第七章 あの日
朝は、よく晴れていた。
宿の窓から差し込む光が、畳の上に長い四角を描いていた。湊が目を覚ますと、凪はすでに起きていて、縁側で麦茶を飲んでいた。
「おはよう」
「おはよう」
いつも通りの声だった。
朝食は、宿の女将が用意してくれた干物と味噌汁だった。凪はいつものように、よく食べた。少なくとも、湊の目には、そう見えた。
「今日、暑くなりそうだね」
「フェリー、冷房効いてるといいけど」
「効いてないと思う。毎年そうじゃん」
凪は笑った。他愛のない話だった。
* * *
宿を出て、フェリーの時間まで、二人は港までの道をゆっくり歩くことにした。
防波堤沿いの一本道。昨夜、月明かりの下を歩いた同じ道を、今度は強い朝日の中で歩く。
蝉の声が、島中に響いていた。
「去年より、蝉うるさくない?」
「気のせいだろ」
凪は、道端に咲いていた花を指差した。名前を知らない、小さな白い花だった。
「これ、なんて花だっけ」
「知らない」
「毎年見てるのに、覚えてないね」
湊は、少し笑った。
途中、桜並木を抜けた。今は葉桜だったが、春には見事な花を咲かせる並木だと、二人とも知っていた。
「来年は、桜の時期に来ようよ」
凪が、ふと言った。
「いいな、それ」
「約束ね」
湊は頷いた。何気ない約束だった。数えきれないほど交わしてきた、他愛のない約束の一つだった。
このとき、湊はまだ知らなかった。
それが、最後の約束になることを。
* * *
港が見えてくる少し手前で、凪が足を止めた。
「お兄ちゃん、先行って」
「え」
「ちょっと、コンビニで飲み物買ってく。喉渇いた」
港の手前に、島に一軒だけある小さな商店があった。凪はそちらを指差した。
「一緒に行くよ」
「いいよ、すぐ追いつくから。先、待ってて」
凪は、いつもの調子でそう言った。特別なことは、何もなかった。何百回と繰り返されてきた、ただの日常の一場面だった。
湊は、少し迷ったが、頷いた。
「じゃあ、先、港で待ってる」
「うん」
凪は、商店の方へ歩いていった。湊は、その後ろ姿を、特に気にも留めずに見送った。
振り返らなかった。
振り返る理由が、なかった。
湊は、港へ向かって歩き出した。
* * *
港に着くと、フェリーはまだ着いていなかった。湊は待合所のベンチに座り、スマートフォンを取り出した。仕事のメールを、いくつか確認する。
五分が過ぎた。
十分が過ぎた。
湊は、少しずつ、落ち着かない気持ちになり始めていた。飲み物を買うだけにしては、少し長い。
スマートフォンを見る。凪からの連絡はない。
湊は、立ち上がった。商店の方へ、引き返そうとした。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
湊は、電話に出た。
「もしもし」
相手の声を、湊は覚えていない。
何を言われたのか、正確には思い出せない。ただ、いくつかの単語だけが、耳に残っている。
商店の裏。
救急車。
病院。
湊は、その場に立ち尽くした。手にしていたスマートフォンを、いつの間にか、落としていた。
蝉の声だけが、変わらずに響いていた。
空は、相変わらず、よく晴れていた。
* * *
それから先のことを、湊はほとんど覚えていない。
誰かに肩を支えられて、歩いたこと。
白い建物の中で、長い時間、椅子に座っていたこと。
医師が、何かを告げに来たこと。
その言葉の中身だけが、湊の記憶から、ぽっかりと抜け落ちている。
覚えているのは、廊下の窓から見えた、真夏の空だけだった。
あまりにも青く、あまりにも高く、そこにあった。
その日、湊は、二十一歳だった。
凪は、同じ二十一歳のまま、その日から、一日も歳を取っていない。




