第十章 生きて
島へ帰る前日の夜、湊はようやく、ノートを開いた。
ダイニングテーブルの上、電気を一つだけ点けて、湊はページをめくった。
最初の数ページは、大学に入ったばかりの頃の記録だった。サークルの新歓、慣れない一人暮らし、履修の愚痴。ごく普通の、大学生の日記だった。字は、丸みを帯びていて、時々、余白に小さな花の絵が描かれていた。
湊は、その一つ一つを、ゆっくりと読んだ。
ページが進むにつれ、文字は少しずつ変わっていった。丸みが取れ、行間が詰まり、時折、途中で途切れる文がまじるようになった。
沙耶という名前が、何度か出てきた。日付が飛び飛びになる時期があった。
湊は、手を止めずに、読み進めた。
* * *
ノートの後半、書き込みは急に減っていた。数ページに一行だけ、というページが続いた。
『疲れた。』
『今日は、笑えた。』
『お兄ちゃんから電話。声、聞けてよかった。』
湊は、その一文で、指を止めた。
いつの電話のことか、思い出せなかった。忙しさに追われて、その他大勢の通話の一つとして処理してしまった、名もない一本の電話。凪にとっては、それが「今日は、笑えた」に繋がる一行だった。
湊は、しばらく、その一行から目を離せなかった。
* * *
最後から二枚目のページに、紬への言葉があった。
『紬へ。』
『もし、これを読んでるってことは、何かあったってことだよね。ごめんね、変なもの預けて。』
『一個だけ、頼みごとしてもいい? もし、お兄ちゃんがまだ笑えてなかったら、連絡してあげてほしい。約束、破っていいから。』
湊は、その一文を、二度、三度と読み返した。
あの電話は、ここから始まっていた。
凪は、七年後の湊が、まだ笑えていないことを、まるで見えていたかのように、あらかじめ知っていた。
湊は、ページを持つ手に、力がこもるのを感じた。
* * *
最後のページをめくった。
そこには、これまでのページとは違う筆致で、一つの手紙が書かれていた。日付はなかった。
『お兄ちゃんへ。』
湊は、そこで一度、ノートを閉じた。
閉じたまま、しばらく動けなかった。呼吸の仕方を、一瞬、忘れたような感覚があった。
湊は、深く息を吸って、もう一度、ノートを開いた。
* * *
『お兄ちゃんへ。
この手紙を読んでるってことは、多分、わたしはもういないんだと思う。
変な書き出しでごめん。でも、これしか思いつかなかった。
お兄ちゃんは、きっと自分を責めてると思う。何か気づけたんじゃないかとか、聞いてあげられたんじゃないかとか。
でも、それは違う。
わたしが誰にも言わなかったのは、お兄ちゃんのせいじゃない。わたしが、そう決めてたから。お兄ちゃんに心配かけたくなかったから。それだけ。
だから、自分を責めないで、なんて言わない。多分、言っても無理だと思うから。
ただ、一つだけ、覚えててほしい。
わたしは、お兄ちゃんのことが、世界で一番好きだった。
お兄ちゃんが静かに笑うところも、本を最後まで読めないところも、傘を無理して貸してくれるところも、全部、大好きだった。
お母さんが「二人で生きなさい」って言ったの、覚えてる?
あれ、ずっと重かった。二人でいなきゃいけない、二人じゃなきゃ駄目だって、ずっと思ってた。
でも、今は思う。
一人でも、生きていいんだよ。
わたしの分まで、なんて言わない。それも、多分、重すぎるから。
ただ、生きてほしい。
理由なんて、なくていい。
お兄ちゃん。
生きて。』
* * *
湊は、最後の一行を、何度も、何度も読み返した。
声が、出なかった。
目の奥が、熱くなっていくのがわかった。けれど、涙は、すぐには出てこなかった。七年間、涙という回路を閉じてきた体は、すぐには開き方を思い出せないようだった。
湊は、ノートを胸に抱いた。
テーブルに突っ伏すようにして、しばらく、その姿勢のまま動かなかった。
自分を責めるな、と凪は書いていた。
けれど、湊は、その言葉だけでは、自分を許せそうになかった。
あの日、先に行かせなければよかった。
あの夜、島の防波堤で、言いかけた言葉を、最後まで聞けばよかった。
深夜のメッセージに、すぐ気づけばよかった。
その後悔は、これから先も、きっと消えない。
凪の言葉を読んでも、消えるようなものではなかった。
それでも。
湊は、顔を上げた。
この後悔を抱えたまま、それでも生きていくことを、凪は望んでいるのだと、湊はようやく、理解した。
許されることと、生きることは、別のことだった。
許されなくても、生きていい。
凪は、そう言っている気がした。
* * *
湊は、ノートを閉じ、鞄にしまった。
窓の外を見る。
月は、まだ半分ほどしか満ちていなかった。
それでも、湊は、初めて、その月に向かって、小さく呟いた。
「明日、帰るから」
声は、掠れていた。
目の奥が、まだ熱いままだった。涙は、出そうで、出なかった。
まるで、七年間閉じていた回路の、最後の一歩手前で、何かが押しとどめているようだった。
湊は、その感覚を抱えたまま、静かに電気を消した。




