第10話 裏の顔
朝が来るまで、眠れたのは一刻ほどだった。
カーラは応接間の長椅子で眠っている。ギフティオに任せ、ロゼリアはテオドア、ヒルダと共に屋敷を出た。
常罪区との境界には門があった。木と鉄で組まれた頑丈な造りで、両脇に衛兵が立っている。外縁区の衛兵とは纏う空気が違った。腰の剣に手を添え、門を通る住民の顔を一人ずつ確かめている。門の前には列ができていた。朝の贖罪労働に出るための点呼だ。名前を呼ばれ、一人ずつくぐっていく住民の足取りは重く、その顔に生気はない。
「領主代行殿。……何の用でしょう」
ロゼリアが近づくと、衛兵が顔を上げる。面倒事が来た、と言いたげな顔だった。
「常罪区の労働ノルマ記録を確認させてください。外縁区の配給帳簿は既に確認しました。次は常罪区です」
物資庫の一件は衛兵の間にも伝わっている。あの帳簿の照合が何を暴いたか、この衛兵も知っているのだろう。少し渋った末に、厚い木の板が数枚出てきた。名前と日付、労働の種類、数字の列が刻まれたノルマの記録。テオドアが受け取り、門の脇の台に並べた。
「テオドア。昨夜聞いた名前で追えますか」
「やってみましょう」
テオドアの指が板の上を走った。ドルグ。カーラが口にした仕切り役の名前。数分で、指が止まる。
「……ありました」
帳簿の中に嘘を見つけた時の声だった。
「ドルグの班に所属する住民のうち、数名のノルマ達成率が極端に低い。月の半分以上が未達です。通常であればこれほどの未達には罰則が適用されますが……罰則の欄が空白です」
ロゼリアの目が数字を追った。ノルマ未達が繰り返されているのに、罰則適用の記録がない。
「さらに、この未達の住民の経歴には偏りがあります。布織りの技術者、薬品の調合に携わっていた者。手に職のあった人間が、ドルグの班に集中している」
カーラの証言と数字が一致していた。昼の贖罪労働でノルマが出せないのは、夜間にソルミナの製造に従事させられているから。ドルグが衛兵の記録上の罰則を免除させることで、夜間労働に耐えうる人間を確保している。
「帳簿を弄っていますね」
テオドアが静かに言った。
「外縁区の物資庫と手口は違いますが、やっていることは同じです。記録を操作して、見えないところで利益を回している」
テオドアが必要な数字を手早く書き写す間に、ロゼリアは門の向こうを見ていた。常罪区の狭い通りが、朝の光の中に伸びている。あの先に、ドルグがいる。
***
門をくぐると、空が狭くなった。
両側の建物が迫り、頭上に見える空が帯のように細い。路地が入り組み、三歩先が見通せない。石畳は古く、あちこちが欠けて土が覗いている。
人が少ない。朝の点呼で大半が労働に出たのだ。だが、全くいないわけではなかった。気配はある。窓の向こうに影が動き、路地の角を曲がった先に足音が消える。見ているのに、見えない。
「ロゼリア様」
ヒルダが小さく声をかけた。視線の先、路地の奥に人影があった。ロゼリアたちが門を通ったのを見ていたのだろう。影はすぐに建物の陰に消えた。
「門を通った時点で、よそ者が来たことは伝わっています」
テオドアの声には、かつてこの場所にいた人間の実感が滲んでいた。
「先生、こっちです」
路地の角から声がした。若い男がこちらに向かって歩いてくる。背は高いが、肉が薄い。黒い瞳には強い意志の光があった。
呼びかけに応え、ヒルダが一歩前に出る。
「エミル」
その名前を、ヒルダが口にした瞬間の声を、ロゼリアは聞き逃さなかった。あの冷静で、一歩引いた位置から物事を見る彼女の声に、押し殺した感情が滲んでいる。
エミルと呼ばれた青年はヒルダを見た。一瞬だけ表情が動き、何か言いかけて――飲み込んだ。それから視線をロゼリアに移す。
「この人が」
「ええ。領主代行のロゼリア様です」
ヒルダが紹介すると、エミルの目がロゼリアを値踏みした。遠慮も気遣いもない視線だ。
「……思ったより若いですね」
「あなたもね」
エミルが少しだけ目を見開いた。それから口の端を上げる。笑みと呼ぶには硬かったが、敵意ではなかった。
「案内します。ただし俺のルートで。勝手に動かないでください」
歩き出したエミルは、まっすぐ進めばいい道をわざわざ曲がる。
「あっちは駄目です」
理由は言わない。だがその一言で、この区画に行ける場所と行けない場所があることが伝わった。縄張りだ。見えない線が、路地に引かれている。
