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冤罪令嬢、罪人都市の領主になる  作者: 野塩いぜ


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第9話 侵入者

 その夜、ロゼリアは眠れずにいた。


 明日、常罪区に行く。ヒルダの懇願を受けて決めたことだ。だが決めたからといって、不安が消えるわけではない。常罪区について分かっていることはほとんどない。テオドアの断片的な証言と、シグベルの警告と、帳簿に存在しない空白。


 執務室の灯りを落とさないまま、ロゼリアは机に向かっていた。常罪区の概要をまとめた覚書を読み返している。テオドアが用意してくれたものだ。区画の広さ、住民の概数、贖罪労働の種類。数字は少ない。数字が少ないということ自体が、この場所の実態を物語っていた。


 屋敷は静まり返っている。テオドアもヒルダも下がり、厨房の明かりも消えている。窓の外は闇。月はあるが薄く、屋敷の庭を仄かに照らすだけ。


 不意に、廊下の向こうで音がした。


 ロゼリアの手が止まる。


 かすかな音。物がぶつかるような、あるいは何かを押し開けるような。風か、と一瞬思った。だがこの屋敷の扉は重い。風程度では動かない。


 息を殺して耳を澄ませた。もう一度。今度は足音だ。忍んでいるが、完全には消せていない。石の床を踏む、かすかな擦れ。


 誰かがいる。


 ロゼリアは静かに椅子を引いた。灯りを手に取ろうとして、やめた。灯りは自分の位置を知らせるだけだ。代わりに、机の端に置いてあった文鎮を握る。ずしりと重い鉄の塊。武器と呼ぶには頼りないが、何もないよりはましだ。


 扉を開け、暗い廊下へと踏み出した。月明かりが窓から細く差し込んでいるだけで、廊下の先は闇に沈んでいる。


 シグベルの声が頭をよぎった。


 ――次の葬儀は、あなたのものかもしれません。


 あれは忠告だったのか、予言だったのか。今まさに、その言葉が現実味を帯びている。物資庫の一件で衛兵を敵に回した。恨みを持つ人間はいる。あるいは——シグベルが言った『外から火をつける者』が、もう動いているのか。


 廊下を数歩進んだところで、横の扉が音もなく開いた。


 心臓が跳ねた。


「ロゼリア様」


 囁く声はギフティオのものだった。暗がりの中、黒い髪が闇に溶けている。その手に握られているものを見て、ロゼリアは息を呑んだ。


 包丁だ。


 厨房の包丁。刃渡りの長い、肉を捌くためのもの。ギフティオはそれを右手に下げ、左手でロゼリアを制するように掌を向けている。声は静かだったが、その目は笑っていなかった。ロゼリアが初めて見る、ギフティオの笑みのない顔。


「厨房の裏口から。……誰かいます」


 ロゼリアは頷いた。声を出さず、視線で先を促す。


 階段の上から、もう一つの影が降りてきた。テオドアだ。寝衣の上に上着を羽織っただけの姿だが、足取りに迷いがない。


「正面と二階の窓は確認しました。開いていません。侵入経路は厨房側のみです」


 テオドアの声も囁きだった。だがその中には冷静さがある。出入り口を全て確認し、逃げ道を塞ぐ。この男は追い詰め方を知っている。


 最後にヒルダが現れた。ロゼリアの傍に立ち、何も言わず、動かない。彼女の役割はそれだった。ロゼリアの傍を離れないこと。


 四人が廊下に集まった。暗闇の中、目と目で確認する。


 ギフティオが先頭に立った。包丁を持った手が、自然に体の横に下りている。構えてはいないが、いつでも動ける姿勢。こういう場面に慣れた人間の佇まいだった。


 ロゼリアはその背中を見ていた。普段は笑顔で料理を運んでくる男の背中が、今は全く別のものに見える。刃物を持って暗い廊下を歩くその姿は、料理人のそれではなかった。


 厨房に近づく。足音を殺す。ギフティオが壁に沿って進み、厨房の入口で立ち止まった。


 中から音がする。棚を探っている音。食料を物色しているのか。


 ギフティオがロゼリアを振り返った。目で合図する。入る、と。ロゼリアが頷いた。


 ギフティオが厨房に踏み込んだ。


「動くな」


 低い声。普段の柔らかさの欠片もない。


 厨房の奥で、影が弾かれたように跳ね上がった。棚の前にしゃがみ込んでいた人間が、立ち上がろうとして足をもつれさせ、壁にぶつかった。干し肉の束が棚から落ち、石の床に散らばる。


