第六章 最後の旅行
その旅行のことを、湊は、驚くほど鮮明に覚えている。
凪のスマートフォンをもう一度開いたとき、写真フォルダの奥に、一つだけ日付の離れたアルバムがあった。フェリーの写真。神社の写真。夕暮れの防波堤。
七年前の、夏の初めだった。
---
その年、凪から珍しく先に連絡があった。
「お盆の前に、二人で島行かない?」
湊は少し驚いた。母の命日でもなければ、法事の予定もない時期だった。理由を尋ねると、凪は少し間を置いて答えた。
「なんとなく。お兄ちゃんと、ゆっくり話したいなって」
その「なんとなく」に、湊は今、あの日のどんな意味が隠れていたのか、考えずにはいられない。けれど、あのときの湊は、ただ単純に嬉しかった。
仕事の休みを合わせ、二人でフェリーに乗った。
母の三回忌以来、二人だけで島に帰るのは、これが初めてだった。あのときは伯母がいた。今度は、本当に二人だけだった。
「二人だけって、久しぶりだね」
甲板で、凪がそう言った。潮風に、髪が揺れている。
「そうだな」
「なんか、緊張する」
凪は笑った。湊も、少しだけ笑った。
---
島に着くと、いつものように商店街のおばあさんたちが声をかけてきた。
「あら、湊くんと凪ちゃん、久しぶりやねえ」
二人並んで歩いていると、店先に座っていた老婦人が、目を細めてこちらを見た。
「あんたたち、大きくなったらほんまにそっくりやねえ。どっちがどっちか、たまに分からんくなるわ」
実際、その日の夕方、神社へ向かう道で、地元の男の子に「凪ちゃん」と声をかけられたのは湊のほうだった。振り返った湊を見て、男の子は「あ、間違えた」と笑って走り去った。
「今の、お兄ちゃんのこと凪だと思ったんだよ」
凪が笑いながら言った。
「髪型のせいだろ」
「双子だからじゃない?」
「顔、そんな似てないだろ」
「似てるよ。特に、黙ってるときの顔」
湊は何も言い返せなかった。
昔から、二人は容姿が似ていると言われ続けてきた。けれど、雰囲気はいつも正反対だと、自分たちでも思っていた。湊は静かで、凪は賑やかだった。太陽と月、と呼ばれて育った。
それでも、こうして時々、誰かに取り違えられる瞬間がある。
まるで、二人が一つのものの、表と裏であるかのように。
---
神社に参り、母に手を合わせ、夕方は商店街の古い喫茶店で、あんみつを食べた。店主の老人は、二人が子供の頃から変わらずそこにいる。
「毎年ありがとうねえ。お母さんも喜んどるよ」
店主の言葉に、凪は目を細めて笑った。
「毎年って言っても、湊くんの方が多いんですけどね。私、なかなか来れなくて」
「そんなことないだろ」
「あるよ。ごめんね」
湊は、その謝罪の軽さの裏に、何かが引っかかった気がした。けれど、それを深く追う前に、凪はもう次の話題に移っていた。
---
夜、島は小さな夏祭りだった。神社の境内に、いくつかの屋台が並ぶ。都会の祭りに比べれば、ずっと簡素なものだったが、二人にとっては子供の頃から変わらない、大切な景色だった。
りんご飴を分け合いながら、二人は防波堤に座った。
海は静かだった。波の音だけが、一定のリズムで打ち寄せている。
空には、満月が出ていた。
海面に、月の光が長く伸びて映っていた。まるで、もう一つの月が、海の底に沈んでいるようだった。
「見て」凪が、海を指差した。「月、二つあるみたい」
湊は、その光景を見つめた。
空に一つ。海に一つ。
「同じ月なのに」凪が、静かに言った。「見える場所が違うと、違って見えるね」
湊は、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと答えた。
「俺たちみたいだな」
凪が、こちらを見た。
「似てるけど、違う場所にいる」
凪は、少しの間、何も言わなかった。海を見つめる横顔に、月の光が薄く当たっている。
「そうだね」
凪の声は、いつもより低く、静かだった。
「離れていても」
凪はそこで言葉を切り、また海に目を戻した。
「離れていても、同じ月を見てたら、いつか会えるって、島の言い伝え、あったよね」
「ああ」
「信じる?」
湊は、少し考えてから答えた。
「信じたい」
凪は、小さく笑った。それから、りんご飴の棒を指先で回しながら、しばらく黙っていた。
---
屋台が片付き始める頃、二人は宿への道を歩いた。
防波堤沿いの一本道。街灯の少ない道を、月明かりだけを頼りに歩く。
凪が、ふと足を止めた。
「お兄ちゃん」
湊は振り返った。
凪は、何か言いかけたまま、しばらく黙っていた。口を開きかけては、閉じる。それを、二度繰り返した。
「どうした」
湊が聞くと、凪は小さく首を振った。
「ううん」
いつもの笑顔だった。けれど、その笑顔の作られ方に、湊はほんの少しだけ、違和感を覚えた。第三章のあの夜、廊下で膝を抱えていた凪と、同じ種類の間があった気がした。
「なんでもない。行こう」
凪は、湊より先に歩き出した。
湊は、その背中を追いながら、聞こうか、聞くまいか、迷った。
結局、聞かなかった。
あの夜、凪が何を言おうとしていたのか、湊は今もわからない。
わからないまま、この先もずっと、わからないのかもしれない。
---
宿に戻ると、凪はいつも通りだった。父の話をして、島の変わらなさに笑い、明日の朝は少し散歩してから帰ろう、と言った。
「フェリー、何時だっけ」
「昼前」
「じゃあ、朝ごはん食べてから、少し歩こうよ」
「いいよ」
布団に入る前、凪は窓を少し開けた。夜風が、カーテンを揺らす。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん」
「今日、来てくれてありがとう」
「別に、俺も来たかったから」
凪は、しばらく黙っていた。それから、小さな声で言った。
「うん」
それだけだった。
湊は電気を消した。
窓の外には、まだ月が残っていた。海に映る月と、空の月と。
二つの光を最後に見たのが、その夜だったことに、湊は今も、時々、気づかないふりをする。




