第三章 ふたりだった頃
紬と別れた夜、湊はいつもと違う駅で降りた。理由はなかった。ただ、まっすぐ家に帰る気になれなかった。
コンビニの前のベンチに座り、缶コーヒーを開ける。一口飲んで、そのまま手に持ったまま、湊はしばらく動かなかった。
記憶というのは、不思議なものだと思う。普段は鍵のかかった引き出しの奥にしまってあるのに、何かのきっかけで、勝手に蓋が開く。今夜は、紬の言葉がその鍵になった。
湊は目を閉じた。
* * *
高校二年の冬、母が死んだ。
病名は聞かされていたが、湊にはあまり実感がなかった。母はずっと入退院を繰り返していて、家にいないことのほうが多かった。だから、母がいなくなるということが、湊にとっては「またしばらく会えない」ことの延長線上にしかなかった。
葬儀の日、凪はずっと泣いていた。親戚の誰かに抱きかかえられるようにして、それでも泣き止まなかった。
湊は、隣で立っていた。涙は出なかった。
「湊くんはしっかりしてるね」
親戚の誰かが、湊の頭を撫でながらそう言った。悪気のない言葉だった。けれど、湊はその言葉を聞いた瞬間、何かが体の中で固まっていくのを感じた。
しっかりしている。
そう言われた以上、崩れるわけにはいかない。
その夜、二人の部屋で、凪が布団の中から聞いてきた。
「お兄ちゃんは、泣かないの」
「泣くこと、あるのかな」
湊は本当にそう思っていた。悲しくないわけではなかった。ただ、涙という形で外に出す回路が、自分にはないような気がしていた。
「わたし、いっぱい泣いた」
「知ってる」
「お兄ちゃんの分まで泣いたから、もういいよ」
凪はそう言って笑った。冗談のつもりだったのだろう。湊も少し笑った。
けれど、その一言は、その後何年も湊の中に残り続けた。
* * *
母がいなくなってから、父はさらに無口になった。
地方公務員の父は、平日は朝早く出て、夜遅くに帰ってくる。休日も、書斎にこもって書類仕事をしていることが多かった。
夕食の席で、父が口にする言葉は決まっていた。
「頑張ってるか」
それだけだった。愛情がないわけではない、と湊は今ならわかる。ただ、父はその先の言葉を持っていなかった。頑張っているか、という問いかけの向こうに、何を言えばいいのか、父自身がわからなかったのだと思う。
湊も凪も、「頑張ってる」と答えた。それ以上、何かを聞かれることはなかった。
父に言えないことは、増えていった。成績のこと。将来のこと。母がいなくなってからの、うまく言葉にできない気持ちのこと。それらを話せる相手は、家の中では、結局のところ湊と凪、互いだけだった。
* * *
高校生の頃の記憶は、断片的に湊の中に残っている。
夜中のコンビニ。テスト前、二人でこっそり家を抜け出して、肉まんを買いに行った夜。凪はいつも、あんまんと肉まん、両方買っては、半分こにしようと言った。湊はいつも、あんまんの方を凪に譲った。
雨の日の傘。忘れっぽい凪のために、湊はいつも折り畳み傘を鞄に入れていた。凪が傘を忘れて濡れて帰ってくるたび、湊は黙って自分の傘を差し出した。
「お兄ちゃんが濡れるじゃん」
「俺は、いい」
凪はいつも不満そうな顔をしながら、結局傘を受け取った。
海。夏休み、自転車で三十分かけて行った海岸。凪は毎年同じことを言った。
「東京の海と、島の海、どっちが好き?」
「島」
湊はいつも即答した。理由を聞かれたことはなかったが、答えはいつも同じだった。静かだから。人が少ないから。何より、あの海には、母と一緒に行った記憶がある。
* * *
大学に上がってから、二人の生活は少しずつ離れていった。
湊は東京の大学に進学し、出版社を目指して就職活動をした。凪も東京の大学に進んだが、学部は違った。住む場所も別々だった。それでも、月に一度は必ず二人で食事をした。
凪はいつも先に店を決めて、湊を呼び出した。
「お兄ちゃん、今度この店行こうよ」
そうやって呼び出された店の一つに、二人がよく使う居酒屋があった。ある夜、そこの座敷で、店員に頼んで二人の写真を撮ってもらおうとしたことがあった。湊がスマートフォンを店員に渡し、隣に座り直すと、凪はすっと体を横にずらした。
「凪、真ん中来なよ」
「いいよ、お兄ちゃんだけで」
「なんでだよ」
「別に。写真、苦手なだけ」
凪は笑いながらそう言って、結局、店員が撮ったのは湊が一人で写った写真だった。凪はその隣で、フレームの外からピースサインをしていた。
次に会ったときも、同じことがあった。友人たちとの飲み会に混ざったとき、誰かが集合写真を撮ろうと言い出した。凪は真っ先にスマートフォンを構える側に回り、シャッターを押す役を買って出た。
