11話 交錯する想い
三階フロアに、権藤の怒声が響き渡る。
「まったく身勝手な!世古課長が犠牲になったのは、お前たちの責任だ!」
前に突き出た腹部を震わせながら、目の前の母子を睨みつけた。
「即刻、出て行け!」
その一言に、鈴音が母の服をぎゅっと握る。
亜香里は娘を庇うように一歩前へ出ると、頭を下げた。
「私のことは構いません。ですが、どうか娘だけは……」
「一方的な要望を聞き入れる謂れはない!」
最後まで言わせてもらえない。
権藤の怒気は少しも収まる気配がなかった。
その様子を見ていた天沢が表情を曇らせる。彼は楽天家だ。多少のことなら笑って流すが、親子を追い出そうとするのは見過ごせなかった。
「いや、それはいくら何でも」
「天沢」
言い返そうとした肩へ、剣崎の手が静かに置かれた。
振り返ると、剣崎はわずかに首を横へ振る。
その視線は権藤にも天沢にも向いていない。見ているのは、片瀬だった。
片瀬が前へ出る。
長身の身体をわずかに屈め、相手へ圧迫感を与えない距離を保ちながら、穏やかな声で口を開く。
「横から失礼します」
権藤は険しい表情のまま睨み返す。
それでも声色は変えない。
「部長がおっしゃっているのは、和を乱す行動への戒め、ですよね」
一拍置く。
「そこさえ理解していれば、部長のように見識ある方が、危険な外に追い出すような指示をするはずがありません」
権藤の眉が、わずかに動いた。
権藤はこれまで、社長から何度も言われてきた。お前のやり方は強引だ。厳しすぎる。敵を作り過ぎる。
だが自分は、このやり方で結果を出してきた。
だからこそ、嫌われ役になるのも仕事だと思ってきた。そんな自負を、片瀬は真正面から肯定した。
見識ある方。その言葉が心地いい。
「部長は規律の大切さを伝えようとしてくださっている。そのために嫌われ役まで引き受けておられるんだと、私は理解しています」
耳障りの良い言葉に、頬が緩むのを抑えられなかった。
部下が自分を尊敬している。自分の苦労を分かっている人間がいた。その事実だけで、張り詰めていた感情がほどけていく。自尊心がくすぐられていた。
「まず私から謝罪させてください。独断で単独行動を取りました。規律を乱し、申し訳ございませんでした」
ここで片瀬は亜香里へ目を向けた。
その視線だけで十分だった。
意味を察した亜香里も、すぐに頭を下げる。
「あの……私も、申し訳ございませんでした」
片瀬が謝罪すると、亜香里も習うように深々と頭を下げた。
恭順な態度に、権藤の腹の底にあった怒りが冷めていく。
(そうだ。誰もが俺の判断を仰ぐ、それでいい)
溜飲が下がった権藤は、息を吐いた。
胸につかえていた怒りが、ようやく落ち着いていく。
「まあ……お前も会社を思ってのことだろう。だがな、このようなことは今回限りだぞ」
「はい、承知しました」
口調が和らいだ権藤に、片瀬は素直に頷いた。
その様子を、階段の陰から桐村が見つめていた。
片瀬は世古のように媚びるだけではない。相手が欲しい言葉を選び、怒りを鎮め、人の心を掴んでいく。しかも最後には、亜香里へ貸しまで作った。
(……あいつは、やっぱり)
胸の奥で何かがざわつく。
片瀬は人の心を操っている。
そう思えてならなかった。
「気にしないで大丈夫ですよ。お子さんを守ろうとした姿は立派でした」
「……!」
亜香里にかけた優しい言葉が、桐村の耳の奥でジーンと疼く。
(あの言葉……)
知っている。
あんな声を、自分は知っている。
桐村の意識は、中学二年生のときの、教室へと引きずり込まれた。
始まりは、些細なことだった。
定期テストで良い点を取った桐村が、調子に乗ってクラスメイトを軽く見下した冗談。笑いを取るつもりだった。その程度のつもりだった。だがその一言が切っ掛けで、少しずつ人は遠ざかっていった。
『桐村って何様?』
『あいつ、口だけだよな』
最初は陰口。やがて机に「死ね」と書かれるようになった。体操着はゴミ箱へ捨てられた。給食の時間になると、誰も隣へ座らない。ぽつん、と空いた椅子だけが、自分の存在を笑っているようだった。
イジメられている。
それは誰にも言えなかった。プライドが許さなかった。
ただ見返したい。だから、先生に告げ口した。
担任に伝えたら、返ってきた言葉は短かった。
「君はもう少し、協調性を養う努力をしたらどうだ」
帰宅して、母へ話した。
「馬鹿の相手をするくらいなら、もっと成績を上げなさい」
誰も助けてくれない。逃げ場はなかった。
世界が灰色に染まっていく。そんな中で、たった一人だけ。手を差し伸べてくれる人間がいた。隣のクラスの慎也だ。背が高くてバスケ部の彼は人気者で、小学校からの幼馴染だった。ある日、孤立している桐村に声をかけてくれた。
