10話 純情
窮地を脱した片瀬たち。
母である亜香里は、真っ先に娘の鈴音を抱き寄せ、その身体を確かめていた。
まだ十歳ほどの少女の膝には擦り傷があった。
滲んだ血が白い靴下へ小さな染みを作っている。
「痛くない?」
「大丈夫!それよりお母さんの足首の方が心配!」
母を思う優しさに溢れている。
互いを労わり合う母子の姿に、片瀬の胸にも温もりが広がっていく。
そこへ、慌ただしい足音。
「片瀬さん!」
切羽詰まった声だった。
振り向く間もなく藍川が駆け寄り、そのまま勢いよく片瀬の胸へ飛び込んだ。
「おっと」
身体全体で抱き止めた。
ふわりと柑橘系の甘い香りが漂う。
頬が首筋に触れ、胸の膨らみが片瀬の上腕に押し当てられて弾力を感じた。
「心配……したんですよ」
藍川は、溢れ出る想いでいっぱいだった。
片瀬が引き返した時、かつて父を失った日の恐怖がよみがえっていた。
もう大切な人を失いたくない。そんな想いが彼女を突き動かし、気づけば身体が先に動いていた。
「……」
優しく宥めるように、背中をさすってくれた。手のひらの熱を感じた瞬間、藍川の鼓動は激しさを増す。
(……あれ?)
ようやく、自分が何をしているのか理解する。
(私、片瀬さんに……抱きついてる?)
熱が一気に頬へ集まる。
仲は良い。でも、それだけ。
こんなことをする理由なんて、どこにもない。
(なんで……?)
抱き着くのは明らかに変である。行き過ぎた行動である。
なぜそうしたのか、自分でもわからない。なぜこんな衝動的な行動に至ったのか意味がわからず、混乱が加速する。
ただ、助かっていてほしいと思った。その一心だったのに、今、押し寄せているは羞恥心。藍川は顔を上げられなくなる。
そんな二人を眺める、三者三様の反応がある。
まず剣崎は「ふんっ」と鼻息を吹く。
刑事として、片瀬に対する疑念が完全に消えたわけではない。だが、自ら危険へ飛び込み、見ず知らずの親子を助け出した姿は、この目で見届けた。それでも、藍川一九を幼い頃から知る彼にとっては、どこか父親のような複雑な気持ちを拭えなかった。
一方、小野はため息をつく。
彼女は一年前、片瀬へ好意を示したことがあった。本気で恋をしていたわけではない。恋人として悪くない条件が揃っている。その程度の始まりだった。だから脈がないと分かれば、すっぱり諦められた。
しかし、極限状態に置かれた今、片瀬は誰よりも頼りになる存在へ変わっている。
(最初に目を付けたのは私なのに……)
身勝手な思いが燻る。これは理屈ではない。呆れるほど幼い感情だと分かっていても、その嫉妬を押さえ込めなかった。
それと対照的なのが天沢である。
昨夜、居酒屋で二人を見た時、てっきり恋人同士だと思っていた。
だが今日になって分かった。どうやら、そこまでは至ってない。
(なるほど、なるほど……今が一番面白い時期じゃないか)
微笑ましいものを見るような目で二人を眺めていた。
そんな天沢が、ふと視線を感じて首を九十度横に向ける。
「……ん?」
視線の先では、亜香里が口元を押さえたまま固まっていた。
「あ……あっ」
声にならない。
切れ長の目が大きく見開かれ、疲れの滲んでいた表情がみるみる明るくなる。
「あみゃっ!天沢先生!?」
思わず声が裏返った。
疲れ切った三十代半ばの看護師の顔が、十歳ほど若返ったような反応をする。
テレビでしか見たことのない人物が、今まさに目の前に立っている。あの星座模様のスーツも、本物だった。
「あっああの、先生が出演している番組、いつも録画して、見て、ます……」
感極まって、もじもじしている。緊張で舌も回らない。
娘を抱き寄せたまま深く頭を下げる姿は、さっきまで命懸けで逃げていた人物とは思えないほど、どこか初々しかった。
そんな亜香里は、結婚を失敗していた。
離婚してからの日々は、息をつく暇もなかった。
昼も夜も病院で働き、家へ帰れば母親になる。
人命を預かる仕事に失敗は許されない。
その重圧に押し潰されそうになる夜も、一度や二度ではなかった。
そのような生き方を選んだ彼女にとって、天沢のような楽天家とは相容れない、はずだったのだが、掛け違えたボタンが偶然一致するような、奇跡が起こっていた。
きっかけは、ある日の天気番組。
天沢は雷雨とUFOの関係性を熱弁し、共演者から呆れられていた。
「くだらない。物理学の基本法則が無視されているし、無意味なことはやめるべきだ」
冷ややかな問いにも、天沢は少しも怯まなかった。
「やめるべき?でも面白いだろ。失敗して立ち止まる人生なんて、つまらないじゃないか」
その無邪気な笑顔が忘れられなかった。
失敗してはいけない。そう思い詰めていた亜香里には、その一言が胸に深く残った。
失敗してもいいと言われたわけではない。失敗しても前へ進めばいい。
