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冤罪令嬢、罪人都市の領主になる  作者: 野塩いぜ


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第11話 選ばれた者と選ばれなかった者

 エミルが用意した場所は、常罪区の外れにある空き家だった。


 壁の漆喰が剥げ、天井の梁が傾いでいる。だが屋根はあり、扉は閉まる。仕切り役の縄張りからは離れている。エミルの仲間が朝のうちに声をかけて回り、集まった住民は十数人。少なくはない。この場所で、ドルグの目を盗んで十数人が一箇所に集まること自体が、小さな反乱だった。


 住民たちは立ったまま壁際に並んでいる。椅子はない。座るような空気でもなかった。ロゼリアを見る目は、期待ではなく品定めだ。あんたが何をしてくれるのか見せてみろ、と。


 ロゼリアは部屋の中央に立った。


「皆さんに知ってほしいことがあります」


 テオドアがノルマ記録の写しを広げた。板ではなく、紙に書き写したもの。ロゼリアが数字を読み上げ、テオドアが指で追って見せた。


 ドルグの班に集中するノルマ未達。罰則の未適用。技術を持つ住民の偏った配置。そしてカーラの証言――夜に集められ、ソルミナと呼ばれる薬を作らされていること。昼の技術が夜に転用されていること。


「夜に集められている人たちは、楽をしているのではありません。昼より重い荷を背負わされている。その対立は、ドルグが作り出したものです」


 住民たちは聞いていた。だが驚かなかった。知っていたのだろう。数字で示されるまでもなく、暮らしの中で。夜の労働に心当たりのある者が目を伏せ、そうでない住民がそれを横目で見ている。


 沈黙が長かった。誰も動かない。


 壁際に腕を組んで立っていた、日に焼けた肌の女が口を開いた。声が太い。この場にいる住民の中で、最も遠慮のない目をしている。


「……分かったよ。でもだから何だい。ドルグに逆らったら物が止まる。あんたが飯をくれるのかい」


 真実では腹は膨れない。ロゼリアの数字は正しい。だが正しさだけでは、この場所の人間は動けない。


「——冗談じゃない」


 空気を切り裂いたのは、エミルだった。部屋の隅から一歩前に出て、吐き出すように言葉を紡ぐ。


「数字を見た。証言もある。ドルグが俺たちを搾取してるって分かったんだろ。それでも動かないのか」


 住民たちは黙っている。怒りは分かる。だが怒りだけでは暮らせない。


「衛兵は助けてくれない。前の領主も何もしなかった。シグベルは——」


 エミルの声が変わった。怒りの色が変わった。仕切り役への怒りから、もっと古い場所にあるものに。


「シグベルは、気に入った人間だけ外縁区に引っ張り上げて、残りは見捨てた」


 部屋の空気が張り詰めた。


「先生だって、そうだ」


 エミルの目がヒルダに向いた。


「先生は選ばれたじゃないですか」


 ヒルダの体が強張った。


「あの神官が先生を外縁区に引き上げた。先生は外縁区で子どもたちに教えて、屋敷で侍女をしてる。俺たちはここに残されたままだ。……先生の教え子だったのに」


 声が震えている。怒りの下に、もっと脆いものがある。十年分の問い。なぜ自分たちを置いていったのか。


 ヒルダは口を開かなかった。手が体の横で握られていた。


 ロゼリアは待った。ヒルダが何か言うかもしれない。言わないかもしれない。それはヒルダの問題だ。


 ヒルダは答えなかった。


「エミル」


 ロゼリアが静かに言った。


「あなたの怒りは正しい。でも今、ここで答えは出ない。ヒルダとの話は、この先いくらでもできる」


 エミルの顔が歪んだ。言いたいことはまだある。だが——噛み殺した。ロゼリアの目を見て、何かを読み取ったのだろう。今はその時ではない、と。


 部屋が静まりかけたとき、入口が蹴り開けられた。


***


 入ってきたのはドルグだった。


 手下が二人、後ろに控えている。昨日ロゼリアを無視した連中だ。さらにその後ろに衛兵が一人。門の衛兵ではない。常罪区の中まで入ってきた衛兵。それだけで異例なことだと、エミルの強張った顔が教えていた。