 テオドアが灯りを持ってきた。火が揺れ、厨房に影が走る。


 その光の中に浮かんだのは、ロゼリアが予想していたものとは違った。


 女だった。


 痩せて、汚れていて、衣服が破れている。目の下に深い隈があり、頬がこけている。だが、それ以外は——ひどく普通だった。ぎらついた目をした凶漢でもなければ、鍛えた体の刺客でもない。どこかの市場ですれ違っても、誰の記憶にも残らないような、穏やかな顔立ちの女性。


 その女が、壁に背をつけて震えていた。


 ギフティオの包丁を見ている。刃に灯りが反射し、女の瞳にちらちらと光が揺れる。恐怖で口が半開きになっている。声が出ていない。


「……っ」


 何か言おうとしている。だが声にならない。


 ロゼリアは一歩前に出た。ギフティオの横を通り、女に近づく。


「ロゼリア様」


 ヒルダの声が背後から飛んだ。警告。だがロゼリアは足を止めなかった。彼女に武器はない。暴力の気配もない。ただ怯えている。怯えて、何かを言おうとしている。


「どなたですか?」


 ロゼリアの声は、自分でも驚くほど冷静だった。あるいは、相手が怯えすぎているから、こちらが落ち着かなければならないと本能的に感じたのかもしれない。


 女の唇が動いた。喉が引きつるように震え、掠れた声がようやく漏れる。


「領主に……話を、聞いて……ほしい」


 その言葉が落ちた瞬間、厨房の空気が変わった。


 殺しに来たのではない。奪いに来たのでもない。彼女は――助けを求めに来たのだ。


 ロゼリアは女の前に膝をつき、文鎮を床に置く。


「聞きます。だからまず、名前を教えてください」


 女は数度瞬きをした。信じられない、という顔。自分の言葉が通じたことに驚いているように見えた。


「……カーラ」


 小さな声だった。


「カーラ。常罪区から……来ました」


 ロゼリアの背後で、ヒルダが息を呑む音が聞こえた。


***


 カーラを応接室に運んだ。自力で歩けはしたが、足取りがおぼつかない。長い距離を走ってきたのか、あるいは走る前から体が限界に近かったのか。


 テオドアがレインを呼びに走った。夜中だったが、診療所の灯りは点いていた。あの男は眠らないのだろうか。


 レインは寝衣でもなければ急いだ様子もなく、自然な足取りで屋敷に入ってきた。カーラを一瞥し、すぐに処置を始めた。


「衰弱。打撲が数ヶ所。足の裏が擦り剥けている。……走ってきたのでしょう。裸足で」


 靴を履いていなかったのか。ロゼリアは今さらそのことに気づいた。常罪区から屋敷まで、裸足で。


「死にはしません。ただ、しばらくはまともに動けないでしょう」


 レインは手当てを終え、使った布を片付けながら言った。ロゼリアを見もしない。患者がいるから――それだけの理屈で、彼は来る。


「レイン」

「はい」

「……ありがとうございます」


 レインは一瞬だけこちらを見た。それから「水分を切らさないように」とだけ言い残し、診療所へ戻っていった。


***


 カーラの意識がはっきりとしたのは、それからしばらく後のことだった。


 応接室の長椅子に横たえられ、ヒルダが毛布をかけていた。ロゼリアは向かいの椅子に座り、テオドアは壁際に立っている。ギフティオが厨房に下がったのは、つい先ほどのことだ。


