第五章 言えなかった
紬と別れた夜、湊は久しぶりに、あの部屋のドアを開けた。
六畳の部屋。三つの段ボール箱。電気をつけると、埃が薄く光の中に舞った。
湊は、一番手前の箱を開けた。
中には、凪のスマートフォンが入っていた。充電器も、当時のまま一緒に入れてあった。湊はそれを取り出し、コンセントに繋いだ。画面に、小さな充電マークが浮かぶ。
パスコードは、覚えていた。二人の誕生日を並べた数字。母が亡くなったあと、何かあったときのためにと、互いのパスコードを教え合っていた。それが、今もそのまま残っていた。
画面が明るくなる。
湊は、指を止めた。
開けていいのか、わからなかった。七年前、警察から返却されたときのまま、一度も中を見ていない。見る勇気がなかった、というより、見てしまえば、何かが確定してしまう気がしていた。
湊は、深く息を吸って、指紋認証ではなく、パスコードを打ち込んだ。
画面が開いた。
---
メッセージアプリを開くと、一番上に、自分とのやり取りが残っていた。
湊はそれを、上へ、上へと遡っていった。
最後のやり取りは、七年前の朝だった。
『了解、じゃあまた駅で。』
その一言で、途切れていた。
湊は、そこから更に遡った。
凪から届いた、たくさんの「今度いつ会える?」。湊の、簡潔な「来月落ち着いたら」。凪の、明るいスタンプ。
そして、深夜のメッセージがあった。
『起きてる?』
既読は、翌朝についていた。湊の返信は、「ごめん、寝てた。どうした?」。その後、凪からの返事はない。
湊は、その一往復を、何度も見返した。
あのとき、もし起きていたら。
もし、すぐに電話をかけ直していたら。
考えても、答えの出ない問いだった。それでも、考えることをやめられなかった。
---
さらに遡ると、写真フォルダが目に入った。
湊は、迷った末に、それを開いた。
景色の写真ばかりだった。夕焼け。商店街のシャッター。猫。空。海。凪自身が写っている写真は、やはり一枚もなかった。
ただ、一枚だけ。湊の後ろ姿を、遠くから撮った写真があった。編集部から出てきたところを、こっそり撮ったものらしい。日付は、亡くなる二週間前だった。
湊は、その写真を見たことがなかった。
なぜ、こんな写真を撮ったのか。
なぜ、送ってこなかったのか。
答えてくれる人は、もういない。
---
湊は、スマートフォンを充電器に繋いだまま、床に座り込んだ。
思い出すのは、亡くなる一年ほど前、実家に三人で集まった、ある晩のことだった。
父の還暦を祝う食事会だった。凪が言い出して、久しぶりに三人で食卓を囲んだ。
凪は、いつものように明るく話していた。父の仕事の話。湊の会社の話。島の近況。けれど、湊は途中から、違和感を覚えていた。
凪の箸が、あまり動いていなかった。
好物のはずの茶碗蒸しに、ほとんど手をつけていない。頬が、少し痩せたように見えた。笑うタイミングが、心なしか、いつもより一拍遅い。
食事のあと、父が先に部屋へ戻り、湊と凪だけになった。
「最近、痩せた?」
湊は、努めて軽い調子で聞いた。
「そう? 変わってないと思うけど」
凪は笑って、湯呑みを両手で包んだ。
「ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ、普通に」
湊は、その答えに引っかかりを覚えた。目の下に、薄い隈があった。声にも、いつもの張りがなかった。
聞こうと思えば、もっと聞けた。
「本当に、大丈夫か」
そう続けることも、できたはずだった。
けれど、湊は、それ以上言葉を続けなかった。
---
なぜ、あのとき聞かなかったのか。
湊は、七年間、その理由を自分の中で探し続けてきた。忙しかったから。信じたかったから。色々な理由を、その都度、自分に言い聞かせてきた。
けれど、今夜、凪のスマートフォンを手にしながら、湊はようやく、一番深いところにある理由に気づいた。
怖かったのだ。
もし、「大丈夫か」ともう一歩踏み込んで、凪が本当のことを話し始めたら。もし、そこで語られる何かが、自分の手に負えないほど重かったら。
自分は、それを受け止めきれるのだろうか。
湊は、その自信がなかった。
妹を助けたい気持ちより、妹の重さを引き受けきれない自分を見たくない気持ちのほうが、あの瞬間、わずかに勝っていたのかもしれない。
それは、優しさに似た、ひどく利己的な沈黙だった。
そして、凪もまた、同じ理由で黙っていたのだろうと、湊は今、思う。
湊を心配させたくない。湊の重荷になりたくない。
二人は、互いを守ろうとして、互いから一番遠くへ離れていった。
優しさが、二人の間に、静かな壁を作っていた。
---
湊は、床に座ったまま、明け方近くまで、凪のスマートフォンの中を見続けた。
メモアプリに、いくつか短い走り書きが残っていた。日付だけのもの。買い物リスト。誰かの誕生日。特別なことは、何も書かれていなかった。
けれど、その中に一つだけ、湊の目を引く言葉があった。
『たまには、頑張らなくていいって、誰かに言われたい。』
日付は入っていなかった。誰に向けて書いたのかも、わからない。ただのつぶやきだったのかもしれない。
湊は、その一文を、何度も読み返した。
自分は、その言葉を、一度でも凪にかけたことがあっただろうか。
記憶を辿っても、思い出せなかった。
窓の外が、少しずつ白み始めていた。湊はスマートフォンを閉じ、充電器から抜いた。画面が暗くなる。
湊は、それを大切に、箱の中へ戻した。
今度は、もう一度開けられる自信があった。
それだけが、あの夜、湊の中で確かに変わったことだった。




