第四章 助けられなかった人
二度目に紬と会ったのは、最初の喫茶店ではなかった。
「今度は、私のオフィスの近くでもいいですか」
紬からそう連絡があり、湊は指定されたビルの一階にあるカフェに向かった。心理士という仕事柄なのか、紬はいつも待ち合わせの場所を丁寧に選んでいるように見えた。人の話を聞くことに慣れた人間の、静かな配慮なのかもしれなかった。
「今日は、大学時代の話の続きをしようと思います」
紬は席に着くなり、そう切り出した。前置きも、湊の様子をうかがうようなそぶりもなかった。まっすぐに本題へ入る紬の話し方に、湊は少しだけ緊張した。
「凪さんに、後輩がいました」
* * *
その後輩の名前を、紬は「沙耶さん」と呼んだ。
凪より二つ下の学年で、同じサークルに所属していた。人見知りで、最初の頃はあまり周りに馴染めていなかったという。
「凪さんが、最初に声をかけたんです。誰も話しかけないから、可哀想だなって」
サークルの飲み会の帰り道、たまたま二人きりになったことがきっかけだった。沙耶はその夜、初めて誰かに家庭の事情を話した。両親が不仲で、家に帰りたくないこと。誰にも言えずに、ずっと一人で抱えていたこと。
凪はその夜、終電を逃してまで、沙耶の話を聞き続けた。
「それから、二人はすごく仲良くなりました。沙耶さんは、凪さんのことを『唯一分かってくれる人』って、よく言っていたそうです」
湊は、その光景が容易に想像できた。誰かの話を聞くとき、凪はいつも本当に相手のことだけを考えているような顔をする。子供の頃から、そうだった。
「でも、だんだん」紬は、カップの持ち手を指でなぞりながら続けた。「沙耶さんは、凪さんがいないと駄目になっていきました」
毎日のように連絡が来るようになった。授業の合間。深夜。朝方。内容は次第に切迫していった。「消えたい」「もう無理」。凪はそのたびに返信し、時には大学を早退してまで会いに行った。
「凪さんは、それを誰にも相談しませんでした。私にも、途中まで話してくれなかったんです」
「なぜ、話さなかったんでしょう」
「多分」紬は少し間を置いた。「話したら、誰かに『距離を置いた方がいい』って言われるのが、わかっていたからだと思います」
湊は、その答えに何も返せなかった。
* * *
三年生の冬、沙耶は自殺未遂を起こした。
凪が発見した。深夜、既読のつかないメッセージを不安に思い、一人暮らしの沙耶のアパートに駆けつけた結果だった。
「その日から、凪さんはほとんど自分の生活を捨てて、沙耶さんに付き添いました。入院中も、毎日お見舞いに行って」
紬はそこで、一度言葉を止めた。
「私、止めたんです。『あなたが壊れる』って」
湊は顔を上げた。
「凪は、何て」
「『わたしが壊れても、沙耶が生きてくれるなら、それでいい』って」
湊の中で、何かが軋んだ。
それは、凪らしい言葉だった。誰よりも凪らしい。けれど、その言葉の裏側にあるものを、湊は初めて正面から突きつけられた気がした。
* * *
沙耶は数ヶ月かけて回復した。大学にも復学した。
「良かった、と思ったんです、私たちは」
紬の声が、わずかに硬くなった。
「でも、沙耶さんは、復学してすぐ、凪さんと距離を置き始めました」
「距離を」
「最初は、忙しいのかなって思っていたそうです。でも、だんだん連絡が来なくなって、キャンパスで会っても、目を逸らされるようになって」
凪は理由がわからないまま、それでも沙耶を気にかけ続けた。何度かメッセージを送った。「無理しないでね」「いつでも話聞くから」。返事はなかった。
そして、ある日。
「サークルの新歓の帰り道で、偶然会ったそうです。凪さんが声をかけたら、沙耶さんは、初めて振り返って」
紬は、ここで一度、深く息を吸った。
「『全部あなたのせいだから』って、言われたそうです」
カフェの中の音が、湊の耳から一瞬遠のいた。
「凪さんに寄りかかりすぎて、自分が自分でいられなくなった。だから、離れないと駄目になる。それを、凪さんのせいにして、言ったんだと思います」
「沙耶さんは、その後」
「わかりません。凪さんも、それきり連絡が取れなくなったと言っていました」
湊は、そこに何も足すことができなかった。沙耶という人物を悪く思う気持ちも、同情する気持ちも、どちらも中途半端にしか湧いてこなかった。ただ、誰も悪くないのに、誰も救われなかった、という事実だけが、重く残った。
* * *
「凪さんは、それから、変わりました」
紬は、テーブルの上で両手を組んだ。
「誰かを助けても、救えるとは限らない。そのことを、身をもって知ってしまったんだと思います」
「それでも」湊は、声を絞り出すようにして言った。「凪は、変わらなかったんじゃないですか。人の相談に乗る癖は」
紬は、少し驚いたような顔をした。それから、静かにうなずいた。
「そうです。むしろ、増えました」
「なぜ」
「凪さんは、こう言っていました。『助けるのをやめたら、沙耶にひどいことをしたことになる気がする』って」
湊は、拳を膝の上で握った。
助けても報われず、助けるのをやめることもできない。凪はその狭い場所に、たった一人で立ち続けていたのだと、湊はようやく理解した。
「凪さんは、誰かを助け続けることでしか、自分を保てなくなっていたんだと思います。皮肉ですけど」
紬の声には、責めるような響きはなかった。ただ、静かな悔しさが滲んでいた。
「私は、それに気づいていました。でも、止められませんでした」
「なぜ、止めなかったんですか」
湊は、聞くつもりのなかった問いを、口にしていた。
紬は、しばらく黙っていた。カップの中の、冷めたコーヒーの表面をじっと見つめていた。
「止めたら」
紬の声が、初めてわずかに震えた。
「凪さんが、私からも離れていく気がしたからです」
その一言に、湊は言葉を失った。
それは、湊自身が七年間、凪に対して抱いていた恐れと、同じ形をしていた。
聞いてしまえば、何かが壊れる。踏み込んでしまえば、離れていく。
誰もが、凪を大切に思うあまり、凪の本当のところに触れられなかった。
紬も。
自分も。
* * *
カフェを出たあと、湊は一人で歩いた。夏の日差しが、アスファルトの上で揺らいでいる。
沙耶という女性が、今どこで何をしているのか、湊にはわからない。もしかしたら、彼女自身も、あの言葉を今でも悔いているのかもしれない。誰かを傷つけたことに、気づいているのかもしれない。それとも、まだ気づいていないのかもしれない。
湊には、確かめようがなかった。
ただ一つわかったのは、凪の優しさは、誰かを救うための道具ではなかった、ということだった。
それは、凪自身が、自分の場所を保つための、たった一つのやり方だった。
誰かの重さを引き受けることでしか、自分がここにいていい理由を、見つけられなかったのかもしれない。
湊は、ふと足を止めた。
自分は、凪に対して、同じことをしていなかっただろうか。
妹の異変に気づきながら、聞かなかった。踏み込まなかった。それは優しさだったのか、それとも、自分自身が壊れることを恐れていただけなのか。
答えは出なかった。
湊は、駅に向かって、また歩き出した。
空には、まだ日が高く残っていた。月の姿は、どこにも見えなかった。