 カーラが目を開けた。天井を見て、それから壁を見て、最後にロゼリアを見た。


「……ここは」

「領主の屋敷です。あなたが来たかった場所ですよ」


 ロゼリアが穏やかに言うと、カーラはぼんやりと頷いた。まだ意識が完全には戻りきっていないらしい。


 そこに、厨房から足音がした。


「お目覚めですか。よろしければ、温かいものを」


 ギフティオが盆を手に入ってきた。湯気の立つスープと、柔らかく焼いたパン。夜中に即席で用意したにしては、丁寧な仕上がりだった。


 ギフティオはにこやかに盆をテーブルに置き、カーラに差し出した。


 カーラがスープの椀を手に取ろうとした。その手が、途中で止まった。


 カーラの目がギフティオの顔を捉えていた。さっぱりとした黒髪。人の良さそうな笑み。さっきまで包丁を握っていた手が、今はスープの盆を持っている。


 だが、カーラの目はそれとは別の何かを見ていた。この男の顔を、どこかで見たことがある。それも、ここではない場所で。もっと暗い、もっと——


「あ、あんた」


 声が震えていた。


「深罪区にいただろう」


 空気が凍る。


 ギフティオの笑顔が、一瞬だけ止まった。ほんの刹那。すぐにいつもの穏やかな表情に戻ったが、その一瞬の空白を、ロゼリアは見逃さなかった。


 深罪区。


 重い罪を犯した者が行く、この都市の最も深い場所。贖罪の労働の中でも最も過酷な、命がけの仕事に就かされる区画。ギフティオは、そこにいたのか。


 カーラが椀から手を引いた。体を起こし、長椅子の背にぶつかるほど後ずさる。目がギフティオを見ている。それは深罪区の人間に対する、生存本能から来る恐怖だった。


「大丈夫です。私はもうそちらの人間ではありません」


 ギフティオの声は穏やかだった。いつもの声。だが『そちらの人間』という言い方の中に、ロゼリアは聞いたことのない重さを感じた。そちら。深罪区。あの笑顔の男が、かつてそこにいた。


 カーラの怯えた目が、それを突きつけてくる。深罪区に送られるほどの罪人が作ったスープが、目の前にある。


 カーラはスープに手を伸ばさない。ギフティオの顔を見たまま、壁に張り付いている。


 沈黙が長くなった。


 ロゼリアは椅子から立ち上がる。テーブルに歩み寄り、カーラのために用意されたスープの椀を手に取った。


 一瞬、手が止まりかけた。


 ――この料理を作ったのは、深罪区にいた人間だ。


 その事実が、一瞬だけ指先を冷たくした。この屋敷に来た最初の朝を思い出す。ギフティオのスープを初めて口にしたときの、あのかすかな躊躇。あの時はまだ「使用人たちは罪人だ」という漠然とした認識しかなかった。今は違う。深罪区という、具体的な重さを持った言葉。


 だがロゼリアは、椀を口元に運んだ。


 スープを一口、飲む。


 温かかった。野菜の甘みが丁寧に引き出された、あの味。ギフティオの料理は、いつだってこうだ。誰のために作ったかなんて関係なく、美味しい。


「……美味しいですよ」


 ロゼリアはカーラに向かって言った。椀を差し出す。


 言葉ではなかった。説明でも説得でもない。自分の体で示しただけだ。この料理は安全だと。ギフティオを、自分は信じていると。


 カーラはしばらくロゼリアとギフティオを交互に見ていた。それから、おそるおそる手を伸ばした。椀を受け取る。一口。


 ……二口。


 震える手で、三口目を飲んだところで、カーラの目から涙がこぼれた。


 泣いているのに、スープを飲む手は止まらなかった。体が求めているのだ。温かいものを。人の手が作ったものを。


 ギフティオは何も言わず、静かに一歩下がった。その顔にはいつもの笑みが戻っていた。だがロゼリアには見えた。笑みの奥で、ギフティオの目がわずかに伏せられていたことを。


