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冤罪令嬢、罪人都市の領主になる  作者: 野塩いぜ


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第8話 帳簿を弄る者

 物資庫の一件から二日が経った。


 配給は正常化され、塩と油が外縁区の住民の手元に届き始めている。目に見える変化だった。市場で声を荒らげていたマルタが、屋敷を訪ねてきて無言で頭を下げた。言葉はなかった。ただ頭を下げ、籠に入った干し野菜を置いて帰っていった。


 それだけのことが、ロゼリアの胸に小さく響いた。


 だが、全てがうまくいっているわけではない。


「配給は動いています。ただ、衛兵のやり方が少々……」


 シグベルが屋敷を訪れたのは、三日目の午後だった。


 応接間に通されたシグベルは穏やかな微笑みを湛えている。だが今日は、その微笑みの奥にある注意深さが以前よりも濃く見えた。


「まず、お礼を申し上げます。塩が届くようになりました。おかげで弔いが滞りなく行えています。外縁区の教会で、昨日二人の死者を正しく送ることができた。あの夜のようなことは、当面は起きないでしょう」

「それは良かった」

「ええ。……ただ、二つほど」


 シグベルの声が、わずかに温度を変えた。穏やかさはそのままに、用心深さが混じる。


「一つは衛兵のことです。配給を行う際に、住民にこう言っているそうです。『領主代行の命令だ』と。恩着せがましく、というよりは……責任をこちらに回しているように聞こえます」

「配給について、自分たちの判断ではないと言い逃れるためですか?」

「そういうことでしょう。衛兵の間に領主代行への反感が根を張り始めています」


 シグベルは茶に口をつけ、一拍の間を置いた。


「もう一つは、常罪区のことです」


 ロゼリアの指が、茶器の縁で止まった。


「外縁区に塩が届くようになった。それ自体は良いことです。ですが、そのことを常罪区の住民も知っている。そして……『なぜこちらには来ないのか』と。そんな声が、届き始めています」

「常罪区にも配給の問題が?」

「常罪区は外縁区とは事情が違います。あちらは贖罪の労働に従事する住民を衛兵が管理している。配給の仕組みも外縁区とは別系統です。ですが、外縁区が良くなったことで、今まで見えにくかった差が見えるようになった」


 ロゼリアは黙りこんだ。自分が外縁区で成果を上げたことが、常罪区との格差を浮き彫りにしている。解決したはずの問題が、別の場所に新しい問題を生んでいる。


「今はまだ小さなものです。ですが、不満を持つ者がいるということは……外から火をつける者がいれば、燃え上がりかねない」

「外から、火をつける者……」

「仮定の話です。ですが、この都市では何かが起きた時――その原因を見極めるのが難しいことが多い」


 シグベルの青い瞳がロゼリアを見ていた。助言であり、警告であり、同時に『自分はあなたの味方だ』という表明でもある。計算のない善意というものをロゼリアは信じきれていなかった。だが、彼の言っていることの中身は正しい。


「ご忠告、ありがとうございます」

「いえ。塩を届けてくださったのはあなたです。私は祈ることしかできなかった。……少なくとも、物資を正した功績は正当に評価されるべきです」


 シグベルは静かに微笑み、席を立った。去り際に一度だけ振り返る。


「何かあればいつでもお声がけください。教会はあなたの味方です」


 その言葉がどこまで本当かは、まだわからない。それでも教会という後ろ盾の存在を、ロゼリアは頭に留めておいた。


***


 シグベルが去り、ロゼリアは執務室に戻る。


 物資庫の一件は片付いた。だが、一つだけ引っかかりが残っている。


 あの物資庫の棚に並んでいた酒瓶と煙草葉。衛兵が住民の配給を抜いて自分たちの嗜好品に充てていたことは明らかだ。だが、その嗜好品はどこから来たのか。


 この都市に正規のルートで入ってくるのは、生活必需品だけだ。穀物、塩、油、布、薬品。検問で荷を検められるのだから、酒や煙草葉のような嗜好品は通常は持ち込めない。ルカのような正規の商人が扱う品目にも含まれていない。