「凪も入りなよ」
「わたし撮る係でいいって」
湊はそのとき、少しだけ引っかかった。けれど、深く聞かなかった。
「凪の写真、そういえば一枚もないな」
「撮るなら景色にして」
凪はそう言って、話を変えるように窓の外を指差した。夕暮れの空が、オレンジ色に染まっていた。
湊はそれ以上、聞かなかった。妹の些細な癖の一つだと思っていた。
今思えば、それが最初の兆候だったのかもしれない。
けれど、当時の湊には、そこに気づく余裕がなかった。
* * *
大学二年の夏、二人で双月島に帰ったことがある。
母の三回忌だった。父は仕事で来られず、代わりに母方の伯母と三人で島に渡った。伯母は法要の準備で忙しく動き回っていたので、法要の合間、湊と凪の二人だけで過ごす時間もそれなりにあった。
フェリーの甲板で、凪は海風に吹かれながら、髪を押さえていた。
「久しぶりだね、島」
「うん」
「変わってないね」
「うん」
二人とも、それ以上の言葉はいらなかった。フェリーのエンジン音と、波の音だけが、しばらく二人の間を埋めていた。
島に着くと、商店街のおばあさんたちが「湊くん、凪ちゃん」と口々に声をかけてきた。二人が子供の頃から、島の人たちはずっと変わらず二人を見守ってくれている。
神社に参り、母の墓に手を合わせ、夜は防波堤に座って花火を見た。小さな、島の夏祭りの花火だった。都会のもののように派手ではないが、静かで、長く尾を引く光だった。
「お母さん、見てるかな」花火を見上げながら、凪が言った。
「見てるんじゃない」
「お兄ちゃんは、そういうの信じるタイプだっけ」
「信じたいだけ」
凪は少し笑って、湊の肩に頭をもたせかけた。
「二人でよかった」
湊は何も言わず、ただ頷いた。
* * *
東京に戻ってからも、しばらくは変わらない日々が続いた。
凪は就職活動を始め、湊は編集者としての一年目を迎えた。忙しさに追われる中で、二人の食事の頻度は少しずつ減っていった。それでも、電話やメッセージは続いていた。
ある夜、湊のスマートフォンに凪からメッセージが届いた。
「今度いつ会える?」
湊はその日、締め切りに追われていた。返信は簡潔だった。
「来月落ち着いたら」
「了解!」
スタンプが一つ返ってきた。笑っているキャラクターのスタンプだった。
それが、その週の最後のやり取りだった。
次に凪から連絡が来たのは、数日後の深夜だった。
「起きてる?」
湊はそのとき、すでに眠っていた。気づいたのは、翌朝だった。
「ごめん、寝てた。どうした?」
既読はついたが、返事はなかった。
湊はそれを、忙しいのだろう、と思った。深く考えなかった。
その夜、凪が何を言おうとしていたのか、湊は今もわからない。
* * *
湊が凪の異変に、はっきりとした形で気づいたのは、その年の秋のことだった。
実家に一緒に帰った日、リビングで凪が一人、窓の外を見ながら座っているのを見た。
テレビはついていなかった。スマートフォンも手にしていなかった。ただ、じっと外を見ていた。
「どうした」
声をかけると、凪は少し遅れて振り返った。
「ううん、なんでもない」
いつもの笑顔だった。けれど、その笑顔が浮かぶまでに、ほんの一瞬、間があった。
湊はそれに気づいていた。気づいていながら、それ以上聞かなかった。
聞いてしまえば、何かが崩れる気がした。
その予感が正しかったのか、間違っていたのか、湊は今でもわからない。
* * *
缶コーヒーは、いつの間にか空になっていた。
湊はベンチから立ち上がり、空き缶をゴミ箱に入れた。
あの頃の記憶は、どれも柔らかく、あたたかい。けれど今、その記憶を辿るたびに、湊は違う角度から同じ景色を見ている自分に気づく。
あのとき、凪が見ていた窓の外には、何があったのだろう。
あのとき、凪が送ってきた「起きてる?」の向こうには、何があったのだろう。
湊は夜道を歩きながら、もう一つ、思い出したことがあった。
大学三年の冬、たった一度だけ、凪が一人で泣いているところを見た夜のことだった。
実家の廊下で、電気もつけずに、膝を抱えて座っていた。
「凪」
声をかけると、凪はすぐに顔を上げ、いつもの笑顔を作った。
「あ、お兄ちゃん。ちょっと考え事してた」
「大丈夫か」
「大丈夫」
その言葉を、湊は疑わなかった。
疑うことを、していなかった。
夜道の先に、湊のマンションの明かりが見えてきた。湊は足を止め、もう一度、夜空を見上げた。
雲が厚く、月は見えなかった。




