表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
膠喰体《ゲルイーター》  作者: 禍福
エピソードⅠ 秘密
12/26

11話 交錯する想い

 三階フロアに、権藤の怒声が響き渡る。


「まったく身勝手な!世古課長が犠牲になったのは、お前たちの責任だ!」


 前に突き出た腹部を震わせながら、目の前の母子を睨みつけた。


「即刻、出て行け!」


 その一言に、鈴音が母の服をぎゅっと握る。

 亜香里は娘を庇うように一歩前へ出ると、頭を下げた。


「私のことは構いません。ですが、どうか娘だけは……」

「一方的な要望を聞き入れる謂れはない!」


 最後まで言わせてもらえない。

 権藤の怒気は少しも収まる気配がなかった。

 その様子を見ていた天沢が表情を曇らせる。彼は楽天家だ。多少のことなら笑って流すが、親子を追い出そうとするのは見過ごせなかった。


「いや、それはいくら何でも」

「天沢」


 言い返そうとした肩へ、剣崎の手が静かに置かれた。

 振り返ると、剣崎はわずかに首を横へ振る。

 その視線は権藤にも天沢にも向いていない。見ているのは、片瀬だった。


 片瀬が前へ出る。

 長身の身体をわずかに屈め、相手へ圧迫感を与えない距離を保ちながら、穏やかな声で口を開く。


「横から失礼します」


 権藤は険しい表情のまま睨み返す。

 それでも声色は変えない。


「部長がおっしゃっているのは、和を乱す行動への戒め、ですよね」


 一拍置く。


「そこさえ理解していれば、部長のように見識ある方が、危険な外に追い出すような指示をするはずがありません」


 権藤の眉が、わずかに動いた。

 権藤はこれまで、社長から何度も言われてきた。お前のやり方は強引だ。厳しすぎる。敵を作り過ぎる。

 だが自分は、このやり方で結果を出してきた。

 だからこそ、嫌われ役になるのも仕事だと思ってきた。そんな自負を、片瀬は真正面から肯定した。


 見識ある方。その言葉が心地いい。


「部長は規律の大切さを伝えようとしてくださっている。そのために嫌われ役まで引き受けておられるんだと、私は理解しています」


 耳障りの良い言葉に、頬が緩むのを抑えられなかった。

 部下が自分を尊敬している。自分の苦労を分かっている人間がいた。その事実だけで、張り詰めていた感情がほどけていく。自尊心がくすぐられていた。


「まず私から謝罪させてください。独断で単独行動を取りました。規律を乱し、申し訳ございませんでした」


 ここで片瀬は亜香里へ目を向けた。

 その視線だけで十分だった。

 意味を察した亜香里も、すぐに頭を下げる。


「あの……私も、申し訳ございませんでした」


 片瀬が謝罪すると、亜香里も習うように深々と頭を下げた。

 恭順な態度に、権藤の腹の底にあった怒りが冷めていく。


(そうだ。誰もが俺の判断を仰ぐ、それでいい)


 溜飲が下がった権藤は、息を吐いた。

 胸につかえていた怒りが、ようやく落ち着いていく。


「まあ……お前も会社を思ってのことだろう。だがな、このようなことは今回限りだぞ」

「はい、承知しました」


 口調が和らいだ権藤に、片瀬は素直に頷いた。


 その様子を、階段の陰から桐村が見つめていた。

 片瀬は世古のように媚びるだけではない。相手が欲しい言葉を選び、怒りを鎮め、人の心を掴んでいく。しかも最後には、亜香里へ貸しまで作った。


(……あいつは、やっぱり)


 胸の奥で何かがざわつく。

 片瀬は人の心を操っている。

 そう思えてならなかった。


「気にしないで大丈夫ですよ。お子さんを守ろうとした姿は立派でした」

「……!」


 亜香里にかけた優しい言葉が、桐村の耳の奥でジーンと疼く。


(あの言葉……)


