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膠喰体《ゲルイーター》  作者: 禍福
エピソードⅠ 秘密
10/22

9話 母子

 世古課長が一階へ降りて間もなく。

 ――ガシャンッ!

 鋭い破砕音が二階まで届く。


「えっ?」


 続いて、バキン、バキンというガラスが砕けるような音が重なる。

 それは外部からの侵入を予感させた。


「なになにっ何事!?」


 天沢が立ち上がる。

 即座に反応したのは剣崎だった。


「行くぞ!」


 階段へ駆け出すと、片瀬もそれに続く。

 二人が一階へ飛び降りるように降りてすぐ、危機的光景を目にする。




 二重扉になった正面玄関前。

 割れた屋外側のガラス扉の前で、一人の警官が警棒を振るっていた。

 制服は裂け、額から血を流している。それでも必死に割れたガラスを払い除け、その背後にいる母子を守っていた。

 白い看護師の服装をした女性、星月亜香里ほしづきあかりと、宇宙柄の靴を履いた少女、星月鈴音ほしづきすずねがいる。


「早く中に入れ!」


 一刻の猶予もない。

 焦る警官が母子をビルに押し込もうとした瞬間。

 半透明の触手が、警官の胴体を貫いた。


「ひっ」


 ロビーにいた小野の喉から、小さな悲鳴が漏れる。

 警官の体が宙に浮く。

 傷口から噴き上がった血液は、そのまま触手の中へ吸い込まれていく。

 じゅる……じゅる……。

 耳を塞ぎたくなるような粘ついた音。

 制服も肉も、まるで強酸に浸されたように溶け始める。

 動いていた右手の指先が、熱で溶けた蝋細工のように垂れ下がった。


「お母さん!」


 まだ十歳にも満たない鈴音の甲高い声がロビーを切り裂く。

 母親である亜香里は娘を抱きかかえ、屋内側の観音扉へ飛びついた。


「開けて!」


 亜香里が体重を預けて押すが、動かない。今度は身体を反らして必死に取っ手を引く。施錠されているドアは開かない。それでも、娘の手だけは離さなかった。


「お願い!開けて!」


 ガンッ、ガンッと拳がガラスを叩く。

 近くにいる小野は恐怖で立ちすくみ、指は鍵のツマミの前で動かない。その手を、世古が掴んだ。


「開けるな。あれを中に入れたら皆殺しにされるぞ!」

「……!」


 小野の目には涙が浮かぶ。

 ガラス一枚向こうでは母親が叫び続けている。

 少女が泣いている。

 その光景を前に、小野の頭は真っ白だった。

 そこへ、剣崎と片瀬が駆け寄ってくる。


「何をしている!」


 剣崎が世古を引き剥がす。


「さっさと開けろ!」


 その怒声に、小野は我に返った。震える手でツマミを回す。

 ガチャリ。

 必死だった亜香里は全身でドアを押し込み、勢いよく開く。


「きゃっ!」

「うわあぁ!」


 取っ手を掴んでいた小野は九十度開いたドアの裏手で尻もちをつき、世古は吹き飛ばされてドアの真正面で腰を打ち付けた。

 母子は転がり込むようにビル内へ飛び込む。

 その直後。巨大な触手が、そのまま玄関から室内へねじ込まれてきた。


「課長!」


 片瀬の叫び。

 倒れていた世古課長が触手に捕まる。


「うわぁぁぁっ!」


 身体が浮き上がり、触手の粘液に包まれていく。

 世古の体がみるみる触手の中に沈む。


「助けろっ!助――」


 声が途絶える。

 世古の身体が、触手の中へ沈んでいく。

 腕だけが、最後まで暴れた。

 そして……ぼとり。

 右肘から先だけが床へ落ち、指先がまだ何かを掴もうと痙攣した。


 半透明の触手の中。

 世古の身体は、湯に溶ける角砂糖のように骨まで崩れていく。

 あとは、何も残らなかった。


「逃げろ!」


 剣崎が、腰が抜けて動けない小野を抱き抱えた。

 そのまま退避。

 片瀬は課長を助けようと一歩だけ足が前に出ていたが、諦める。


「……くっ」


 階段へ引き返す片瀬。


「逃げてください!」

「急げ!」


 一階の踊り場から藍川と天沢が叫ぶ。

 その時、片瀬がふと廊下の奥を目をやる。

 母子は、出口を探すように廊下の突き当たりへ走っていた。

 違う。

 そっちは行き止まりだ。


「こっちだ!」


 片瀬が声を張り上げる。

 その声に反応し、亜香里が走りながら振り返った。

 次の瞬間だった――ガシャンッ!


