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双月  作者: 柳瀬 怜
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9/10

第九章 約束

電話から、二週間が経っていた。


 湊は、あの日以来、紬から連絡を受けていなかった。仕事の合間、ふと気づくと、スマートフォンを確認している自分がいた。


 連絡が来たのは、九月に入ってすぐの夜だった。


「明日、会えませんか」


 紬の声は、これまでで一番、緊張しているように聞こえた。


* * *


 指定されたのは、初めて会ったあの喫茶店だった。


 湊が席に着くと、紬はすでに来ていた。テーブルの上には、あの日、鞄から出しかけて戻した、あのノートが置かれていた。


「今日は、これをお渡しします」


 紬は、ノートの表紙に手を添えたまま、しばらく動かなかった。


「凪さんから、預かっていました。もし何かあったときは、開けてくださいって」


「何か、というのは」


「詳しくは、聞いていません。凪さんは、いつも大事なことほど、はっきりとは言わない人だったので」


 湊は、その言葉に、静かにうなずいた。よく知っている妹の癖だった。


「私は、七年間、これを開けずに持っていました」


「なぜ、開けなかったんですか」


「怖かったんです」


 紬は、初めてその言葉を口にした。


「開けたら、凪さんが本当に、いなくなったことを、認めなきゃいけない気がして」


 湊は、何も言えなかった。同じ感覚を、湊自身も知っていた。凪の部屋を、七年間開けられなかったのと、同じ種類の恐れだった。


* * *


「なぜ、今なんですか」


 湊は聞いた。


 紬は、少し視線を落とした。


「半年前、心理士としての仕事の中で、あるクライアントさんに会いました。誰かを支え続けて、自分を保てなくなっていた人です」


 紬は、ゆっくりと言葉を選んでいるようだった。


「その人と話しているうちに、凪さんのことを、何度も思い出しました。そして気づいたんです。私は、凪さんを助けられなかったことを言い訳にして、ずっと立ち止まっていたんじゃないかって」


「立ち止まって」


「向坂さんに、このノートを渡すことから、七年間、逃げていました」


 紬は、まっすぐに湊を見た。


「凪さんとの約束を守っている、というのは、本当は半分だけでした。残りの半分は、向坂さんに会うのが、怖かっただけです」


 湊は、紬の目を見返した。


「なぜ、怖かったんですか」


「向坂さんに会えば、私も、凪さんの死と、ちゃんと向き合わなきゃいけなくなるからです」


 その言葉は、湊の中に、静かに落ちていった。


「あなたのせいじゃないです」


 湊は、気づけば、そう口にしていた。


「凪を止められなかったのは、俺も同じです。あなただけじゃない」


 紬は、しばらく黙っていた。それから、小さく、本当に小さく、頷いた。


「ありがとうございます」


 その一言だけで、紬の肩から、何かが、わずかに下りたように見えた。


* * *


 紬は、ノートを湊の前に差し出した。


「開けるのは、一人のときの方がいいと思います。今、ここで開けなくても大丈夫です」


 湊は、ノートを手に取った。表紙は、少し色褪せていた。凪の字で、何も書かれていない、ただの大学ノートだった。


 湊は、それを鞄にしまった。


「一つだけ、聞いてもいいですか」


 湊は言った。


「サークルにいた、沙耶さんという方、その後どうなったか、ご存じですか」


 紬は、少し驚いた顔をした。


「詳しくは、わかりません。ただ、風の噂で、今は地方で、対人援助の仕事をしていると聞いたことがあります」


「対人援助」


「ええ。皮肉なものですよね。凪さんに救われなかった痛みを抱えたまま、今度は自分が誰かを助ける仕事を選んでいる」


 湊は、その話に、何も言えなかった。ただ、誰も完全に救われず、誰も完全に悪いわけではない、というこの世界の重さを、あらためて感じていた。


* * *


 喫茶店を出ると、九月の風が、少しだけ涼しくなっていた。


「向坂さん」


 紬が、湊を呼び止めた。


「今度、島に帰る予定は、ありますか」


「命日には、毎年」


「今年は、いつもと違う帰り方をしてみませんか」


 湊は、紬の顔を見た。


「そのノートを読んだ上で、島に帰ってほしいんです。凪さんが、最後に何を思っていたのか、知った上で」


 湊は、少しの間、考えた。


「わかりました」


 その返事に、紬は、初めて小さく笑った。


「もう一つだけ、いいですか」


「はい」


「凪さんは、向坂さんのことを、最後まで、大好きなお兄ちゃんのままでいました。それだけは、伝えたかったんです」


 湊は、何も言えなかった。ただ、喉の奥が、熱くなるのを感じていた。


* * *


 その夜、湊は自宅のダイニングテーブルに、ノートを置いた。


 開くことも、できた。


 けれど、湊は、その夜は開かなかった。


 紬の言葉が、まだ胸の中で、静かに響いていた。


 もう一度、島へ帰ろう。


 凪の言葉を、あの場所で、読もう。


 湊は、そう決めていた。


 窓の外を見ると、久しぶりに、月が出ていた。まだ満月には遠い、細い月だった。


 それでも、湊は、その月を、しばらく見つめていた。

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