「おい、一人で食ってんのか?」
昼休み。
慎也は当たり前のように桐村の前へ座った。
返事も待たない。そのまま椅子を引き寄せた。
「だったら、今日から俺と食えばいいじゃん」
周囲の視線なんて気にも留めない。
誰も近寄らなかった机で、慎也だけは笑っていた。
「ハブられてる?そんなの気にするな、俺がいるだろ!」
笑顔が眩しかった。
その一言が、胸へ染み込んだ。乾き切った心へ落ちた、一滴の水だった。
救われた。本当に救われた。自分にとってヒーローだった。暗闇を照らす、太陽だった。
だからこそ、裏切られた時、世界は崩れた。
放課後。
トイレの個室に隠れていた桐村は、聞き慣れた笑い声に身体を強張らせた。
『あーあ、桐村ってマジうざい』
慎也だった。
聞き間違えるはずがない。
『毎日付きまとってきてさ。金魚のフンかよ』
笑い声。誰かが続ける。
『友達だと思われてんじゃね?』
『マジキモイ。つぅか、さっきあいつ、お前らにビビって漏らしてたぜっ』
『うっそ、マジで!』
『大マジだよ。俺がこっそりジャージを隠してやったら、パニクってやんの、だっはっはっは!』
爆笑が響く。
便座へ腰掛けたまま、桐村は動けなかった。
ズボンは濡れていた。
恥ずかしい。悔しい。苦しい。
でも一番辛かったのは。あの優しさが、全部嘘だったこと。
最初から笑い者だった。
自分はまた、一人ぼっちになった。いや、最初から一人だった。
ただ、偽りの光にだまされていただけ。信じた自分が馬鹿だった。
あの日、桐村は誓った。
もう誰も信じない。
優しい人間ほど信用するな。
善人ぶる人間ほど疑え。
笑顔の裏には必ず打算がある。
本物の善意など、どこにも存在しない。
――これが、桐村康の秘密。
過去にいじめられていた。弱者の経験を隠し持つ男の、誰にも言えない本音だった。
彼のすべての行動は、この日から始まっていた。
だからこそ、偽善という言葉に敏感だった。
「片瀬……あの偽善野郎」
気づけば、声が漏れていた。
三階フロアへ意識が戻る。
目の前では、片瀬が亜香里へ微笑んでいる。
善人ぶって、周囲から賞賛を浴び、人心を掌握し、皆から感謝されて、自分を偉く見せようとする。それが気に食わない。
(……あいつは同じだ)
それは、偽りのヒーローと、慎也と何一つ変わらない
噛み締めた奥歯から、鉄臭い味が滲んだ。
(片瀬はいつか本性を現す。いや、俺が必ず、その仮面を剥ぎ取り、中身の卑しさを皆に見せつけてやる)
長年鍛え上げられた猜疑心が、確かな声で囁く。
お前は一人。味方はいない。だから、誰も信用しなくていい。ただ、お前は片瀬の本性を証明すればいい。そうすれば、誰もが認めてくれる。
そう心の中の何かが、重く、囁いた。
◇
権藤の機嫌が直り、張り詰めていた空気が少しずつ落ち着きを取り戻すと、剣崎は亜香里へ向き直った。
「休む間もなく悪いが、外の状況を教えてほしい」
亜香里は背筋を伸ばし、気丈に答える。
「はい、屋外はどこもあの生物に支配されていました。どうやら人を捕食すると分裂して数を増やしているようで、人が密集しているような場所は特に危険を感じました」
「分裂か……」
剣崎が低く呟く。
「貴重な情報だ。他には?」
「あとは……粘液のような体内の中に小さな核のようなものがあって……」
「あの点滅していた光か!」
天沢に急に話しかけられ、亜香里は肩を跳ねさせた。
「ひゃ、ひゃいっ」
思わず裏返った返事に、天沢は「あ、ごめんごめん」と苦笑する。
「……ええと……その核が、人の動きを追うように見えました。それと、音にも反応していたような気がします」
「なるほど!」
天沢の目が輝く。
「視覚もある。しかもやっぱり、聴覚もあるんだ!」
「はい、これらは全部、鈴音が気付いたんです」
亜香里が娘を見る。
急に話題を振られた鈴音は照れ臭そうに笑った。
「おおっやるなぁ!大した観察眼だ!」
そう言って頭を優しく撫でる。鈴音はくすぐったそうに笑い、小さく胸を張った。
その様子を見守っていた片瀬も、自然と表情を緩める。
「目立たずに隠れていれば、襲われる危険は減るかもしれませんね」
「よし、全員、目立たないよう静かにするんだ。無駄な騒ぎはするなよ!」
それを聞いた天沢と鈴音は顔を見合わせ、二人はほぼ同時に、自分ではなく相手の口を塞ぐ。
「んむっ」
「んーっ」
一拍遅れて互いの顔を見つめる。そして同時に吹き出した。
小さな笑い声が漏れそうになり、慌ててまた口を押さえる。
そんな二人を見て、亜香里も思わず笑みをこぼした。
和やかな空気だった。