 知っている。

 あんな声を、自分は知っている。

 桐村の意識は、中学二年生のときの、教室へと引きずり込まれた。


 始まりは、些細なことだった。

 定期テストで良い点を取った桐村が、調子に乗ってクラスメイトを軽く見下した冗談。笑いを取るつもりだった。その程度のつもりだった。だがその一言が切っ掛けで、少しずつ人は遠ざかっていった。


『桐村って何様?』

『あいつ、口だけだよな』


 最初は陰口。やがて机に「死ね」と書かれるようになった。体操着はゴミ箱へ捨てられた。給食の時間になると、誰も隣へ座らない。ぽつん、と空いた椅子だけが、自分の存在を笑っているようだった。


 イジメられている。

 それは誰にも言えなかった。プライドが許さなかった。

 ただ見返したい。だから、先生に告げ口した。

 担任に伝えたら、返ってきた言葉は短かった。


「君はもう少し、協調性を養う努力をしたらどうだ」


 帰宅して、母へ話した。


「馬鹿の相手をするくらいなら、もっと成績を上げなさい」


 誰も助けてくれない。逃げ場はなかった。

 世界が灰色に染まっていく。そんな中で、たった一人だけ。手を差し伸べてくれる人間がいた。隣のクラスの慎也だ。背が高くてバスケ部の彼は人気者で、小学校からの幼馴染だった。ある日、孤立している桐村に声をかけてくれた。


「おい、一人で食ってんのか?」


 昼休み。

 慎也は当たり前のように桐村の前へ座った。

 返事も待たない。そのまま椅子を引き寄せた。


「だったら、今日から俺と食えばいいじゃん」


 周囲の視線なんて気にも留めない。

 誰も近寄らなかった机で、慎也だけは笑っていた。


「ハブられてる?そんなの気にするな、俺がいるだろ!」


 笑顔が眩しかった。

 その一言が、胸へ染み込んだ。乾き切った心へ落ちた、一滴の水だった。

 救われた。本当に救われた。自分にとってヒーローだった。暗闇を照らす、太陽だった。

 だからこそ、裏切られた時、世界は崩れた。


 放課後。

 トイレの個室に隠れていた桐村は、聞き慣れた笑い声に身体を強張らせた。


『あーあ、桐村ってマジうざい』


 慎也だった。

 聞き間違えるはずがない。


『毎日付きまとってきてさ。金魚のフンかよ』


 笑い声。誰かが続ける。


『友達だと思われてんじゃね?』

『マジキモイ。つぅか、さっきあいつ、お前らにビビって漏らしてたぜっ』

『うっそ、マジで!』

『大マジだよ。俺がこっそりジャージを隠してやったら、パニクってやんの、だっはっはっは!』


 爆笑が響く。

 便座へ腰掛けたまま、桐村は動けなかった。

 ズボンは濡れていた。

 恥ずかしい。悔しい。苦しい。

 でも一番辛かったのは。あの優しさが、全部嘘だったこと。


 最初から笑い者だった。

 自分はまた、一人ぼっちになった。いや、最初から一人だった。

 ただ、偽りの光にだまされていただけ。信じた自分が馬鹿だった。


 あの日、桐村は誓った。

 もう誰も信じない。

 優しい人間ほど信用するな。

 善人ぶる人間ほど疑え。

 笑顔の裏には必ず打算がある。

 本物の善意など、どこにも存在しない。


 ――これが、桐村康の秘密。

 過去にいじめられていた。弱者の経験を隠し持つ男の、誰にも言えない本音だった。


 彼のすべての行動は、この日から始まっていた。

 だからこそ、偽善という言葉に敏感だった。


「片瀬……あの偽善野郎」


 気づけば、声が漏れていた。

 三階フロアへ意識が戻る。

 目の前では、片瀬が亜香里へ微笑んでいる。


 善人ぶって、周囲から賞賛を浴び、人心を掌握し、皆から感謝されて、自分を偉く見せようとする。それが気に食わない。


(……あいつは同じだ)


