12話 ライフライン
電気室へ向かう。
片瀬と藍川が並んで歩く。
突き当たりにある金属製の扉は、頑丈そうな灰色の鉄板でできていた。
「ここっていつも施錠されてませんでしたっけ?」
「どうだろ、開いているといいんだけど」
ドアノブを回すと、鍵が掛かっている感触が返ってくる。
片瀬はそのまま念動力で内側のサムターンを回した。
「開いてるな」
「あれ?ラッキーですね!」
藍川の表情が、ぱっと花が咲くようにほころぶ。
けれど扉を開けた先にあったのは、光の届かない暗闇。感嘆する声は、その奥へ吸い込まれていった。
「中は真っ暗だから、スマホで照らしてもらえる?」
「はい!」
藍川がスマートフォンのライトを点ける。
白い光が狭い電気室の闇を押し退けるように広がった。
壁一面に並んだ配電盤や配線に興味を惹かれたのか、藍川はその光を追うように片瀬のすぐ隣まで歩み寄る。
「これが主配電盤ですか?」
肩が触れそうな距離。
ふわりと柑橘系のシャンプーの香りが鼻先をかすめ、片瀬は思わず呼吸を止めそうになった。
昨日までなら何とも思わなかった。
なのに今日は、鼓動が妙に落ち着かない。
意識してはいけないと思えば思うほど、光に照らされた藍川に視線が吸い寄せられる。
真剣な眼差しで配電盤を見つめる横顔。職場で見慣れているはずなのに、なぜだか今日は違って見えた。
「片瀬さん?」
不思議そうに見上げられ、はっと我に返る。
「あ、ああ。これが主配電盤だね」
誤魔化すように蓋へ手を掛ける。
ブレーカーが姿を現した。
「やっぱり主遮断器が落ちてるな」
「復旧できそうですか?」
「たぶん大丈夫。ただ、いきなり戻すと危ないから、順番にやるよ」
片瀬は分岐ブレーカーを確認していく。
「まず全部の分岐を落として、安全を確認してから主遮断器を戻す。それから回路ごとに順番に投入していけば……」
「なるほど」
藍川は機械好きらしく、興味深そうに頷いていた。
「こういった電気関係の設備も好きなの?」
「好きです!車でもバイクでも、仕組みが分かると面白くて。電気は難しいですけど、触ってると覚えたくなるんですよね」
夢中になって話す姿を見て、片瀬は小さく笑う。
「藍川さんらしいな」
「え?」
「いや、何でもない」
片瀬は順番にブレーカーを操作していく。
カチッ。
カチッ。
静かな室内に、乾いた音が心地よく鳴る。
最後のレバーをゆっくり押し上げる。
わずかな沈黙のあと、低く唸るような変圧器の音が鳴り始め、廊下の照明が一斉に灯った。
「やった!」
思わず跳び上がりそうになった藍川は、自分の大きな声に顔を赤らめる。その可愛らしさに、片瀬の口元がほころぶ。
「この工具箱は持っていこう」
屈んで工具箱を持とうとした。
そこへ二人が同時に手を伸ばし、互いの手の甲が触れた。
「あっ……」
静電気よりも強い衝撃が走り、二人は慌てて手を引っ込める。
藍川は気まずそうに自分の手へ目を落とし、背中へ隠した。
女性らしくない。工具でついた細かな傷がある手が恥ずかしかった。
片瀬はその仕草に気付いたが、何も言わない。慰める言葉も、褒める言葉も、どこか違う気がしたから。
代わりに工具箱を持ち上げると、いつもの穏やかな笑顔を見せた。
「行こうか」
その一言だけで十分だった。
藍川も安心したように微笑み、「はい」と頷いて、片瀬の隣へ並ぶ。
肩が触れそうで触れない。
絶妙な距離を保ったまま、二人は明るくなった廊下へ歩き出した。
◇
電気室を出ると、ブラインドで外光を塞がれていた廊下は見違えるほど明るくなっていた。
停電中に感じていた圧迫感が薄れている。
「おおい、明るくなったぞ!」
廊下の向こうから真っ先に駆け寄ってきたのは天沢だった。
その後ろから剣崎や亜香里、小野たちも顔を覗かせる。
「片瀬君、やったじゃないか!」
満面の笑みで肩を叩く天沢に続き、剣崎も天井のエアコンを見上げながら頷いた。
「助かった。夜の寒さもこれで楽に乗り越えられる」
