第一章 止まったままの時間
七月の東京は、朝から水の中にいるような湿度だった。
向坂湊は、地下鉄の階段を上がりきったところで一度足を止め、シャツの襟元を指で引いた。汗が背中を伝う感覚には、もう驚かなくなっている。毎年この時期になると、体が勝手に身構える。理由を考えないようにしている。
出版社のオフィスは八階にある。エレベーターの扉が開くと、後輩の関口が資料の束を抱えたまま小走りにやってきた。
「向坂さん、朝比奈先生の原稿、また真っ白で返ってきました」
「真っ白?」
「一文字も直ってないんです。付箋だけびっしり貼ってあって」
湊は資料を受け取り、ぱらぱらとめくった。朝比奈遼という新人作家の原稿だった。デビュー作の評判は悪くなかったが、二作目がまるで進んでいない。今日で三度目の締め切り延長になる。
「先生、今どこにいる?」
「編集部には来ないみたいです。メールも返ってこなくて」
湊は時計を見た。十時十五分。会議まで四十五分ある。
「行ってくる」
「え、今からですか」
「うん」
関口が何か言いかけたが、湊はもう鞄を持ち直していた。人に頼るくらいなら自分で動いたほうが早い。昔からそうだった。誰かに迷惑をかけることのほうが、湊にとってはずっと重い。
* * *
朝比奈は西荻窪のアパートに住んでいた。呼び鈴を三回鳴らして、ようやくドアが薄く開いた。無精髭を伸ばした男が、光を嫌うように目を細めてこちらを見た。
「……すみません」
「入っていいですか」
部屋は本と紙で埋まっていた。テーブルの上には、書きかけの原稿が山になっている。どれも数行で止まっていた。
「書けないんです」湊が座る前に、朝比奈が先に言った。「何度書いても、嘘くさくなる」
「嘘くさい、というのは」
「主人公が、最後に立ち直るんです。プロットではそうなってる。でも、書いてて思うんです。人間ってそんな簡単に立ち直らないだろうって。書けば書くほど、自分が読者を騙してる気がしてくる」
湊は原稿の一枚を手に取った。文字は丁寧だった。丁寧すぎて、どこか他人事のように整っていた。
「立ち直らせなくていいですよ」
朝比奈が顔を上げた。
「治らなくていい。ただ、生きてればいい。それだけでいい話は、書けませんか」
朝比奈はしばらく黙っていた。それから、机の上の原稿を一枚、また一枚とめくり始めた。何かを探しているようだった。
「向坂さんは」朝比奈が言った。「そういうこと、経験あるんですか」
湊は少し間を置いて答えた。
「さあ、どうでしょう」
嘘ではなかった。答えなかっただけだ。
* * *
会社に戻ったのは正午過ぎだった。会議室で企画会議があり、湊は淡々と進行を務めた。誰も湊が朝から動き回っていたことに気づかない。それでいい、と湊は思う。気づかれないことが、うまくやれている証拠だと思っている。
午後、デスクで校正紙に向き合っていると、スマートフォンが震えた。知らない番号だった。
東京の局番でも、携帯番号でもない。見覚えのない市外局番。
湊は少しの間、画面を見つめた。仕事の電話は基本的に会社の番号にかかってくる。私用の番号にかけてくる知人は限られている。心当たりがない番号を無視するのは簡単だった。実際、湊は何度もそうしてきた。
けれど、その日に限って、指が勝手に応答のボタンに触れた。
「はい、向坂です」
一拍、間があった。海の近くにいるような、風の音が混じった沈黙だった。
「……向坂湊さんですか」
女性の声だった。落ち着いている。けれど、その落ち着き方が、少し不自然なくらい整えられていた。何かを何度も練習した人の声だった。
「そうですが」
「突然すみません。私、白石紬と申します。凪さんの……大学時代の、友人です」
湊の手が止まった。校正紙の上に置いたままのペンが、紙の上でわずかに動いて、赤い線を一本、意味もなく引いた。
凪。
その名前を、他人の口から聞くのは、何年ぶりだろうか。
「凪さんのことで、お話があります」
湊は何も言えなかった。周りの音が遠くなる。誰かのキーボードを叩く音。電話の呼び出し音。関口が誰かと笑っている声。それらがすべて、水の中で聞いているようにくぐもって届いた。
七年間、誰もその名前を、湊の前で口にしなかった。
父も、口にしない。
編集部の誰も、知らない。
湊自身も、口に出したことがない。
まるで、口にした瞬間に何かが決定的に壊れてしまうとでもいうように、みんなでその名前を避けて生きてきた。
「……あの」
声が掠れた。仕事用の声が出せなかった。
「今から、少しだけお時間いただけませんか。電話でもいいので」
湊は窓の外に目をやった。七階下では、昼休みのサラリーマンたちが歩道を行き来している。誰もが当たり前のように、今日という日を歩いている。
「今は、ちょっと」
言い訳のように出た言葉だった。本当は今日中に片付けなければいけない仕事などなかった。
「わかりました」白石紬は、責めるでもなく、ただそう言った。「また、かけ直してもいいですか」
「……はい」
電話は切れた。
湊はしばらくスマートフォンを見つめたまま動けなかった。画面には、通話時間「一分十二秒」とだけ表示されていた。
たった一分十二秒で、七年間止めていた何かが、動き始めた気がした。
* * *
その夜、湊は自宅マンションの奥の部屋のドアを、久しぶりに開けた。
六畳の部屋には、段ボール箱が三つ積まれている。引っ越しのたびに運んできて、一度も開けていない箱だった。上に薄く埃が積もっている。
湊はその部屋の電気をつけたまま、しばらく戸口に立っていた。
中には、凪の荷物が入っている。スマートフォン。着なくなった服。読みかけの文庫本。手帳。写真は、一枚も入れていない。
写真だけは、実家の父が保管している。湊は一枚も持っていない。
持てなかった、という方が正しい。
湊は結局、その日も箱を開けなかった。電気を消して、ドアを閉めた。
台所に戻り、コーヒーを淹れる。マグカップに注いで、ダイニングテーブルに座る。仕事のメールを一通り確認する。返信を三件打つ。
気づくと、コーヒーはすっかり冷めていた。一口も飲んでいなかった。
湊はそれを、シンクに流した。
こういうことが、この七年で何度もあった。何かを始めて、途中で止まる。飲みかけのコーヒー。読みかけの本。言いかけた言葉。
湊の人生は、いつからか、最後まで辿り着かないものばかりになっていた。
* * *
寝る前、湊は本棚から一冊の文庫本を取り出した。今年の春に買って、五十ページほど読んで、そのまま栞を挟んだままの小説だった。
ページを開く。栞の場所から、数行読む。
物語の主人公は、何かを探して旅をしている。誰かを失って、その理由を探している。
湊は途中で本を閉じた。
いつもそうだ。物語の続きが怖いわけではない。ただ、その先に何が書いてあっても、自分の答えにはならないと、どこかでわかっている。
スマートフォンを見る。白石紬という名前は、まだ着信履歴に残っている。
湊はその番号を、そっと指でなぞった。
かけ直す勇気はなかった。
けれど、消去することもできなかった。
窓の外に、月は見えなかった。東京の空は、いつも明るすぎて、月がどこにあるのかよくわからない。
湊は電気を消して、目を閉じた。
七年間止まっていた時計の針が、今日、確かに一つ動いた。それだけは、わかっていた。