 つまり、検問を通らないルートがある。


 正規でない商人が、正規でない経路で品物を持ち込んでいる。衛兵はその商人と取引し、配給の品を渡す代わりに嗜好品を手に入れていた。


 ――闇の流通。


 シグベルが言った『外から火をつける者』。衛兵の不満に火をつけることができるのは、衛兵と既に取引関係にある人間だ。


 ロゼリアは机の引き出しを開けた。


 紙に包まれた、あの粒が入っている。ルカが届けた香辛料に紛れていた、正体不明の木の実。


 取り出して、手のひらに載せた。乾燥した表面。不思議な色合い。王都で学んだどの薬草とも一致しなかった。


 ……これもまた、正規のルートにはないものなのだろうか。


 考えが膨らみかけたところで、扉が叩かれた。


「ロゼリア様。帳簿の整理の件で、お時間をいただけますでしょうか」


 テオドアだった。ロゼリアは粒を紙に包み直し、引き出しに戻した。


「どうぞ」


 扉を開けて入ってきたテオドアは、腕に帳簿を数冊抱えていた。物資庫の一件以来、配給の体制を見直す必要があり、過去の帳簿を全て洗い直す作業が生じている。


 だが今日のテオドアには、いつもと違うところがあった。


 彼は帳簿を携えていた。ロゼリアの指示ではなく、テオドア自身の判断だ。これまでテオドアは「お約束通りお出しいたします」「ご指示があれば」と、常にロゼリアの要求に応じる形でしか動かなかった。受動的で、慎重で、一線を引いた態度。それが今日は、自分から帳簿を持ってきている。


「物資庫の記録と帳簿の照合は、ロゼリア様がお一人でなさるよりも、帳簿に慣れた者が手伝った方が早いかと存じます」


 淡々とした口調だった。だがその言葉の中に、ロゼリアは小さな変化を感じ取った。これは申し出だ。求められたのではなく、差し出している。


「……助かります」


 二人で帳簿を広げた。テオドアの手つきは、丁寧だった。頁を繰る指の動きに迷いがない。数字の並びを一瞥して、不自然な箇所を指し示す。


「ここ。この月の穀物の転記ですが、前月からの繰越が二行ずれています。意図的に消費量を多く見せる手口です」

「分かるのですか?」

「ええ」


 テオドアの声が、ほんのわずかに低くなった。帳簿の上に置いた指が、一瞬だけ止まる。


「……帳簿を弄る側にいた人間ですから」


 ロゼリアは手を止めた。テオドアの横顔を見る。老家令は帳簿に目を落としたまま、静かに続けた。


「私がこの都市に送られた理由は、横領です。仕えていた家の帳簿を弄り、十年にわたって金を懐に入れておりました」


 十年。ロゼリアの人生の半分。その間、彼は罪を重ね続けていた。


「帳簿の数字というのは、弄ろうと思えばいくらでも弄れるのです。入荷と消費の辻褄を合わせ、繰越を操作し、転記の際にわずかなズレを紛れ込ませる。一箇所では分からない。積み重ねて初めて金になる。……そういうことを、私はよく知っております」


 テオドアの声には感情がなかった。懺悔でもなければ開き直りでもない。ただ事実として、自分が何をした人間なのかを述べていた。


「発覚したのは、家に新しい会計士が入ったときです。若い男でした。帳簿を最初から読み直し、私が十年かけて積み上げた細工を三ヶ月で見破った」


 テオドアは小さく息を吐いた。


「あの時、私は恨みましたよ。その若い会計士を。帳簿の数字をこんなに丁寧に読む人間がいるのかと。……しかし今になって思えば、あの男は正しかった」


 ロゼリアは何も言わなかった。テオドアが自分を、その若い会計士に重ねていることは分かった。帳簿のズレを見逃さない人間。数字の辻褄が合わないことを放置できない人間。


「ロゼリア様」


 テオドアが初めて、帳簿から目を上げた。


「私がこの屋敷の家令を務めてきたのは、他に行き場がなかったからです。前の領主閣下は私を使いこなしてくださいましたが、信用してはおられなかった。当然のことです。金で道を誤った人間ですから」