***


 スープを飲み終えたカーラが、ぽつりぽつりと話し始めた。


 テオドアが紙と筆記具を用意し、ロゼリアの隣に座った。ヒルダは少し離れた場所に立ち、黙って聞いている。ギフティオは厨房に下がった。カーラがギフティオの前では話しにくいだろうと察してのことだ。


「私は……物を盗んだから、ここに来ました」


 カーラは毛布を体に巻きつけたまま、視線を落として言った。おっとりした声だった。内容と声の調子が噛み合わない。


「盗み癖があるんです。小さい頃から。やめようと思っても、やめられなくて。捕まって、また盗んで、また捕まって。……何度目かで、ここに送られました」


 悪びれているのか、いないのか。どちらとも取れる声音だった。自分の罪を客観的に述べているが、反省の深さは読めない。ただ事実として、自分はそういう人間なのだと言っている。


「常罪区では、昼は贖罪の労働をしています。布を織ったり、薬品の調合を手伝ったり。私は手先が器用だったから、細かい作業の班に入れられて……」


 カーラの声が、少しだけ小さくなった。


「……半年くらい前から、夜も集められるようになりました」


 隣で、テオドアの筆が止まった。


「夜?」

「はい。門が閉まった後に、仕切り役の人間が迎えに来るんです。決まった場所に連れて行かれて、昼間と同じような調合の作業をさせられる。でも、作っているものが違う」

「何を作っているのですか?」

「……ソルミナ、って呼ばれてました」


 聞き覚えのない名前だった。ロゼリアはテオドアに視線を送ったが、テオドアも首を横に振った。


「飲むと元気が出るんです。体が楽になって、疲れが取れる。昼間の労働がきつくて動けない人が、ソルミナを飲むとまた働ける。……最初はありがたかったです。本当に」


 カーラの声が震えた。


「でも、止められると辛いんです。体がだるくなって、頭が重くなって。一日でも飲まないと、次の日の労働がまともにできない。そうなると仕切り役に怒られる。だから飲む。飲むために夜も働く。夜働くから昼がきつくなる。昼がきつくなるからまた飲む。……ずっと、その繰り返しで」


 ロゼリアは黙って聞いていた。歯車が見えた。ソルミナが労働力を維持する。同時にソルミナが労働力を縛る。供給を握る者が、人を握る。


「仕切り役というのは、誰ですか?」


 カーラが一瞬だけ顔を上げた。怯えが走った。名前を口にすることへの恐怖。だが——もう後には引けないことも、彼女は分かっているのだろう。裸足で夜の街を走って、逃げてきた。ここまで来て黙るという選択肢は、もう残っていない。


「……ドルグ、という男です」


 テオドアの筆が紙の上を走った。


「常罪区で一番長くいる人間です。衛兵とも繋がりがあって、労働班の編成にも口を出す。ドルグに逆らうと、労働班を外されたり、配給を減らされたり。……ひどい時は、深罪区に落とすよう衛兵に進言することもあると」


「衛兵が、住民の進言で他の住民の区画を変えられるのですか?」

「建前では衛兵とシグベル様の判断ですけど……実際は、そうらしいです」


 ロゼリアの中で、常罪区の構図が形を結び始めていた。衛兵は労働の監督だけをしている。暮らしには手を出さない。その空白を、ドルグという男が埋めている。衛兵も、面倒な内部調整をドルグに委ねている。ドルグは住民を仕切り、ソルミナで縛り、逆らう者を深罪区の恐怖で黙らせる。