 ドルグはゆっくりと部屋を見回す。住民を一人ずつ見た。エミルを見た。ヒルダを見た。テオドアを見た。


 最後にロゼリアを見た。


 四十代ほどの、がっしりとした男。怒鳴りそうな体つきなのに、目が静かだった。怒っていない。苛立ってもいない。ただ確認しに来た、という目だった。


「話は聞いた」


 ドルグの声は低く、淡々としていた。穏やかではない。だが荒くもない。事実を述べる声。


「うちの人間を集めて、何を吹き込んでいる」

「吹き込んでなどいません。ノルマ記録の数字を見せただけです」

「数字、か」


 ドルグが鼻で笑った。舐めている。ロゼリアを――まだ年若い、領主代行を。


「まずは、カーラを返してもらおうか」

「お断りします」

「あれは常罪区の住民だ。贖罪の労働を放棄して逃げた。脱走者だ」

「カーラは私が預かっています。領主代行の判断です」

「領主代行の判断、ね」


 ドルグが繰り返した。そこには明確な侮りがあった。


「あんた、ここに来て何日だ。この都市に来て、何ヶ月だ。……俺はここに十五年いる」


 十五年。ロゼリアが罪人都市で過ごした何倍もの時間。


「十五年、この場所を回してきた。水を分けたのは俺だ。住む場所を割り振ったのも俺だ。新しく来た人間の面倒を見たのも、揉め事を収めたのも、全部俺だ」


 住民たちが黙っている。ドルグの言葉に反論する者はいなかった。事実だからだ。


「衛兵はやらなかった。前の領主も手を出さなかった。誰もやらないから、俺がやった。それでこの場所は回ってきた」


 ドルグの目がロゼリアを射る。


「あんたに訊く。俺がいなくなったら、誰がここを回すんだ」


 沈黙が落ちた。


 住民たちの視線がロゼリアに集まった。ドルグにではなく、ロゼリアに。答えを待っている。


 ロゼリアは答えられなかった。


 答えを持っていなかったからだ。常罪区の日常を回す実務を、自分が代われるのか。テオドアは帳簿の専門家であって、水の配分や揉め事の仲裁はできない。ヒルダは教師であって管理者ではない。エミルは若い。


 ドルグの正論が、部屋を塗り潰していく。「他にいないだろう」。その事実が、住民の沈黙に表れている。知っている。ドルグがいなくなったら困ると。


 ドルグが半歩、ロゼリアに近づいた。


「数字を見せて何がしたい。俺を追い出すか。追い出して、それから? あんたが水を汲みに行くのか? 喧嘩の仲裁をするのか? 新入りが来たらどの家に入れるか決めるのか? なぁ?」


 一つ一つが事実だった。反論できない。


「俺はここを回してきた。俺がいるから、ここの人間は生きてこられた。……それを、来て数日のよそ者に壊されるのは御免だ」


 ロゼリアの口が開かない。ドルグの言葉は正しい。正しいから返す言葉がない。


 住民たちの目が変わりかけていた。さっきまでロゼリアの数字に耳を傾けていた人間が、ドルグの言葉に頷きかけている。そうだ、ドルグがいなくなったら困る。数字を見せてもらったところで、明日の水は誰が運ぶのだ。


 空気が、ドルグ側に傾いていく。


 そのとき、部屋の隅で声がした。


「……水を分けてくれたのは、本当だ」


 低い、掠れた声。壁に凭れていた痩せた男が、体を起こしていた。顔色が悪い。目の下に深い隈がある。夜の労働に削られた体だと一目で分かる。

 全員がその男を見た。


「ドルグさんが水を分けてくれた。住む場所も決めてくれた。全部本当だ」


 男が壁から離れた。足元がふらついている。


「でも」


 声が震えた。


「その水で、俺たちの口を塞いでたのも本当だろう」


 部屋の空気が変わった。


「水をくれる。飯をくれる。薬をくれる。代わりに夜中に集められて、体が壊れても文句も言えない。言ったら全部止まる。ソルミナがないと明日の労働に耐えられない体にされてるんだ」