 それは、偽りのヒーローと、慎也と何一つ変わらない

 噛み締めた奥歯から、鉄臭い味が滲んだ。


(片瀬はいつか本性を現す。いや、俺が必ず、その仮面を剥ぎ取り、中身の卑しさを皆に見せつけてやる)


 長年鍛え上げられた猜疑心が、確かな声で囁く。

 お前は一人。味方はいない。だから、誰も信用しなくていい。ただ、お前は片瀬の本性を証明すればいい。そうすれば、誰もが認めてくれる。

 そう心の中の何かが、重く、囁いた。




 権藤の機嫌が直り、張り詰めていた空気が少しずつ落ち着きを取り戻すと、剣崎は亜香里へ向き直った。


「休む間もなく悪いが、外の状況を教えてほしい」


 亜香里は背筋を伸ばし、気丈に答える。


「はい、屋外はどこもあの生物に支配されていました。どうやら人を捕食すると分裂して数を増やしているようで、人が密集しているような場所は特に危険を感じました」

「分裂か……」


 剣崎が低く呟く。


「貴重な情報だ。他には?」

「あとは……粘液のような体内の中に小さな核のようなものがあって……」

「あの点滅していた光か!」


 天沢に急に話しかけられ、亜香里は肩を跳ねさせた。


「ひゃ、ひゃいっ」


 思わず裏返った返事に、天沢は「あ、ごめんごめん」と苦笑する。


「……ええと……その核が、人の動きを追うように見えました。それと、音にも反応していたような気がします」

「なるほど!」


 天沢の目が輝く。


「視覚もある。しかもやっぱり、聴覚もあるんだ!」

「はい、これらは全部、鈴音が気付いたんです」


 亜香里が娘を見る。

 急に話題を振られた鈴音は照れ臭そうに笑った。


「おおっやるなぁ!大した観察眼だ!」


 そう言って頭を優しく撫でる。鈴音はくすぐったそうに笑い、小さく胸を張った。

 その様子を見守っていた片瀬も、自然と表情を緩める。


「目立たずに隠れていれば、襲われる危険は減るかもしれませんね」

「よし、全員、目立たないよう静かにするんだ。無駄な騒ぎはするなよ!」


 それを聞いた天沢と鈴音は顔を見合わせ、二人はほぼ同時に、自分ではなく相手の口を塞ぐ。


「んむっ」

「んーっ」


 一拍遅れて互いの顔を見つめる。そして同時に吹き出した。

 小さな笑い声が漏れそうになり、慌ててまた口を押さえる。

 そんな二人を見て、亜香里も思わず笑みをこぼした。

 和やかな空気だった。


 だが。


(……何が面白い)


 桐村だけは違った。

 片瀬の意見を、あたかも自分のように言い放つ権藤が、部下に手の平で操られる上司に見えた。


(無能が)


 胸の中で吐き捨てる。片瀬も。権藤も。何もかもが癇に障る。

 落ち着かない。足先が小刻みに揺れ続ける。


「大丈夫ですか?」


 藍川だった。

 いつの間にか目の前まで来ていた。

 彼女の瞳は、もっと何か言いたげな色が浮かんでいる。


「桐村さん、少し顔色が悪いですよ」


 久しぶりに向けられた優しい声は、嬉しかった。

 ただ同時に、優しさが、気遣いが、心を逆なでする。

 偽善者の仲間のくせに、と。


「別に」


 プライドが邪魔をし、そっけなく応えた。

 藍川は少し寂しそうにした。

 桐村は彼女への複雑な想いをどう扱えばいいのか、もはや自分でも分からないのだ。


「藍川さん、ちょっと来てくれる?」


 権藤との話し合いを終えた片瀬の呼び声に、藍川の表情はぱっと明るくなる。

 嬉しそうに「はい!」と返事をして駆け寄っていく。

 その背中を見ながら、桐村は自分の掌を見つめた。


(俺が片瀬を引きずり下ろす)