その様子を見ていた権藤は、大きく腕を組み直すと満足そうにした。
「素晴らしい!やはり君は我が社のホープだ!」
思いのほか素直な称賛に、その場の空気が一瞬だけ止まる。
片瀬本人も少し面食らっていた。
「ありがとうございます」
頭を下げる片瀬を見下ろしながら、権藤は満足そうに鼻を鳴らした。
(片瀬は使える。こういう人間は、適切に評価してやれば、こちらの言うことをよく聞くようになる)
権藤の価値観は単純だ。
成果を出した者は評価する。役に立たない者は切り捨てる。
組織は利益を生むための集団であり、有能な上司とは人を正しく配置し、動かす者。
彼はそう信じて疑わなかった。
(ちゃんと評価してやれば、人はついて来る。)
そんな満足感に浸っていた時だった。
「ぐぅぅぅ……」
妙に威勢のいい腹の虫。
一斉に視線が集まる。
当の本人。権藤だけは何事もなかったように腹へ手を当て、「十四時を過ぎたか」と真顔で呟いた。
「腹が減っていては、まともな判断はできん」
あまりにも堂々としている。
天沢は吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえる。
藍川も肩を震わせて笑いを堪えていた。
剣崎だけは呆れたように額を押さえている。
そんな周囲にはまるで気付かず、権藤は腕時計へ目を落とす。
「まずは食料を確保する。社員が持参している弁当や非常食、給湯室の備蓄も確認しろ。食べられる物はすべて回収する」
営業部長らしく、すでに次の段取りへ頭は切り替わっている。
片瀬は静かに頷いた。
「オフィスやロッカーを探せば、お菓子や保存食くらいは見つかると思います」
「うむ」
権藤は満足そうに顎へ手を添えて、当然のように続けた。
「では任せる。私は五階で待機する」
誰も返事をしない。
その沈黙を気にする様子もなく、「三十分後、大会議室へ集合だ」と言い残すと、復旧したばかりのエレベーターへ迷いなく乗り込んだ。
閉まりゆく扉の向こうで、最後まで腕を組んだまま仁王立ちしている。
扉が閉まり、エレベーターが上昇を始めると、ようやくその場の空気が動いた。
天沢が苦笑混じりに肩を竦める。
「最後まで一緒に探すとは言わないんだな」
剣崎も思わず鼻で笑った。
「まあ、ああいう人間なんだろう」
片瀬だけは苦笑しながらも否定しない。
「部長は現場より全体を見る人ですから」
「随分前向きに解釈するな」
剣崎が呆れたように言う。
そのやり取りを聞いていた藍川は、小さく吹き出す。
「片瀬さんらしいですね」
張り詰めていた空気が、少しだけ柔らかくなる。
怪物は今もビルの外にいる。
状況は何一つ好転していない。
それでも人は、不思議と笑うことができる。
その笑い声が、閉ざされたビルでほんの少しの日常を取り戻させた。
◇
三十分後、一同は予定通り五階の大会議室へ集まった。
各自がオフィスやロッカーから集めてきた昼食用の弁当や菓子、カップ麺、ペットボトル飲料が長机の上へ並べられていく。
普段なら何気なく口にしていた食べ物も、今は貴重な命綱だった。
権藤は腕を組みながら机を一瞥し、品定めをするように歩く。
「ふむ……思ったより集まったな」
その様子を横目に、剣崎が一歩前へ出た。
「まずは子どもからだ」
当然のような一言。
鈴音の前へしゃがみ込んで、サンドイッチとオレンジジュースを渡す。
「ほら」
「ありがとう!」
鈴音は満面の笑みで受け取ると、自分だけ食べようとはせず、すぐ隣にいる亜香里を見上げた。
「お母さん、一緒に食べよ」
「鈴音が先に食べなさい」
優しく頭を撫でる。
「お母さんは後でいいから」
「やだ。半分こ」
小さく首を振ってサンドイッチを割ろうとする姿に、その場の空気がふっと緩んだ。
「いい子だなぁ」
天沢は思わず頬を緩め、自分が見つけてきたクッキーを差し出した。
「成長期には甘いものも必要だ」
「ほんと?」
「もちろん!」
鈴音は嬉しそうに受け取り、「ありがとう!お天気おじさん!」と無邪気に笑う。
