない。誰かに甘えたくなかった。

 その結果、「仕事はできるけど可愛げがない」そんな声が、耳へ届くようになった。


 悔しかった。

 それでも自分で選んだ道だったから、歯を食いしばった。


 ある日、大口案件の資料作成を引き受けた。初めての大きな仕事だった。任せてくださいと見栄を張った以上、途中で助けを求めることはできなかった。他の誰かに助けを求めれば、もうまともな仕事はさせてもらえない気がしたからだ。


 特別扱いは嫌だ。逆戻りはしたくない。だから彼女は誰にも相談できず、夜遅くまで会社へ残り、一人で資料を見直した。

 けれど、数字がどうしても噛み合わない。何度やり直してもまとまらない。

 焦れば焦るほど頭は真っ白になり、気付けば時計は終電間際を指していた。


 翌朝。

 机へ向かうと、昨夜まで悩み続けていた資料が驚くほど見やすく整理されていた。


「……え?」


 思わず周囲を見回す。

 誰が直したのか分からない。

 すると近くの席の女性社員が、小さな声で教えてくれた。


「片瀬さんだよ」

「え?」

「今朝、朝早くから一人でやってた」


 その言葉に藍川は立ち尽くした。

 片瀬は何も言わなかった。

 恩着せがましく笑うことも、「助けてやった」と言うこともない。

 いつも通り、「おはよう」と穏やかに挨拶しただけだった。


 それから少しずつ気付くようになる。

 仕事が立て込んだ日は、困る前に片瀬が資料を整理してくれていること。

 営業先から戻ると、必要な書類が机へ揃えられていること。

 無理をしている日は、さりげなく仕事を引き受けてくれていること。


 けれど、そのどれもが目立たない。感謝されようとも思っていない。

 ただ同じ職場で働く仲間として、ごく自然に手を差し伸べていた。


 他の人たちとは違った。

 特別扱いではなく、一人の仕事仲間として見てくれた最初の人だった。

 その記憶が胸の奥で静かに温もりを帯びる。


 だからこそ、小野の問いに答えは一つしかなかった。

 藍川はゆっくりと顔を上げる。

 頬は熱い。

 鼓動も速い。

 それでも、もう目は逸らさなかった。


 藍川は、小さく息を吸った。

 胸の鼓動はまだ落ち着かない。

 それでも逃げずに、小野の目をまっすぐ見つめ返した。


「私は――」


 ほんの一瞬だけ言葉を探す。

 片瀬の穏やかな笑顔。

 困っている人へ自然と手を差し伸べる姿。

 誰にも気づかれないよう、そっと自分を支えてくれていた日々。

 電気室で肩が触れそうになった距離。

 抱きついてしまった時の温もり。


 いくつもの記憶が胸の中を静かに巡り、やがて一つの答えへと重なっていく。


「私は、片瀬さんを誰よりも尊敬しています」


 恥ずかしさで頬は真っ赤だった。

 それでも、その言葉だけは迷いなく口にできた。

 自分に嘘はつきたくなかった。

 それだけは確かな、本心だったから。


 小野はしばらく黙って藍川を見つめていた。

 やがて視線を落とすと、小さく肩をすぼめる。


「……そう」


 その声は、どこか力が抜けていた。

 強気に問い詰めていた先ほどまでとは別人のように、自信のない、いつもの小野の声へ戻っている。


「まあ、いいけど」


 ぽつりと呟く。


「今は非常時だし……恋愛なんてしてる場合じゃないよね」


 藍川は返事ができない。

 小野も、それ以上は何も言わなかった。

 踵を返し、役員室へ向かって静かに歩き出す。

 その背中を見送りながら、藍川は深く息を吐いた。


「……はぁ」


 全身から力が抜ける。

 緊張していたのは、小野だけが理由ではなかった。

 自分の口から出た言葉が、胸の奥で何度も反響している。


(尊敬している)


 それは嘘じゃない。

 本当にそう思っている。

 仕事に向き合う姿勢も。

 誰かを助けようとする優しさも。

 責任感の強さも。

 全部、尊敬している。

 なのに。

 どうしてだろう。


(……変だな)


 こんな自分は知らない。だから分からない。

 この胸のざわめきに、どんな名前をつければいいのか。


 しばらくその場に立ち尽くれていた藍川は、不意に自分の頬を両手で軽く叩いた。


「よし!」


 少しだけ大きな声を出す。


「テレビの設置作業、頑張ろう!」


 無理やり笑顔を作る。

 今は仕事だ。

 みんなも、それぞれ自分にできることをしている。


 こんなことで立ち止まっている場合じゃない。

 自分へそう言い聞かせながら、小走りで廊下を駆け出した。

 けれど胸の奥へ芽生えたその想いだけは、置いていくことができなかった。


 まだ名前も知らない、その小さな想いは、誰にも気づかれることなく、藍川一九の胸の中で静かに息づき始めていた。

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