 これは思い上がりか……。

 一瞬だけ過った改悛の心は、長年培った猜疑心にすぐに飲み込まれていった。




 藍川から救急箱を受け取った看護師の亜香里は、慣れた手つきで捻った自分の足首にテーピングを巻いていく。幸い、大きな異常はなさそうだった。


 そのすぐ隣にいる鈴音と天沢は、宇宙について小声で話し込んでいる。それを亜香里は優しい目で見つめていた。


 柔らかなひとときから、片瀬が静かに距離を取る。

 藍川の目は、無意識にその背中を追いかけている。


 目が離せないのに、視線が合うと、逸らしてしまう

 近づけば息が詰まるほど緊張するくせに、離れたら胸のあたりがぽっかり空洞になる。


 乱れるこの感情が何なのか、わかってない。

 ただ無垢に、巣から落ちた雛が親鳥を求めるように、藍川は片瀬の後に吸い寄せられていった。


「どこに行くんですか」

「ん?ああ、電気を復旧できないか見てみようと思って。主配電盤がこの階にあるんだ」

「出来るんですか?」

「見てみないと分からない。でも、できることは試したいから、さっき部長に見る許可をもらったんだ」

「権藤部長に、ですか」


 藍川は権藤に対し、あまり良い印象を持っていない。

 それはさっき、亜香里たちを追い出そうとしているのを見て確信に変わっていた。


「あの……」


 歩きながら、恐る恐る切り出す。


「さっき部長へ謝ったことですが、私は謝る必要なんてなかったと思います」


 言葉を選びながら続ける。


「片瀬さんは人を助けたじゃないですか。それって悪いことなんですか?」


 片瀬は少しだけ困ったように笑った。


「あれは場を収めるためでもあったけど、それだけじゃないよ。見張りを決めた時点で、避難してくる人の想定ができていなかった。その対応を決めていなかったのは、自分の落ち度だから」


 藍川は思わず苦笑する。


「片瀬さんって、本当に真面目ですよね」


 責任じゃないところまで、自分の責任にしてしまう。そんなところが。


「でも……お願いがあります」


 立ち止まる。片瀬も足を止めた。

 藍川は眉を八の字にして見上げている。


「あんな危険なことは二度としないでください。これって矛盾してるって自分でも思います」


 人助けは立派なこと。でも危険なことはしてほしくない。

 それを引き留めるのは、間違いかもしれない。


「それでも……私は、本気で心配したんです」


 片瀬はこれまで、努力しても報われないことの方が多かった。

 だからこそ、藍川の言葉は救いだった。

 見返り期待をしていなかった努力が、報われるような気がした。


「……ありがとう」


 心が軽くなる。かけがえのない支えになっていく。

 この積み重ねが、気の許せる同僚からさらなる変化をもたらしていた。


「約束ですよ」


 藍川は嬉しそうに笑った。

 その笑顔につられるように、片瀬も微笑む。


「わかった」


 ふと、その唇に目が止まった。

 彼女がよく見せてくれる笑顔。

 話すたびに綺麗に並んだ歯並びの中に、チラリと覗く一本の八重歯。

 そこにある鮮やかなピンク色の唇が、妙に艶めかしい。


 ごくりと息を飲む。

 あまり見すぎてはいけない。そう思って引きはがすように視線を落とせば、首筋から続く鎖骨の柔らかなくぼみに捕らわれる。

 自分でもわからない動悸に襲われて、たまらず顔を逸らした。


「そっ、それじゃ、そろそろ行こうか」


 身体が火照る。

 さっき、藍川に抱き着かれた感触が蘇っていた。


(これは、まずいな)


 そっと距離を取るように、一歩下がって歩き出す。

 藍川の「片瀬さん?」という声が、なぜかいつもより甘く耳に残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