「お天気おじさんか」
二人は自然と笑い合う。
まるで以前から知り合いだったかのような空気に、亜香里も思わず笑みを零した。
そんな和やかな様子を見ていた権藤は、軽く咳払いをして。
「では、私も頂くとするかな」
堂々と、一番大きな弁当へ手を伸ばす。
その姿に剣崎は思わず眉をひそめたが、何も言わなかった。言ったところで変わる相手ではない。それはこの短い付き合いでも十分理解していた。
片瀬は机の端で菓子類を整理していると、その中に見覚えのある包装紙を見つけた。
「藍川さん。これ、好きでしたよね」
差し出したのは、小さなチョコレート。
藍川は一瞬目を丸くし、それから嬉しそうに笑う。
「覚えててくれたんですか?」
「この前、美味しそうに食べてたから」
何気ない一言に、藍川の頬はほんのり赤くなる。
「ありがとうございます」
少しだけ照れながら、自分の集めた菓子の中をごそごそ探した。
「あの……私も、これ」
周囲へ聞こえないよう、小さな声になる。
差し出したのはアーモンドチョコだった。
「片瀬さん、これ好きですよね?」
今度は片瀬が驚く番だった。
「覚えてたの?」
「もちろんです」
少し誇らしそうに笑う。
「営業車の中で食べてたじゃないですか」
「ああ……」
そんなことまで覚えていたのか。
片瀬は少し照れくさそうに笑い、「ありがとう」と受け取った。
二人だけの、小さな交換会。
言葉は少ない。それでも互いに視線が合うたび、自然と笑みがこぼれてしまう。
その様子を、小野は黙って見つめていた。
膝の上で握ったスカートには皺が寄っている。
(私の方が先に、片瀬さんに目を着けていたのに)
そう思う気持ちが消えてくれない。
危険な状況だからこそ、人は頼れる相手へ惹かれる。
だからこそ藍川と並んで笑う片瀬の姿を見るたび、胸に黒い靄のようなものが広がるのを止められなかった。
◇
食事を終える頃には、大会議室の空気も幾分かやわらいでいた。
誰からともなく紙コップを片づけ始めると、それにつられるように立ち上がる者が現れ、食べ終えた弁当箱が次々とまとめられていく。
その様子を見渡した藍川が、おずおずと手を挙げた。
「あの……今のうちに、生活できる場所を整えませんか?」
全員の視線が集まる。静かな提案だった。
「このままだと休めませんし、夜になってから動くより、明るいうちにやった方がいいと思います」
誰も反対しなかった。むしろ、その言葉を待っていたような空気があった。
権藤は顎へ手を添えながら室内を見回し、すぐに口を開く。
「ならば社長室を男性用、役員室を女性用に使う。広さも十分ある。しばらくはそこを生活拠点とする」
即断だった。
相変わらず命令口調ではある。それでも異論は誰も挟まなかった。共同生活を始める以上、誰かが決める必要はあるからだ。
「よし」
剣崎が立ち上がる。
「まずは部屋を使えるようにしよう」
「私もやるぞ!」
天沢が勢いよく袖をまくる。
「学者だが、力仕事は得意なんだ」
言うなり近くの長机へ手を掛ける。
「せーの!」
「まだ早いです!」
片瀬が苦笑しながら支えると、天沢は「あっ、合図が必要だったか」と照れ笑いを浮かべた。その様子に鈴音が声を上げて笑う。
「お天気おじさん、せっかち!」
「宇宙規模では一秒の遅れも許されないからね!」
「今は宇宙じゃないもん!」
二人のやり取りに、室内へ小さな笑いが広がる。つい先ほどまで死を目前にしていたとは思えないほど、穏やかな笑顔だった。
「わたしも何かやりたい!」
鈴音が元気よく手を挙げる。
亜香里は娘の頭へ優しく手を置いた。
「重い物は危ないから駄目よ」
「えぇー」
「でも簡単なお手伝いならお願いしたいな」
そう言うと鈴音の表情はすぐ明るくなる。
「やる!」
その無邪気な返事に、場の空気がまた少し軽くなった。
一方で、小野は輪から少し離れた場所に立ったまま、どう動けばいいのか分からず戸惑っていた。そんな彼女へ真っ先に歩み寄ったのは亜香里だった。