失敗は許されないと追い詰められていた亜香里にとって、救いになった。
「――お天気おじさん!」
元気な声。目を輝かせた少女、鈴音だった。
星柄のネクタイを見つけると、自分の宇宙柄の靴を見下ろし、嬉しそうに笑う。
「ほらっお揃い!」
「おっ本当だ!」
天沢も靴へ目を向ける。
鈴音は嬉しそうに何度も頷いた。
「お母さんといつも見てるよ!この前のUFOのお話も面白かった!」
「あ、あのっ!」
すかさず亜香里も身を乗り出した。
看護師としての冷静さを失い、完全にファンモードに突入している。
「先生の『失敗して立ち止まる人生なんてつまらない』って言葉、病院の個人ロッカーに貼ってます!夜勤で挫けそうな時、いつもっ……」
そこまで言って、はっと口を押さえる。
頬を真っ赤に染めながら、娘の肩にしがみつく。
その熱量にあてられた天沢は、照れくさそうに鼻の下をこすった。
「いやぁ。私の失敗は台本通りじゃなくて、本当に間違えてる時が結構あるんだよ」
その言葉に、亜香里は思わず吹き出した。
鈴音もつられて笑う。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
「おいおい」
剣崎が苦笑交じりに肩を竦める。
「今はそんな話をしている場合じゃないだろう」
「なはは……ごもっとも」
天沢は頭を掻きながら誤魔化す。
ついさっきまで命を懸けて逃げていたとは思えないほど、その場には穏やかな空気が流れていた。
しかし、それは束の間だった。
「――何だ!この騒ぎは!」
姿を現したのは権藤だった。
中年太りの身体を揺らしながら階段を下りてくる。
普段はエレベーターしか使わない彼にとって、この数階分の昇降だけでも相当堪えたのだろう。額には脂汗が滲み、荒い息遣いが苛立ちを物語っていた。
「おい、剣崎!説明しろ」
剣崎は露骨に眉をひそめた。
横柄な態度は気に食わない。だが、ここで感情をぶつけても意味はないと判断し、簡潔に事情を説明する。
母子を保護したこと。その際、世古が犠牲になったこと。
話を聞き終えた権藤の顔が、みるみる赤く染まっていく。
「身勝手にも程がある!世古課長がやられたのは、外部の人間を無闇に入れたせいではないか!」
雷が轟くような怒り。
その言葉に、亜香里の肩がびくりと震えた。
責められるのは当然だと思った。
自分たちが来なければ、世古は死ななかったのかもしれないのだから。
「申し訳ございません!」
深く頭を下げる。
「ですが、外の状況は」
「弁解はいらん!」
言葉を最後まで言わせてもらえない。
権藤の怒声が容赦なく遮る。
「あんたは、この親子を見捨てるべきだったとでも言うつもりか!?」
たまらず剣崎が割って入る。
刑事としての鋭い眼光と威圧があった。
しかし権藤はひるまない。
営業畑で長年生き残ってきた男には、別種の胆力があった。
「舐めるな!我が社を危険に晒す所業だ!規律を乱すような者は、即刻出て行ってもらう!」
亜香里の顔から血の気が引く。
ここを追い出される。
それだけは駄目。娘だけは、絶対に守らなければならない。
彼女は迷うことなく腰を折る。
土下座寸前まで深く頭を下げ、震える声で懇願した。
「どんなお叱りも受けます。ただ、娘だけは……どうか、この子だけはここへ置いてください……!」
懇願する亜香里の腰に、鈴音は何も言わずしがみつく。
小さな指先が母の看護服を握りしめる力は、離れまいとする切実な思いがひしひしと伝わった。
「一度、顔でも洗って頭を冷やされては?」
「黙れ!」
天沢は至って真面目に落ち着かせようとしたが、むしろ火に油を注ぐ結果となった。
怒鳴り返された天沢は「ありゃ」と肩をすくめる。
小野は少し離れて、息を潜めていた。
母子を中へ入れたのは自分だ。もしその話になれば、考えただけで胸が苦しくなる。
一方、階段の途中から様子を眺めていた桐村は、静かに目を細めている。
誰にも気づかれないよう、この場の空気を観察していた。
そして藍川。
彼女は依然として、片瀬の胸に顔を埋めたままだ。
ようやく冷静さは取り戻しつつある。しかし直面している問題は、恥ずかしさで身動きが取れないこと。些末な問題に思えるかもしれない。でも彼女にとっては重大なのだ。
耳まで赤く染まり、(急に離れたら変?このままじゃ変?あっいい匂い)とか、そんな思考がぐるぐると巡り、頬の火照りも収まらない。
そんな折に片瀬が息を吐いたものだから、(ため息!?もしかして私ってうざい!?)と不安が加速していた。
「ちょっとごめん」
優しい声だった。
藍川は肩へ添えられた手に導かれるまま、そっと身体を離す。名残惜しい温もりが消えていく。
片瀬は静かに立ち上がると、一歩前へ出た。
その視線は、まっすぐ権藤へ向けられている。