だが。
(……何が面白い)
桐村だけは違った。
片瀬の意見を、あたかも自分のように言い放つ権藤が、部下に手の平で操られる上司に見えた。
(無能が)
胸の中で吐き捨てる。片瀬も。権藤も。何もかもが癇に障る。
落ち着かない。足先が小刻みに揺れ続ける。
「大丈夫ですか?」
藍川だった。
いつの間にか目の前まで来ていた。
彼女の瞳は、もっと何か言いたげな色が浮かんでいる。
「桐村さん、少し顔色が悪いですよ」
久しぶりに向けられた優しい声は、嬉しかった。
ただ同時に、優しさが、気遣いが、心を逆なでする。
偽善者の仲間のくせに、と。
「別に」
プライドが邪魔をし、そっけなく応えた。
藍川は少し寂しそうにした。
桐村は彼女への複雑な想いをどう扱えばいいのか、もはや自分でも分からないのだ。
「藍川さん、ちょっと来てくれる?」
権藤との話し合いを終えた片瀬の呼び声に、藍川の表情はぱっと明るくなる。
嬉しそうに「はい!」と返事をして駆け寄っていく。
その背中を見ながら、桐村は自分の掌を見つめた。
(俺が片瀬を引きずり下ろす)
これは思い上がりか……。
一瞬だけ過った改悛の心は、長年培った猜疑心にすぐに飲み込まれていった。
◇
藍川から救急箱を受け取った看護師の亜香里は、慣れた手つきで捻った自分の足首にテーピングを巻いていく。幸い、大きな異常はなさそうだった。
そのすぐ隣にいる鈴音と天沢は、宇宙について小声で話し込んでいる。それを亜香里は優しい目で見つめていた。
柔らかなひとときから、片瀬が静かに距離を取る。
藍川の目は、無意識にその背中を追いかけている。
目が離せないのに、視線が合うと、逸らしてしまう
近づけば息が詰まるほど緊張するくせに、離れたら胸のあたりがぽっかり空洞になる。
乱れるこの感情が何なのか、わかってない。
ただ無垢に、巣から落ちた雛が親鳥を求めるように、藍川は片瀬の後に吸い寄せられていった。
「どこに行くんですか」
「ん?ああ、電気を復旧できないか見てみようと思って。主配電盤がこの階にあるんだ」
「出来るんですか?」
「見てみないと分からない。でも、できることは試したいから、さっき部長に見る許可をもらったんだ」
「権藤部長に、ですか」
藍川は権藤に対し、あまり良い印象を持っていない。
それはさっき、亜香里たちを追い出そうとしているのを見て確信に変わっていた。
「あの……」
歩きながら、恐る恐る切り出す。
「さっき部長へ謝ったことですが、私は謝る必要なんてなかったと思います」
言葉を選びながら続ける。
「片瀬さんは人を助けたじゃないですか。それって悪いことなんですか?」
片瀬は少しだけ困ったように笑った。
「あれは場を収めるためでもあったけど、それだけじゃないよ。見張りを決めた時点で、避難してくる人の想定ができていなかった。その対応を決めていなかったのは、自分の落ち度だから」
藍川は思わず苦笑する。
「片瀬さんって、本当に真面目ですよね」
責任じゃないところまで、自分の責任にしてしまう。そんなところが。
「でも……お願いがあります」
立ち止まる。片瀬も足を止めた。
藍川は眉を八の字にして見上げている。
「あんな危険なことは二度としないでください。これって矛盾してるって自分でも思います」
人助けは立派なこと。でも危険なことはしてほしくない。
それを引き留めるのは、間違いかもしれない。
「それでも……私は、本気で心配したんです」
片瀬はこれまで、努力しても報われないことの方が多かった。
だからこそ、藍川の言葉は救いだった。
見返り期待をしていなかった努力が、報われるような気がした。
「……ありがとう」
心が軽くなる。かけがえのない支えになっていく。
この積み重ねが、気の許せる同僚からさらなる変化をもたらしていた。
「約束ですよ」
藍川は嬉しそうに笑った。
その笑顔につられるように、片瀬も微笑む。
「わかった」
ふと、その唇に目が止まった。
彼女がよく見せてくれる笑顔。
話すたびに綺麗に並んだ歯並びの中に、チラリと覗く一本の八重歯。
そこにある鮮やかなピンク色の唇が、妙に艶めかしい。
ごくりと息を飲む。
あまり見すぎてはいけない。そう思って引きはがすように視線を落とせば、首筋から続く鎖骨の柔らかなくぼみに捕らわれる。
自分でもわからない動悸に襲われて、たまらず顔を逸らした。
「そっ、それじゃ、そろそろ行こうか」
身体が火照る。
さっき、藍川に抱き着かれた感触が蘇っていた。
(これは、まずいな)
そっと距離を取るように、一歩下がって歩き出す。
藍川の「片瀬さん?」という声が、なぜかいつもより甘く耳に残った。