 ドルグは表情を動かさずに男を見る。

 その瞬間、手下が動いた。


「黙れ!」


 二人いた手下のうち、体格のいい方が男に向かって一歩踏み出し、躊躇いなく腕を振った。

 重い拳が男の顔を打つ。

 乾いた音が部屋に響いた。男の体がよろめき、壁に背をぶつけて崩れ落ちる。口の端から血が一筋、顎を伝った。住民の誰かが息を呑んだ。

 手下が倒れた男を見下ろし、もう一度腕を振り上げた。


「やめろ!」


 ドルグの鋭い制止が飛んだが、手下の腕は止まらない。

 その瞬間、ロゼリアが動いた。

 目の前で振るわれる暴力を止められなかった。その後悔がロゼリアを走らせる。倒れた男と手下の間に、自分の体を滑り込ませた。膝をついて、男を庇う。見上げた先に、振り下ろされかけた手下の腕がある。

 その拳は止まろうとしていた。ドルグの命令が遅れて届いたのだろう。腕の軌道がぶれる。


 だが、一度ついた勢いは止まらなかった。


 拳がロゼリアの頬を掠める。衝撃で首が横に振られ、体勢が崩れる。手をついた石の床が冷たかった。頬が熱い。


「っ……!」


 部屋が凍りついた。

 誰も動かず、何も言わない。手下が自分の手を見ている。今自分が何をしたか理解して、顔から血の気が引いている。ドルグの目が、初めて大きく動いた。住民たちは息を止めている。衛兵は——衛兵の顔は、蒼白だった。


 領主代行が、殴られた。

 常罪区の中で。住民の前で。衛兵の目の前で。

 ロゼリアは床に手をついたまま、顔を上げる。熱を持った頬からはじんじんと痛みが広がっている。それでも膝に力を入れて立ち上がった。

 手下の目を見ると、彼は後ずさった。領主代行が、貴族の女が、今頬を打たれて、それでもこちらを見ている。

 ロゼリアはドルグに視線を向けた。


「……あなたが、ここを回してきたのは事実です」


 声が震えていた。痛みと、それから、もっと深いところにあるもので。冷静さの下に沈めていたものが、頬の衝撃で表に叩き出されていた。


「それは否定しません。でも——」


 一語、間を置いた。


「あなたが必要だったのは、あなたが優れていたからではありません。あなた以外の選択肢がなかったからです」

 

 ドルグの目がわずかに逸らされる。


「衛兵がやらなかった。前の領主が手を出さなかった。あなたしかいない状況を——あなた自身が維持してきた」


 ロゼリアの声がぐっと低くなった。震えている。だが視線は決して揺らがない。


「選べないようにしておいて、『他にないだろう』と言う」


 彼女の脳裏には、法廷の記憶が蘇っていた。結論は決まっている。お前に選択肢はない。あの裁判官たちと、今のドルグが重なる。


「その言い方を、私は別の場所で聞いたことがあります。――王都の、裁判所で」


 住民たちが息を呑んだ。


「あなたのやってることは管理ではありません。それは、檻です」


 静寂が落ちた。


 ドルグは黙っていた。淡々とした表面に、ひびが入っている。今度は値踏みではなかった。十五年だ。十五年、彼がこの場所で積み上げてきたものを——檻、と呼ばれた。

 ドルグの口が引き結ばれた。彼はここに来て初めて感情をあらわにしている。それは憤りに似ているが、もっと深い。否定されたことへの動揺を、この男は怒りで塗り潰そうとしているのだ。

 長い沈黙の後、ドルグが口を開く。


「……回せるのか。あんたに」


 声が掠れていた。「俺がいなくなったら誰がここを回す」と言ったときとは別人のような。正論を述べるのではなく、噛みつくような言い方だった。


「今すぐには回せません」


 ロゼリアは正直に答える。


「でも、選択肢を作ることはできる。あなた以外の選択肢を。……カーラは返しません。あの人が自分で選んだ場所に、いさせます」


 ドルグはロゼリアの顔を見ていた。頬が赤く腫れかけている。乱れた金髪。それでも折れない紫の瞳。

 ドルグの視線が、手下に向いた。住民と領主代行を殴った手下は、青ざめた顔で呆然と立っている。ドルグの目は冷たい。

 手下が先に手を出したこと。それが、この場での敗北を決定づけた。十五年で一度もやらなかった失態だ。


「……行くぞ」


 ドルグが背を向ける。扉の手前で足を止め、振り返った。

 今度はロゼリアではなく、部屋の中の住民を見ていた。一人ずつ、顔を。声を上げた痩せた男を。エミルを。ロゼリアの後ろに控えるテオドアを。一人ずつ、覚えるように。


「忘れるなよ」


 静かな声だった。だがその静かさの中に、十五年分の執念が凝縮されていた。


「ここを回してきたのは俺だ。……お前たちが何を選ぼうと、それは変わらない」


 それだけ言って、今度こそドルグは去った。手下と共に、足音が路地に消えていく。去り際に見せた目を、ロゼリアは忘れないだろう。あれは手を引いた目ではなかった。「覚えておく」という目だった。