「……それは」

「ですが」


 テオドアの声が、ほんのわずかに変わった。老獪さの下にある、もう一つの層が覗いた。


「物資庫の件でのあなたを見て、思いました。帳簿を正しく読む人間は、帳簿を弄る人間にとって一番怖い相手だと。……同時に、一番信用できる相手でもある」


 それはテオドアなりの、最大限の誠意だったのだろう。忠誠の誓いでも感動的な言葉でもない。帳簿を弄ってきた人間が、帳簿を正しく読む人間を認める。それだけのことだった。


 だが、それだけのことが、ロゼリアの喉の奥を少しだけ詰まらせた。


「……テオドア。あなたの知識を、正しい方向に使ってもらえますか?」

「もとよりそのつもりで参りました」


 テオドアが帳簿に目を戻した。その横顔には、先ほどまでの一線を引いた慎重さの代わりに、確かな覚悟のようなものがあった。


 二人で帳簿を突き合わせる作業が再開された。テオドアの指が数字を追い、ロゼリアが物資庫で記憶した記録板の内容と照合していく。横流しの全容が、数字の上で少しずつ明らかになっていく。


 ふと、テオドアが帳簿とは別のことを口にした。


「それと、ロゼリア様。ルカ・フィッツの今月の納品がまだ来ておりません」


 ロゼリアの手が止まった。ルカ。物資庫に一緒に潜り込んだ、あの行商人。


「いつもはこの時期には届いているのですか?」

「ええ。先代の頃から、月に二度は必ず。……今回は遅れております」


 テオドアはそれ以上は言わなかった。事実を述べただけだ。ロゼリアの中にルカの顔がよぎる。帰り道を並んで歩いた人。衛兵の横流しを暴いたことで、検問がさらに厳しくなったのかもしれない。あるいは――別の理由があるのか。


 どうにも彼のことが気にかかる。だが今は、目の前の帳簿が先だ。


 その作業の途中で、テオドアの手が止まった。


「ロゼリア様。一つ、気になる点があります」

「何ですか?」

「外縁区への配給の帳簿は、これである程度整理がつきます。ですが……常罪区は、そもそも帳簿の形が違います」


 ロゼリアは顔を上げた。


「常罪区の住民は贖罪の労働に従事しています。衛兵がその労働を監督し、ノルマの記録をつけている。ですが配給に関しては帳簿がまともに存在しません。あるのは衛兵が管理する労働のノルマ記録だけで、何がどれだけ入り、どう消費されているのかは、外から把握する手段がない。前の領主閣下も常罪区の管理には苦慮されていました」


 テオドアの声が、少しだけ硬くなった。


「私も以前は常罪区にいた人間です。あそこの空気は知っています。外縁区とは違う。衛兵は住民の労働は見張りますが、暮らしには手を出さない。帳簿がないということは、労働以外の物の流れを誰も把握していないということです。もしそこに正規でない流通が入り込んでいるなら……」


 正規でない流通。ロゼリアの頭の中で、物資庫の酒瓶と、引き出しの中の粒と、シグベルの『外から火をつける者』が繋がっていく。


「常罪区に、外からものを持ち込んでいる者がいる……?」

「可能性としては」


 テオドアは慎重に言葉を選んだ。断定はしない。だが否定もしない。


 常罪区。まだ足を踏み入れていない場所。外縁区で足場を固めるのに精一杯だったこの数日間、その向こう側にある区画のことは、頭の端に追いやっていた。


 配給の帳簿がない。ノルマ記録だけが存在する場所。その空白が、何かを隠している。


***


 夕刻、ロゼリアが執務室を出ると、廊下でヒルダが待っていた。


 待っていた、という表現が正しいかどうかは分からない。ヒルダは廊下に立ち、窓の外を見ていた。だがロゼリアが部屋を出る気配を察して、すぐにこちらを向いた。


「ロゼリア様。少しお時間をいただけますか」


 ヒルダの声はいつも通り落ち着いていた。しかし、何かが違った。いつもは用件があれば端的に告げる彼女が、前置きを置いた。「少しお時間を」。ヒルダがこういう言い方をしたのは初めてのことだ。


