表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
双月  作者: 柳瀬 怜
PR
7/10

第七章 あの日

朝は、よく晴れていた。


 宿の窓から差し込む光が、畳の上に長い四角を描いていた。湊が目を覚ますと、凪はすでに起きていて、縁側で麦茶を飲んでいた。


「おはよう」


「おはよう」


 いつも通りの声だった。


 朝食は、宿の女将が用意してくれた干物と味噌汁だった。凪はいつものように、よく食べた。少なくとも、湊の目には、そう見えた。


「今日、暑くなりそうだね」


「フェリー、冷房効いてるといいけど」


「効いてないと思う。毎年そうじゃん」


 凪は笑った。他愛のない話だった。


* * *


 宿を出て、フェリーの時間まで、二人は港までの道をゆっくり歩くことにした。


 防波堤沿いの一本道。昨夜、月明かりの下を歩いた同じ道を、今度は強い朝日の中で歩く。


 蝉の声が、島中に響いていた。


「去年より、蝉うるさくない?」


「気のせいだろ」


 凪は、道端に咲いていた花を指差した。名前を知らない、小さな白い花だった。


「これ、なんて花だっけ」


「知らない」


「毎年見てるのに、覚えてないね」


 湊は、少し笑った。


 途中、桜並木を抜けた。今は葉桜だったが、春には見事な花を咲かせる並木だと、二人とも知っていた。


「来年は、桜の時期に来ようよ」


 凪が、ふと言った。


「いいな、それ」


「約束ね」


 湊は頷いた。何気ない約束だった。数えきれないほど交わしてきた、他愛のない約束の一つだった。


 このとき、湊はまだ知らなかった。


 それが、最後の約束になることを。


* * *


 港が見えてくる少し手前で、凪が足を止めた。


「お兄ちゃん、先行って」


「え」


「ちょっと、コンビニで飲み物買ってく。喉渇いた」


 港の手前に、島に一軒だけある小さな商店があった。凪はそちらを指差した。


「一緒に行くよ」


「いいよ、すぐ追いつくから。先、待ってて」


 凪は、いつもの調子でそう言った。特別なことは、何もなかった。何百回と繰り返されてきた、ただの日常の一場面だった。


 湊は、少し迷ったが、頷いた。


「じゃあ、先、港で待ってる」


「うん」


 凪は、商店の方へ歩いていった。湊は、その後ろ姿を、特に気にも留めずに見送った。


 振り返らなかった。


 振り返る理由が、なかった。


 湊は、港へ向かって歩き出した。


* * *


 港に着くと、フェリーはまだ着いていなかった。湊は待合所のベンチに座り、スマートフォンを取り出した。仕事のメールを、いくつか確認する。


 五分が過ぎた。


 十分が過ぎた。


 湊は、少しずつ、落ち着かない気持ちになり始めていた。飲み物を買うだけにしては、少し長い。


 スマートフォンを見る。凪からの連絡はない。


 湊は、立ち上がった。商店の方へ、引き返そうとした。


 そのとき、スマートフォンが鳴った。


 知らない番号だった。


 湊は、電話に出た。


「もしもし」


 相手の声を、湊は覚えていない。


 何を言われたのか、正確には思い出せない。ただ、いくつかの単語だけが、耳に残っている。


 商店の裏。


 救急車。


 病院。


 湊は、その場に立ち尽くした。手にしていたスマートフォンを、いつの間にか、落としていた。


 蝉の声だけが、変わらずに響いていた。


 空は、相変わらず、よく晴れていた。


* * *


 それから先のことを、湊はほとんど覚えていない。


 誰かに肩を支えられて、歩いたこと。


 白い建物の中で、長い時間、椅子に座っていたこと。


 医師が、何かを告げに来たこと。


 その言葉の中身だけが、湊の記憶から、ぽっかりと抜け落ちている。


 覚えているのは、廊下の窓から見えた、真夏の空だけだった。


 あまりにも青く、あまりにも高く、そこにあった。


 その日、湊は、二十一歳だった。


 凪は、同じ二十一歳のまま、その日から、一日も歳を取っていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