「きゃっ!」


 足元の椅子に躓き、亜香里が前のめりに倒れる。

 胸に抱えていた鈴音だけは守ろうと、とっさに身体をひねった。

 ナース服のポケットから赤いボールペンが床へ転がる。


「お母さん!」


 鈴音も一緒に転び、膝を床のガラス片で切る。

 血が滲んだ。

 それでも少女は自分の怪我には目もくれず、母親の肩へ必死に手を伸ばしている。


「くそっ!」


 片瀬の足が軋む。

 靴底が床で方向を変える音より早く、母子がいる方へと突き進む。

 ほんの一瞬、無意識に、彼は左腕の古傷に触れた。


 ――これはまだ幼かった頃、酒浸りの父親からつけられた痕だった。

 日常的に暴力を振るわれた。自分が受け止めなければ、弟が傷つく。だから庇う。それだけが、幼い自分にできる唯一の抵抗。母は無関心だった。

 殴られる痛みよりも辛かったのは、誰も助けてくれなかったこと。

 夜になると、弟と一緒に布団の中で声を殺して泣いた。あの頃の無力さは、決して忘れられない。


(――あんな思いは、もう誰にもさせたくない)


 過去を振り切るように、片瀬は駆け抜ける。


「片瀬さん!」


 踊り場から藍川の叫びが飛ぶ。


「先に行ってくれ!」


 迷いはなかった。全力で母子の元へ向かう。

 今、この親子を見捨てたら確実に死ぬ。

 幼い頃は、虐待から誰も助けてくれなかった。

 自分は、そうありたくない。

 今度こそ、誰かを救える存在でありたかった。


(絶対に間に合う。間に合わせる!)

「この先は突き当たりです!あそこの階段に向かいましょう!」


 母子にたどり着いた。片瀬が、早口で指示を出す。

 声は緊迫していたが、冷静さは保とうとしていた。

 亜香里は立ち上がろうとする。が、立てない。

 顔を歪ませ、足首を押さえている。


「お母さん!!大丈夫?」


 鈴音の小さな手が母親の足に触れた。

 状況は切迫していた。

 世古を捕食した触手が近づいてくる。


「立てますか!?」

「ご、ごめんなさい……!」


 答える声には焦りよりも、巻き込んでしまったことへの自責が滲んでいた。


「失礼します!」


 片瀬は迷わず亜香里を抱き上げる。

 看護服は染み込んだ消毒液の匂いがした。

 細身に見えた身体は、看護師として働く者らしく引き締まっている。

 それでも鍛えた片瀬には十分支えられる重さだった。


 突然抱き上げられた亜香里は目を見開く。

 鈴音は驚いて腰を反らし、睫毛をパチパチさせている。


「走れるか!?」


 問われた鈴音は、力強くうなずいた。

 すぐに階段へ向かって走り出す。


 巨大な本体は建物へ入り込めない。

 だが、長く伸びた触手だけは廊下いっぱいに、まるで日差しに照らされたミミズがのたうち回るように暴れていた。

 そこへ椅子が跳ね飛ばされた。


「きゃっ!」


 飛んできた椅子に、鈴音が肩をすくめる。

 その悲鳴へ反応するように、触手の先端がこちらに向く。


「いくぞ!」


 足を捻った亜香里を抱きかかえたまま、走る片瀬。

 驚くべきことに、少女は足を止めなかった。

 初対面の片瀬を、まるでヒーローを信じるように付いて来る。


 二人はさらに足を速めた。

 片瀬は飛来した椅子へ、脚を振り抜く。

 蹴り上げた。

 その勢いに、念動力を重ねた。


 椅子が砲弾のように触手へ突き刺さる。

 大きく反り返った。

 その一瞬。脇をすり抜ける。


「先に上がれ!」


 階段目前。

 片瀬が鈴音を先へと促す。


「急いで!」


 踊り場から、藍川の悲鳴のような声。


「かまうな!さっさと上に上がれ!」


 普段の片瀬ならあり得ない、強い言葉だ。

 既に権藤や桐村は上の階へ逃げていた。

 それでもまだ一階の踊り場から動こうとしない藍川を、天沢が手を引き、やっと動き出す。残っていた剣崎と小野も、後ろを気にしながら上がりだした。


 次に片瀬は机に足をかけ、全身の力を込めて押し出す。

 重い木製の机が床を滑る。

 そこからさらに念動力を重ねる。


 ――ガンッ!