「もちろん」


 応接間に入り、二人で向かい合う。ヒルダは手を膝の上に揃え、少しの間、口を開かなかった。言葉を選んでいるようだ。


「……私事です」


 ヒルダが言った。


「私事を申し上げるのは、領主代行であるあなたに対して不適切かもしれません。ですが、公の話にもなりうると判断しましたので、お伝えします」


 ロゼリアは黙って待った。


「常罪区に、私のかつての教え子がいます」


 ロゼリアの意識が、すっと研ぎ澄まされた。常罪区。その言葉を聞くのは今日で二度目だ。


「教え子……?」

「この都市に来る前、教師をしていた頃の生徒です」


 教師。その言葉はロゼリアの中にすとんと落ちてきた。ヒルダの罪状は知らない。使用人たちの罪を一つずつ詮索するつもりはなかったし、ヒルダ自身も語ろうとしなかった。だが彼女が教壇に立っていた姿は、不思議と想像できる。


「教え子から、人を介して知らせがありました。常罪区の中で格差が広がっている、と。物が手に入る者と手に入らない者の差が激しくなり、持たざる者の不満が高まっていると」

「格差……。それは、配給の問題ですか?」

「配給だけではないようです。正規の配給では足りないものを、別のルートで手に入れている者がいる。そのルートに繋がっている者は生活ができ、繋がっていない者は困窮する。……そういう構造ができつつあると」


 闇の流通。テオドアが指摘した、常罪区の帳簿の空白。正規でない商人が持ち込む、正規でない品物。それが常罪区の中に新しい格差を作り出している。


「私の教え子は、それに対して声を上げようとしているそうです」


 ヒルダの声が、ほんのわずかに揺れた。ロゼリアが彼女の声の揺れを聞いたのは、これが初めてだった。


「……声を上げる、というのは」

「まだ詳しくは分かりません。ですが、あの子は……真っ直ぐな人間です。おかしいと思ったことに黙っていられない。私がそういう人間に育てた」


 ヒルダの手が、膝の上できつく握られていた。


「あの子がここにいるのは、私のせいです。そして今、危ない橋を渡ろうとしている。……それも」


 ヒルダは言葉を切った。その先を飲み込んだのだと、ロゼリアには分かった。飲み込んだものが何なのかは、まだ聞けない。


「見捨てられません」


 ヒルダがとうとうその言葉を口にした。静かだったが、これは懇願だった。ロゼリアがヒルダから聞いた、初めての願い。


「ロゼリア様にこのようなことを頼む資格が私にあるかどうか、分かりません。ですが常罪区の格差の問題は、領主代行として無視できないものでもあるはずです」


 ロゼリアはヒルダの目を見た。冷静で、的確で、一歩引いた位置から物事を見る。そんな彼女が今、私情で動こうとしている。そしてそれを隠さず、正面から差し出してきた。


「ヒルダ」

「はい」

「明日、常罪区に行きましょう」


 ヒルダが目を見開いた。一瞬だけ。それからすぐにいつもの表情に戻ったが、強く握られていた手がわずかに緩んだことに気付いた。


「……ありがとうございます」

「礼はいりません。帳簿の空白を埋めに行くだけです」


 ロゼリアは窓の外に目をやった。夕暮れの光の中、外縁区の向こうに常罪区の屋根がかすかに見える。灰色の屋根並みが、夕陽に照らされてわずかに赤みを帯びていた。


 外縁区で足場を固めた。帳簿を正し、物資を届け、死者が歩く夜を止めた。


 だが、その向こう側がある。まだ帳簿すら存在しない場所。物の流れが見えない場所。そこに、何があるのか。


 ロゼリアの足は、まだ止まらない。


本日より第二章開始です。お付き合いいただけると嬉しいです。

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