歩きながら、ロゼリアはカーラから聞いた名前を出した。
「ドルグという人を知っていますか」
エミルの足が一瞬止まり、ロゼリアの方を振り返る。
「……知ってるも何も。あの男がここを仕切ってるんです。労働班の編成も、物の分配も、全部あの男の一声で決まる。衛兵は面倒だからドルグに任せてる。ドルグに逆らったら労働班を外されるか、最悪——」
「深罪区に落とされる」
ロゼリアが先に言った。エミルが目を見開く。
「……誰に聞いたんですか」
「昨夜、常罪区から逃げてきた人がいました。屋敷で預かっています」
「逃げた……? 無事なんですか」
「ええ」
エミルは少しの間黙り、それからふっと息を吐いた。
「とんでもないことしてますね、あんた」
その声に、初めて柔らかな何かが混じった。
***
エミルの案内で常罪区を歩く。住民に話を聞こうとしたが、一人目が口を開きかけた瞬間、路地の向こうに目をやって表情を固まらせた。
「悪い、忙しい」
拒絶され、扉が閉まる。二人目も同じだった。ロゼリアが声をかけた直後に、どこからか視線が来て、口が塞がれる。
「見張りです」
エミルが低い声で言った。
「ドルグの手下が張ってる。よそ者と話した奴は目をつけられる。だから誰も口を開けない」
外縁区では領主代行の名乗りが場の空気を変えた。衛兵は嫌がりながらも従った。公式の肩書きには公式の力がある。
ここでは違う。ドルグは公式の役職ではない。ロゼリアの肩書きは、ドルグの支配構造の外にある。外にあるから、中に届かない。
エミルが舌打ちした。
「こうなると思ってたんだ。ドルグの目が光ってる間は誰も動けない」
そして、苛立ちが限界を超えたように、迂回していたルートを外れた。それまで避けていた方角へ、まっすぐ足を向ける。
「エミル」
ヒルダの鋭い声が飛んだ。
「そっちは——」
「分かってます。でも、このまま帰ったって何も変わらない」
エミルは振り返らなかった。ロゼリアはヒルダと目を合わせ、それから後を追った。
角を曲がった先は、空気が違う。建物の状態が少しいい。軒先に干し肉が下がっている。物がある側の通り。
二人の男が、通りの真ん中に立っていた。
エミルを見て、すぐに表情が変わる。
「またお前か」
年配の方が顎を上げた。体格がいい。だがそれ以上に、この場所に根を張った人間の余裕があった。自分の縄張りに立っているという、揺るがない自信。
「誰の許可でよそ者を連れ込んだ。何度言えば分かる」
もう一人がエミルに詰め寄り、胸倉に手を伸ばしかけた。
ロゼリアは前に出た。
「領主代行のロゼリア・グランツフェルトです」
声は通ったはずだった。静かだが、はっきりと。外縁区で、市場で、物資庫の前で、この名乗りが場の空気を変えてきた。
手下がロゼリアを見た。金髪、白い肌、場違いな身なり。一瞬だけ視線が留まり――それだけで終わった。目がエミルに戻る。ロゼリアは存在しないかのように、視界から外された。
「お前の連れか。次から次へと面倒なことをしやがる」
名乗りが、届かない。
王都の法廷が頭をよぎった。声を上げても意味がなかった、あの場所。結論は決まっていて、自分の言葉は空気を揺らすだけで、何も変えなかった。ここでも同じだ。この男たちにとって、領主は『何もしない人間』の別名なのだ。
ロゼリアが二の句を継げずにいる間に、手下がエミルの腕を掴んだ。
「いい加減にしろ。労働班に戻りたくないなら、深罪区に——」
「おいおい、穏やかじゃないな」
軽い声が割り込んでくる。聞き覚えのある響きだった。
路地の奥から、茶色のくせ毛の男が歩いてきた。肩に荷袋を提げ、人懐こい顔に薄い笑みを浮かべている。商人が馴染みの店に立ち寄るような、場に溶け込む自然さで。
ルカだった。
なぜここに——。納品はまだ来ていなかったはずだ。テオドアがそう言っていた。その男が今、常罪区の路地にいる。
手下がルカを一瞥した。知っている顔らしい。だが今は関係ないと判断したのか、視線がエミルに戻りかける。
ルカはそのまま歩を進め、年配の男のすぐ横で足を止めた。笑みを崩さない。構えた様子もない。ただ隣に立っただけ。それなのに空気の質が変わった。ルカの体から、それまでになかった圧のようなものが滲み出していた。
耳元に、顔を寄せる。
