第二章 知らなかった妹
白石紬から二度目の電話がかかってきたのは、三日後の夜だった。
「会っていただけませんか」
今度は、湊は「今は」と言わなかった。
* * *
待ち合わせたのは、四谷にある古い喫茶店だった。紬が指定した店で、湊は一度も来たことがなかった。木製のドアを押すと、コーヒーの匂いと、低く流れるジャズに包まれる。
奥の席に、女性が一人座っていた。写真も見たことがないのに、湊はすぐにわかった。背筋の伸ばし方や、こちらを見る目の落ち着き方に、電話で聞いた声の印象がそのまま重なっていた。
「向坂さん」
紬が立ち上がり、名刺を差し出した。仕草が驚くほど丁寧だった。
「白石紬です。突然、すみませんでした」
湊は名刺を受け取った。肩書のところに「心理士」とあるのを見て、なるほど、と思う。この丁寧さは、職業柄なのか、それとも彼女自身の性格なのか。判別はつかなかった。
湊は名刺をしまい、向かいに座った。ホットコーヒーを二つ、店員に告げる。それだけの時間、二人とも何も言わなかった。
沈黙は嫌いではなかった。むしろ湊は、言葉より沈黙のほうが信用できる人間だった。
「凪さんとは、大学で」紬が先に口を開いた。「同じサークルでした。心理学研究会という、名前だけは立派な、実際はただの飲み会サークルです」
湊はコーヒーカップに口をつけた。まだ熱くて、飲めなかった。
「凪さんの話、していいですか」
「……はい」
「明るい人でした。誰とでもすぐ仲良くなって。サークルの新歓では、いつも凪さんの周りに人が集まってました」
それは、湊の知っている凪と同じだった。子供の頃からそうだった。凪がいる場所には、いつも人が集まる。湊がいる場所には、いつも静けさがあった。
「でも」
紬が言葉を切った。カップを両手で包むように持ち、湯気を見つめる。
「夜になると、よく一人で泣いていました」
湊はカップを持つ手を止めた。
「え」
「毎日ではないです。でも、月に何度か。サークルの飲み会の帰り道とか、レポートの締め切り前とか。理由を聞いても、『大丈夫』としか言いませんでした」
「大丈夫」
湊は、その言葉を口の中で繰り返した。それは、湊自身の口癖だった。妹が同じ言葉を使っていたことに、湊は今、初めて気づいた。
「知りませんでした」
声が、自分でも驚くほど掠れていた。
「そんな話、一度も」
紬は、湊の顔を見た。責める色はなかった。むしろ、それを予想していたような、静かな目だった。
「凪さんはお兄さんには絶対に言わないって、決めてました」
「なぜ」
「『心配させたくないから』って」
その一言が、湊の胸の奥にゆっくりと落ちていった。石を水に落としたときのように、波紋が広がって、しばらく消えない。
「凪さんは、いつも言っていました。お兄ちゃんは私がいなくても大丈夫、私はお兄ちゃんがいないと駄目、って」
「そんなこと」
湊は言いかけて、止めた。
本当にそうだろうか。
子供の頃、母が亡くなったとき、真っ先に泣いたのは凪だった。湊は葬儀の間、ずっと黙っていた。周りの大人たちは、湊のことを「しっかりしている」「気丈だ」と褒めた。凪のことは、「泣き虫」「甘えん坊」と言った。
でも、あのとき本当に強かったのは、どちらだったのだろう。
「向坂さんは」紬が言った。「凪さんが最後にどんな大学生活を送っていたか、ご存じですか」
湊は首を振った。
「大学の話は、あまり」
「聞かなかった、ということですか。それとも、話してくれなかった、ということですか」
湊は答えられなかった。両方だった気がする。忙しいことを理由に実家への連絡を減らしていたのは、湊のほうだった。凪から電話がかかってきても、「今忙しいから」と早々に切り上げていたことが、何度もあった。
「私は」紬が、初めてわずかに視線を落とした。「凪さんから、色々なことを聞いていました。でも、全部は言えません。それは、凪さんとの約束だったので」
「約束」
「はい。ある約束を、七年間、守っていました」
湊は、その言葉の重さに気づいた。約束という一言が、これほど重く聞こえたのは初めてだった。
「今日は、破ってきました」
紬はそう言って、鞄からノートを一冊取り出した。使い込まれた、少し表紙の色が褪せたノートだった。
「これは」
「まだ、渡せません」
紬はノートをテーブルの上に置いたまま、鞄には戻さなかった。ただ、湊の前には差し出さなかった。
「今日、お会いしたのは、これを渡すためではありません。まず、向坂さんに知ってほしかったんです。凪さんが、どんな大学生活を送っていたか」
湊は、ノートから目を離せなかった。
「教えてください」
紬は小さくうなずいた。
* * *
紬の話は、二時間近く続いた。
サークルでの凪。友人たちに囲まれ、よく笑い、誰かの相談に乗ってばかりいた凪。就職活動の時期、周りの誰よりも早く内定をもらいながら、それを喜ぶより先に、内定をもらえなかった友人の心配をしていた凪。
湊は、コーヒーを二杯おかわりした。どちらも、途中で冷めた。
「凪さんは、優しい人でした」紬は言った。「でも、優しいというより……自分を後回しにする人でした。誰かが困っていると、自分のことは全部脇に置いて、そっちを優先してしまう」
「それは」
「美点だと、みんな思っていました。私も、最初はそう思っていました」
紬の声が、初めてわずかに揺れた。
「でも、後になって気づいたんです。あれは、優しさというより……逃げだったんじゃないかって」
「逃げ」
「誰かの悩みを聞いている間は、自分の悩みを見なくていい。そういう時間の使い方をしていた気がします、今思うと」
湊は何も言えなかった。ただ、紬の話を聞きながら、頭の中で凪の姿を思い出そうとしていた。実家に帰ってきたときの凪。電話越しの凪。最後に会った日の凪。
その全部が、急に、見知らぬ誰かの記憶のように感じられた。
「私は、力になれませんでした」
紬がぽつりと言った。
「凪の一番近くにいたはずなのに」
湊は、その一言に、自分自身を重ねずにはいられなかった。
兄だったはずなのに。
双子だったはずなのに。
湊は、何も知らなかった。
* * *
店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。夏の夜風が、湿気を含んで重く肌にまとわりつく。
「また、連絡してもいいですか」紬が言った。
「はい」
湊は反射的に答えていた。答えてから、自分がなぜそう言ったのか、少し考えた。
答えは、すぐに見つかった。
もう一度、あのノートを見たいと思ったからだ。
紬と別れ、駅に向かって歩きながら、湊はスマートフォンを取り出した。連絡先に、白石紬という名前が追加されている。その名前を見つめながら、湊は自分の中で何かが少しずつ動き出しているのを感じた。
止まっていたものが、動き出すのは、必ずしも心地よいことではない。
むしろ、痛みに近い感覚だった。
凍っていた場所に、久しぶりに血が通うときのような。
湊は、駅の改札を通る前に、一度だけ夜空を見上げた。
東京の空には、今夜も月は見えなかった。ビルの明かりが強すぎて、どこにあるのかもわからない。
けれど、湊は、初めてその見えない月の場所を、探そうとしている自分に気づいた。




