表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
双月  作者: 柳瀬 怜
PR
1/6

第一章 止まったままの時間

七月の東京は、朝から水の中にいるような湿度だった。


 向坂湊は、地下鉄の階段を上がりきったところで一度足を止め、シャツの襟元を指で引いた。汗が背中を伝う感覚には、もう驚かなくなっている。毎年この時期になると、体が勝手に身構える。理由を考えないようにしている。


 出版社のオフィスは八階にある。エレベーターの扉が開くと、後輩の関口が資料の束を抱えたまま小走りにやってきた。


「向坂さん、朝比奈先生の原稿、また真っ白で返ってきました」


「真っ白?」


「一文字も直ってないんです。付箋だけびっしり貼ってあって」


 湊は資料を受け取り、ぱらぱらとめくった。朝比奈遼という新人作家の原稿だった。デビュー作の評判は悪くなかったが、二作目がまるで進んでいない。今日で三度目の締め切り延長になる。


「先生、今どこにいる?」


「編集部には来ないみたいです。メールも返ってこなくて」


 湊は時計を見た。十時十五分。会議まで四十五分ある。


「行ってくる」


「え、今からですか」


「うん」


 関口が何か言いかけたが、湊はもう鞄を持ち直していた。人に頼るくらいなら自分で動いたほうが早い。昔からそうだった。誰かに迷惑をかけることのほうが、湊にとってはずっと重い。


* * *


 朝比奈は西荻窪のアパートに住んでいた。呼び鈴を三回鳴らして、ようやくドアが薄く開いた。無精髭を伸ばした男が、光を嫌うように目を細めてこちらを見た。


「……すみません」


「入っていいですか」


 部屋は本と紙で埋まっていた。テーブルの上には、書きかけの原稿が山になっている。どれも数行で止まっていた。


「書けないんです」湊が座る前に、朝比奈が先に言った。「何度書いても、嘘くさくなる」


「嘘くさい、というのは」


「主人公が、最後に立ち直るんです。プロットではそうなってる。でも、書いてて思うんです。人間ってそんな簡単に立ち直らないだろうって。書けば書くほど、自分が読者を騙してる気がしてくる」


 湊は原稿の一枚を手に取った。文字は丁寧だった。丁寧すぎて、どこか他人事のように整っていた。


「立ち直らせなくていいですよ」


 朝比奈が顔を上げた。


「治らなくていい。ただ、生きてればいい。それだけでいい話は、書けませんか」


 朝比奈はしばらく黙っていた。それから、机の上の原稿を一枚、また一枚とめくり始めた。何かを探しているようだった。


「向坂さんは」朝比奈が言った。「そういうこと、経験あるんですか」


 湊は少し間を置いて答えた。


「さあ、どうでしょう」


 嘘ではなかった。答えなかっただけだ。


* * *


 会社に戻ったのは正午過ぎだった。会議室で企画会議があり、湊は淡々と進行を務めた。誰も湊が朝から動き回っていたことに気づかない。それでいい、と湊は思う。気づかれないことが、うまくやれている証拠だと思っている。


 午後、デスクで校正紙に向き合っていると、スマートフォンが震えた。知らない番号だった。


 東京の局番でも、携帯番号でもない。見覚えのない市外局番。


 湊は少しの間、画面を見つめた。仕事の電話は基本的に会社の番号にかかってくる。私用の番号にかけてくる知人は限られている。心当たりがない番号を無視するのは簡単だった。実際、湊は何度もそうしてきた。


 けれど、その日に限って、指が勝手に応答のボタンに触れた。


「はい、向坂です」


 一拍、間があった。海の近くにいるような、風の音が混じった沈黙だった。


「……向坂湊さんですか」


 女性の声だった。落ち着いている。けれど、その落ち着き方が、少し不自然なくらい整えられていた。何かを何度も練習した人の声だった。


「そうですが」


「突然すみません。私、白石紬と申します。凪さんの……大学時代の、友人です」


 湊の手が止まった。校正紙の上に置いたままのペンが、紙の上でわずかに動いて、赤い線を一本、意味もなく引いた。


 凪。


 その名前を、他人の口から聞くのは、何年ぶりだろうか。


「凪さんのことで、お話があります」


 湊は何も言えなかった。周りの音が遠くなる。誰かのキーボードを叩く音。電話の呼び出し音。関口が誰かと笑っている声。それらがすべて、水の中で聞いているようにくぐもって届いた。


 七年間、誰もその名前を、湊の前で口にしなかった。


 父も、口にしない。


 編集部の誰も、知らない。


 湊自身も、口に出したことがない。


 まるで、口にした瞬間に何かが決定的に壊れてしまうとでもいうように、みんなでその名前を避けて生きてきた。


「……あの」


 声が掠れた。仕事用の声が出せなかった。


「今から、少しだけお時間いただけませんか。電話でもいいので」


 湊は窓の外に目をやった。七階下では、昼休みのサラリーマンたちが歩道を行き来している。誰もが当たり前のように、今日という日を歩いている。


「今は、ちょっと」


 言い訳のように出た言葉だった。本当は今日中に片付けなければいけない仕事などなかった。


「わかりました」白石紬は、責めるでもなく、ただそう言った。「また、かけ直してもいいですか」


「……はい」


 電話は切れた。


 湊はしばらくスマートフォンを見つめたまま動けなかった。画面には、通話時間「一分十二秒」とだけ表示されていた。


 たった一分十二秒で、七年間止めていた何かが、動き始めた気がした。


* * *


 その夜、湊は自宅マンションの奥の部屋のドアを、久しぶりに開けた。


 六畳の部屋には、段ボール箱が三つ積まれている。引っ越しのたびに運んできて、一度も開けていない箱だった。上に薄く埃が積もっている。


 湊はその部屋の電気をつけたまま、しばらく戸口に立っていた。


 中には、凪の荷物が入っている。スマートフォン。着なくなった服。読みかけの文庫本。手帳。写真は、一枚も入れていない。


 写真だけは、実家の父が保管している。湊は一枚も持っていない。


 持てなかった、という方が正しい。


 湊は結局、その日も箱を開けなかった。電気を消して、ドアを閉めた。


 台所に戻り、コーヒーを淹れる。マグカップに注いで、ダイニングテーブルに座る。仕事のメールを一通り確認する。返信を三件打つ。


 気づくと、コーヒーはすっかり冷めていた。一口も飲んでいなかった。


 湊はそれを、シンクに流した。


 こういうことが、この七年で何度もあった。何かを始めて、途中で止まる。飲みかけのコーヒー。読みかけの本。言いかけた言葉。


 湊の人生は、いつからか、最後まで辿り着かないものばかりになっていた。


* * *


 寝る前、湊は本棚から一冊の文庫本を取り出した。今年の春に買って、五十ページほど読んで、そのまま栞を挟んだままの小説だった。


 ページを開く。栞の場所から、数行読む。


 物語の主人公は、何かを探して旅をしている。誰かを失って、その理由を探している。


 湊は途中で本を閉じた。


 いつもそうだ。物語の続きが怖いわけではない。ただ、その先に何が書いてあっても、自分の答えにはならないと、どこかでわかっている。


 スマートフォンを見る。白石紬という名前は、まだ着信履歴に残っている。


 湊はその番号を、そっと指でなぞった。


 かけ直す勇気はなかった。


 けれど、消去することもできなかった。


 窓の外に、月は見えなかった。東京の空は、いつも明るすぎて、月がどこにあるのかよくわからない。


 湊は電気を消して、目を閉じた。


 七年間止まっていた時計の針が、今日、確かに一つ動いた。それだけは、わかっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