 衛兵が一人、蒼白な顔のまま残されていた。領主代行が傷ついた場に自分が居合わせた。その意味を理解しきれない顔だった。彼はロゼリアと目が合うと、何も言わず門の方へ去っていった。


***


 残された部屋の中で、ロゼリアは息を吐いた。頬がまだ熱い。明日には痣になるだろう。

 殴られた住民——夜の労働で声を上げた痩せた男——が、床に座り込んでいた。口の端の血を手の甲で拭っている。ロゼリアが間に入らなければ、二発目を食らっていた。あの瞬間のことを、男はまだ呑み込めていない顔をしていた。


「……大丈夫ですか」


 ロゼリアが声をかけると、男は呆気に取られた目でこちらを見た。


「俺の台詞ですよ、それ」


 そう言って、力のない笑みを浮かべる。

 日焼けした女がそれを見てロゼリアの前にやって来た。さっきまでの遠慮のない目が、別のものに変わっていた。何を探しているのか。嘘がないか……あるいは、もっと別の何かを。


「……ぶたれてまでやることかい。あんたは領主だろう」

「領主代行です」

「どっちでもいいよ。……殴られたんだよ、あんた。罪人に。それでいいのかい」

「いいかどうかは分かりません。でも、見ていられなかった」


 女はしばらく黙っていた。それから、ふっと息を吐いた。長い息だった。何かを手放すような。


「……あたしの名前はヴェーダだよ。覚えときな」


 名前を、初めて名乗られた。「飯をくれるのかい」とぶつけてきた女が、名前を差し出してきた。


「配給の話。……手伝うよ。何が必要かは、こっちの方が分かってる」


 ヴェーダが言い、それに続いて何人かの住民が頷いた。全員ではない。まだ黙っている者もいる。しかし、扉は開いた。さっきまでの品定めの目が、別のものに変わっていた。ロゼリアは口だけの領主ではないと。体を張って、痛みを引き受ける人間だと。

 痩せた男の隣に、別の住民がしゃがみ込んで肩を支えていた。夜の労働に従事していた者と、そうでない者。昨日まで顔を合わせても口を利かなかった二人が、今、同じ床に座っている。

 小さなことだ。だが、昨日まではなかったことだった。

 エミルがロゼリアの横に来る。


「……やるじゃないですか」


 そこには少し困ったような響きがあった。あんたが殴られるとは思わなかった、とでも言いたげだ。


「エミル」


 名を呼ばれ、エミルが振り返る。ヒルダが入口の近くに立っていた。住民たちが散り始めた部屋の中で、ようやく口を開いた。


「あなたの言う通りです。私は選ばれた。あなたたちを置いて、外縁区に行った」


 エミルの背中が強張る。


「断ることもできたと思いたい。でも正直に言えば、分かりません。あの時の私に、それができたか」


 彼女は一語ずつ、何を口にするか慎重に選んでいた。


「答えにならないことは分かっています。でも嘘はつきたくない。あなたに嘘をつくのだけは」


 エミルは長い間、壁を見ていた。そしてゆっくりとヒルダの方へ振り返る。


「……終わってませんからね。この話は」

「ええ。終わっていません」


 ヒルダが小さく頷いた。痛みを逃げずに受け止めた人間の顔だった。


 ロゼリアは頬に手を当てたまま、窓の外を見る。常罪区の狭い空に、細い光が差し込んでいた。

 ドルグは去ったが、倒れてはいない。それでもこの部屋で起きたことは確かだ。声を上げた人間がいた。体を張った人間がいた。名前を教えてくれた人間がいた。

 頬が痛む。明日には痣になるだろう。王都では考えられないことだ。令嬢が罪人に殴られるなど。

 後悔はない。痣の下で、何かが繋がったのだから。数字の向こう側にいる人間と、ようやく同じ地面に立てた気がした。


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