「小野さん。一緒に掃除しませんか?」
少しだけ、照れたように笑う。
「私、片づけ苦手なんです」
「え?」
小野は思わず顔を上げる。
「看護師だから得意そうって思われるんですけど、家では結構ずぼらで」
困ったように笑う亜香里につられ、小野も小さく笑った。
「……実は私もです」
「良かった」
二人は箒を手に取り、並んで床へ散らばったガラス片や書類を集め始める。最初はぎこちなかった会話も、「これ、こっちへ寄せますね」「ありがとうございます」そんな短いやり取りを重ねるうち、少しずつ自然になっていった。
藍川も雑巾を手に取り、「机は私が拭きます!」と元気よく動き始める。几帳面な性格らしく、角まで丁寧に拭き上げていく姿を見て天沢が感心した。
「藍川さんは仕事が細かいなぁ」
「整理整頓は基本ですから」
胸を張る藍川へ、片瀬が自然に笑いかける。
それだけで藍川も嬉しそうに笑い返した。
男性陣は机やソファを運び始める。
「せーの!」
剣崎の掛け声に合わせ、片瀬と天沢が重い応接用ソファを持ち上げる。
天沢は額へ汗を浮かべながらも、「筋トレは裏切らない!」などと訳の分からないことを叫び続け、そのたびに鈴音が笑い転げて、仲の良い父子のようにじゃれ合っている。
気付けば誰も指示されていなかった。
修理が必要な場所へ片瀬が向かい、
藍川はその隣で道具を揃え、
亜香里は自然と皆を気遣い、
鈴音は笑顔を運び、
剣崎は全体へ目を配り、
天沢は場を明るくし、
小野も少しずつ輪へ加わっていく。
権藤は腕を組んだまま全体を見渡し、ときおり配置について口を挟む。その指示は相変わらず高圧的だったが、不思議と誰も反発しなかった。
今は、とにかく形でも組織が必要だったから。
しかしただ一人、その輪へ加わらない男がいる。
桐村だった。
壁にもたれ掛かったまま皆の様子を眺めていた彼は、不意に視線を外し、階段の方へ歩き出す。
「俺は三階を見てくる」
ぶっきらぼうにそう告げる。
剣崎が眉をひそめた。
「一人でか」
「見張るだけだ」
「単独行動は危険だぞ」
「何かあれば戻る」
短く言い残し、そのまま階段を下りていく。
その背中を見送った天沢が首を傾げる。
「変な物でも食べたのかな」
剣崎は答えず、ただ静かに桐村の消えた階段を見つめていた。
少しずつ一つになっていく共同体の中で、ただ一人だけ違う方向を向いている。
その姿だけが、この穏やかな空気の中で、小さな棘のように残っていた。
◇
共同生活の準備がひと段落すると、片瀬は工具箱を抱えて五階の窓際へ向かった。
ひび割れたガラスにガムテープを貼り重ね、内側から切り出した段ボールを当てて固定する。緩んでいた窓枠のネジを一本ずつ締め直していくと、隙間から吹き込んでいた風がぴたりと止んだ。
工具を置き、小さく息を吐く。
室内からは笑い声が聞こえてきた。鈴音の弾むような声。それに応える天沢の大げさな話しぶり。亜香里の声が重なり、つられるように誰かの笑い声も続く。
賑やかな空気が、開け放たれたドアの向こうから伝わってきた。
ほんの数時間前まで、誰もが死を覚悟していた。
閉ざされたビル。小さいながらも人の営みが生まれ始めている。
片瀬は張り詰めていた肩の力を抜く。
落ち着きを取り戻せた。
しかし、この笑顔は長くは続かない。
窓の外。ビル群の向こうには黒煙が立ち上り、巨大な半透明の影が這っている。
根本的な危険は去っていない。
ここだけが。
このビルだけが、偶然、静かな時間を与えられているに過ぎない。
もう一度、窓枠へ手を添える。
補強に緩みはないか。
ガラスに新たな亀裂は入っていないか。
一つひとつ確かめる。
どんなに小さなことでも疎かにはできない。
今、自分にできることを積み重ねる。
工具箱を持ち上げると、その重みが手のひらに伝わる。
平穏な時間を、当たり前だと思ってはならない。守らなければ続かない。
そのことを、この場で誰よりも強く胸に刻んでいたのは、彼だった。