「それで……あなたは、なぜ逃げてきたのですか」


 カーラが目を伏せた。長い沈黙。それから、声に苦さを滲ませて言った。


「……盗んだんです」

「盗んだ?」

「ソルミナを。作ったものの一部を、こっそり抜き取って。……私の癖で。目の前に盗れるものがあると、手が出てしまうんです。分かっていても。何度もやめようと思っても」


 窃盗の常習犯が、闇の品を盗んだ。彼女の罪が、彼女自身を追い詰めている。


「バレました。ドルグの手下に見つかって……次は深罪区に落とすと言われました」


 カーラの声が途切れた。深罪区。命がけの労働。あそこに落とされたら、もう戻れない。


「それで、怖くなって……走りました。夜、門の衛兵が少ないうちに。外縁区を抜けて、ここまで」

「なぜ、この屋敷に?」


 カーラが顔を上げた。恐怖と疲弊に削られているが、根にある穏やかさは消えていない。


「……噂を聞いたんです。外縁区で、配給を正してくれた領主がいるって。帳簿のズレを見つけて、衛兵に立ち向かったって。もしかしたら……話を聞いてくれるかもしれないと思って」


 その言葉が、ロゼリアの胸に刺さった。


 自分が外縁区でやったことが、常罪区にまで届いていた。それが彼女を、真夜中に裸足で走らせた。


「カーラ」

「はい」

「盗んだものは、持っていますか」


 カーラが一瞬だけ迷った。それから、破れた衣服の内側に手を入れ、小さな布袋を取り出した。おそるおそる、テーブルの上に置く。


 ロゼリアが布袋を開いた。


 中に入っていたのは、粉末と、いくつかの乾燥した粒だった。粉末は微かに甘い匂いがする。そして粒は——


 ロゼリアの指が止まった。


 乾燥した表面。不思議な色合い。


 引き出しの中にある、あの粒と同じだ。ルカの香辛料に混じっていた、正体不明の木の実。あれと、同じ。


 ……同じもの。


 ロゼリアは息を止めた。頭の中で、何かが繋がりかけた。だがその繋がりの先にあるものにそっと蓋をした。今は、まだ。


「テオドア」

「はい」

「彼女を、屋敷で預かります」


 テオドアの表情は動かなかった。ただ、ごくわずかに頷いた。この判断が何を意味するか、老家令には分かっているだろう。常罪区から人間が逃げた。仕切り役はいずれ気づく。逃げた先が領主の屋敷だと分かれば——。


「ロゼリア様」


 ヒルダの声がした。振り返ると、ヒルダの目はカーラではなくロゼリアを見ていた。


「この女を匿うということは、常罪区に手を出すということです。……それは覚悟の上ですか」


 ロゼリアはヒルダの目を見た。


「明日、常罪区に行くと決めたのは私です。この人が来たことで、行く理由が一つ増えただけ」


 ヒルダは何も言わなかった。その目に浮かんでいたものを、ロゼリアは正確には読み取れなかった。安堵か、覚悟か。あるいは、自分の教え子と同じ場所から逃げてきたカーラに対する、もっと個人的な何か。


「カーラ」


 ロゼリアは振り返った。


「あなたはしばらくこの屋敷に。常罪区に戻る必要はありません」


 カーラは数回目を瞬いた。それから小さく頷く。


「……盗み癖があるんですけど、いいんですか」

「構いません。返してくれるなら」


 ロゼリアはそう言い切ってから窓の外を見た。夜はまだ深い。だが、東の空のどこかで、かすかに色が変わり始めているような気がした。


 明日——いや、もう今日か。常罪区に行く。


 カーラの証言を裏付けに行くのだ。ドルグという名前。ソルミナという薬。夜間の労働。テオドアの覚書にはどれも載っていなかった情報。そして——あの粒のこと。


 引き出しの中の粒と、カーラが持ち込んだ粒。同じもの。それが何を意味するのか。


 考えは、まだ形にならない。形にするのが怖いのかもしれない。


 ロゼリアは窓辺に立ち、常罪区の方角を見つめた。暗い空の下、灰色の屋根並みは闇に沈んで見えない。だが、そこに人がいる。ドルグに仕切られ、ソルミナに縛られ、声を上げられずにいる人間がいる。カーラと同じように逃げたいのに、逃げ場がない人間が。


 そしてヒルダの教え子が、その中にいる。


 もう引き返せない。カーラを匿った時点で、ロゼリアは常罪区に手を突っ込んだ。その手を引っ込めることは、もうできない。


 ——いや。引っ込める気など、最初からなかった。


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