 触手に直撃。


「よし!」


 机に衝突した触手はよろめいただけで、すぐに動き出す。


 ここで階段を駆け上がり、二階に着く。

 しかし触手の這い上がる音は遠ざからない。

 床を這う粘液のぬめりとした音が、死神の足音のように追いかけてくる。


「いたっ!」


 片瀬のすぐ前にいた鈴音。

 なんと、二階の踊り場で転んでしまう。

 気を急いて、足が追い付かなかったようだ。


 亜香里が「すず!」と娘の名を叫ぶ。

 触手は数メートルの距離。

 鈴音は恐怖で固まってしまった。


「っ!」


 片瀬は、両腕で抱えていた亜香里を強引に右肩に載せ替える。

 切迫した状況だ。荷物のように扱われた亜香里は当惑したが、気を遣う余裕は互いにない。


 亀のように固まった鈴音の身体が、ふっと浮く。

 片膝をついた片瀬が念動力で浮かせ、まだ少女の軽い身体を左肩に乗せた。

 両肩にふたりを抱えたまま踏ん張り、母子がずり落ちないよう、しっかりと掴む。


 この一連の流れを、ほんの数秒でやってのけた。

 だがその数秒が、今は命取りになりかねない状況。すぐ背後には、触手が迫っている。


 二人を抱えたまま、階段は一段飛ばしで上がる。

 三階フロアまで、後一歩。

 その時、彼のスーツの背中に何かが掠った。

 背筋が凍る冷たい感触。


(追いつかれる!)

「うぉおおおおっ!!」


 片瀬は両肩に乗せていた二人を前方に、到達した三階フロアに向かって投げ出す。

 そのまま身体をひねって両手を広げた。


 身を挺してでも守る。

 これ以上先には行かせない。

 その一心だった。


 触手は彼の眼前へ。

 一つ一つの吸盤がはっきり見える。


 触手が襲う。

 先端がわずかに開く。

 いざ喰らいつかんばかりに無数の牙のような突起が蠢いている。

 真っ直ぐ、片瀬の胸元をめがけ――


 ビタッ!!


 触手の先端が、

 片瀬の喉仏に触れるか触れないかの距離で、

 止まった。


 ごくりと息を呑む。


 触手は伸びきって、ピンと張っている。

 さらに数センチ伸びようとするが、近づけない。

 触手は諦めたかのように、じわりと後退していった。


「たっ、助かったの?」


 亜香里が震える声で呟く。

 その言葉と共に、触手は、食堂になっている二階まで下がっていくのが見えた。


 どうやら建物の構造に阻まれ、三階まであと一歩というところで、長さが限界に達していたようだ。


 鈴音が片瀬の袖を強く握りしめる。

 憧れのアイドルに出会ったかのように見上げ、長い睫毛を上下させている。


「大丈夫かい?」

「はい!」


 ピンと手を上げる鈴音だった。


 そこへ階段を駆け下りてくる足音。

 藍川の「片瀬さん!」と呼ぶ声で、緊張の糸が解れていく。

 ブラインドの隙間から差し込む光が、三人の汗で濡れた横顔を照らしていた。




 母子が逃げ込んだこのビル。

 閉ざされた空間に、九人の人間が集まった。


 彼らはそれぞれ、何かしらの秘密を抱えている。

 片瀬が特別な秘密を抱えているように、誰もが声に出せない何かを胸にしまい込み、日常という名の仮面を被って生きている。


 それは、人には見せられない弱さであったり、隠し続けてきた過去、あるいは口にできない想いだったりする。


 しかしこの極限状態は、それを隠したままでは終わらせてくれない。

 やがて彼らは、自らの秘密と向き合うことになる。


 これは、そこへ至るまでの、物語である。

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