唇が動くのが見えた。だが声は聞こえなかった。ロゼリアのところまで届かない、ほんの一言か二言の囁き。
手下の肩が強張り、ルカの顔を見た。
ルカは笑っている。人懐こい猫のような目。何も変わっていない。変わっていないのに、手下の彼を見る目が別物になっていた。怒りでも恐怖でもない。もっと深いところで、この相手には逆らえないと理解してしまった人間の目。
手下がエミルの腕を離した。もう一人に顎で合図し、二人とも何も言わず背を向ける。彼らは足早に路地の奥へ消えていった。
静寂が戻る。
「大丈夫ですか、領主代行殿」
ルカが振り返った。にこやかな表情で、声は軽い。まるで何事もなかったかのようだ。切り替えの速さが、逆に怖かった。さっき手下の耳元に寄せていた顔と、今ロゼリアに向けている顔が、同じ人間のものとは思えない。
「……なぜ、ここにいるのですか?」
「納品の帰りですよ。常罪区の近くまで来たんで」
「わざわざ?」
「わざわざです」
前にも聞いたような返事だった。だが同じ言葉が、今は同じように響かない。
ルカは壁に肩を預けた。常罪区の路地を見ている。路地の奥を知っている目。建物の影に何があるか分かっている目。この場所に、商人として出入りする以上の慣れがある。
「随分と踏み込みましたね、ロゼリア様。外縁区の次は常罪区ですか」
「必要なことです」
「必要、ですか」
ルカの声から軽さが消えた。壁に凭れたまま、視線だけがロゼリアに向く。
「あんまり深く踏み込むと、足元を掬われますよ。この都市は、表の通りより裏の路地の方が長いんです。……俺は商人だから、路地のことも多少は知ってる。あなたが踏み込もうとしてるのは、路地どころじゃない。その先は、地下だ」
低く、重たい声だった。手下を退かせた直後にこの言葉を聞くと、まるで自分自身のことを語っているように聞こえた。彼は裏の路地を知っている。多少どころではなく。
訊きたかった。あなたは何を囁いたのか。なぜ手下はあなたの言葉で退いたのか。あなたは本当に、ただの行商人なのか。
だが口が開かなかった。焚き火の夜に粒のことを訊けなかったのと同じだ。あの時は物への疑問だった。今は人への疑問だ。訊いて、答えが返ってきたら。あるいは返ってこなかったら。もう今まで通りにはいられない。
「ルカ、あなたは常罪区に来たことがあるのですね」
「商人はどこにでも行きますよ。物を買う人がいれば」
そう聞くのが精いっぱいだった。ルカの言葉は答えになっているようで、なっていない。曖昧な質問には、曖昧な回答を。それは金貨の枚数で物が変わる取引のようだった。
ルカは壁から体を起こし、荷袋を担ぎ直した。歩き出しかけて、足を止める。
「……ロゼリア様。気をつけてください。この場所は、あなたが思っているより複雑です」
それだけ言って、ルカは路地の先に消えた。
ロゼリアは、ルカが見えなくなってもただ立っていた。
「ロゼリア様」
テオドアの声がした。控えめに、だが確かに。
「あの商人は、この辺りの事情に随分と明るいようですね」
ロゼリアは何も言えなかった。
ルカの手を思い出す。帳簿をめくる手。焚き火に枝をくべた手。荷を担ぐ手。服を貸してくれた時の手。「何があっても俺の隣にいてください」と言った、あの朝の手。
その手が今日、ドルグの手下に触れた。ルカは笑顔のまま、何かを囁いた。何を囁いたのか、ロゼリアは知らない。知りたいのか、知りたくないのか、それすら分からない。
「……あの男、何者なんですか」
そう尋ねたのは、エミルだった。
「行商人です。この都市に物を届けてくれている人」
「行商人にしちゃ、顔が利きすぎでしょう」
エミルの言葉は正しい。正しいから、ロゼリアは口をつぐむしかない。
だが、立ち止まっている場合ではなかった。
「エミル。ノルマ記録で掴んだものがあります。ドルグの不正の証拠になるものが。……これを、常罪区の住民に見せたいの」
エミルの目が変わった。さっきまでルカに向けていた猜疑が、別のものに切り替わる。
「見せてどうするんですか」
「仕切り役が何をしているか、住民自身に知ってもらう。その上で、力を貸してほしい」
エミルはしばらく黙った。それから、少しだけ目を細める。
「……人を集めるのは、得意ですよ。明日、場所を用意します」
「ありがとうございます」
そう言って見上げた常罪区の空は、細く、高く、遠かった。




