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冤罪令嬢、罪人都市の領主になる  作者: 野塩いぜ


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第12話 選択肢

 屋敷に戻ったのは夕刻だった。


 常罪区の門で、衛兵が待っていた。昨日ノルマ記録を見せた門番ではなく、空き家にいた――ドルグと共に来ていた衛兵だ。蒼白だった顔色は多少戻っていたが、目が落ち着かない。ロゼリアの頬を見て、視線を逸らした。


「……領主代行殿。あの件について」

「カーラの処遇のことですね」


 衛兵が頷いた。こちらから切り出す前に向こうが来た。当然だろう。領主代行が常罪区で傷を負った。その場に衛兵が立ち会っていた。放置すれば自分の管理責任が問われる。


「カーラのノルマ未達分は、領主屋敷での労働に振り替えます。罰則としての労働場所の変更です。衛兵側でそのように記録を処理していただけますか」


 衛兵は一瞬だけ口を開きかけた。何か反論しようとしたのかもしれない。だがロゼリアの腫れた頬を見て、飲み込んだ。


「……承知しました」


 短い返答だった。本来なら揉めるはずの交渉が、頬の痣一つで片付く。ロゼリアはそのことの意味を噛み締めた。暴力で得た言葉の力。望んだわけではない。だが結果として、あの一撃が衛兵の態度を変えた。


 テオドアが横で黙って見ていた。何も言わなかった。だが門を離れてから、小さな声で言った。


「……見事な交渉でした」

「交渉ではありません。殴られただけです」

「殴られて立っていたことが、交渉になったのです」


 ロゼリアは答えなかった。テオドアの言葉は正しい。正しいが、気持ちの良い正しさではなかった。


***


 屋敷に戻ると、ギフティオが玄関で待っていた。ロゼリアの顔を見た瞬間、笑顔が消えた。


「ロゼリア様。その頬は」

「大したことはありません」

「大したことがなさそうに見えないのですが」


 ギフティオの声は穏やかだったが、目が笑っていなかった。包丁を手に暗い廊下を歩いた時と同じ目。この男は怒っている。ロゼリアを傷つけた人間に対して。


「レインに診てもらいましょう。氷嚢と薬を用意します」

「ギフティオ、本当に大丈夫だから」

「大丈夫かどうかは医者が決めることです。お座りください」


 有無を言わせなかった。ロゼリアは応接間の椅子に座らされ、ギフティオが厨房に消えた。しばらくして布に包んだ冷たい塊を持ってきた。氷ではない。おそらく冷水に浸した石か何かだろう。この都市で氷は贅沢品だ。


 頬に当てると、ひんやりとした感触が腫れた肌に沁みた。


 やがてレインが来た。呼ばれたのか、ギフティオが走ったのか。淡々とロゼリアの頬を診て、「腫れてはいますが骨に異常はありません。冷やしておけば引きます」とだけ言い残して去っていった。


 カーラはその間もずっと、応接間の隅に立っていた。昨夜から屋敷にいる。ギフティオの朝食を食べ、一日をこの屋敷で過ごした。その顔には不安の影が残っているが、昨夜の怯え方とは違う。少しだけ、ここに慣れ始めている。


 ロゼリアの頬を見るたび、カーラは申し訳なさそうに目を伏せる。


「……それ、私のせいですよね」

「あなたのせいではありません」

「でも、罪人を匿ったから——」

「私が選んだことです」


 ロゼリアは冷たい布を頬に当てたまま、カーラを見た。


「カーラ。衛兵との話がつきました。あなたのノルマ未達分は、この屋敷での労働に振り替えます。制度上、あなたは屋敷付きの使用人です。常罪区に戻る必要はありません」


 カーラが数回目を瞬かせた。ゆっくりと言葉を呑み込んでいる。


「……使用人、ですか」

「ええ。テオドアが家令、ヒルダが侍女、ギフティオが料理人。あなたには——」


 ロゼリアは少し考えた。窃盗犯に何を任せるか。


「まず、屋敷の掃除と洗濯をお願いします。仕事に慣れてきたら、別の役割も考えます」

「……掃除と洗濯」


 カーラが繰り返した。当たり前すぎる仕事に、拍子抜けしたような顔。


「あの。一つだけ」

「何ですか」

「盗み癖があるんですけど、いいんですか」


 ここで正直に言うのが、カーラという人間なのだろう。


「知っています」

「……見つけたら怒りますか?」

「怒りません。返してもらいます」

「それだけですか?」

「それだけです」


 カーラはしばらくロゼリアの顔を見ていた。それから、おっとりした表情のまま、小さく頷いた。


「……頑張ります。なるべく」


 なるべく。ロゼリアは小さく息を吐いた。横領犯に帳簿を任せ、深罪区にいた人間に台所を任せ、窃盗犯に掃除を任せる。この屋敷はどうかしている。


 だが、どうかしている場所でなければ、ロゼリアも居場所がなかった。毒を盛った容疑で送られた令嬢が領主代行を務める屋敷。最初からどうかしていたのだ。一人増えたところで、今さらだった。


***


 夜になると、ルカがやって来た。


 彼は納品の荷を担いでいた。今度は本当に荷がある。塩と穀物と油。屋敷の備蓄が減っていた分を補充する量だ。テオドアが検品し、ギフティオが厨房に運び込む。いつもの手順。


 だがルカの目が、いつもと違った。応接間に通されたルカは、ロゼリアの頬を見て、一瞬だけ動きを止めた。


「……それは」

「常罪区で少し。大したことはありません」


 ルカは何も言わなかった。笑わなかった。ここで軽口の一つも出るはずの男が、唇を引き結んでロゼリアの頬を見ている。


 数秒の沈黙の後、ルカはいつもの調子に戻った。だが戻り方がわずかに遅かった。


「……大した度胸ですね。常罪区で怪我をして帰ってくる領主代行は、あなたが初めてですよ」

「褒められている気がしません」

「褒めてません。呆れてます」


 その軽さの底に、別のものが沈んでいた。ロゼリアにはそれが何か分からなかった。怒りか、心配か。あるいは。


「ルカ。頼みたいことがあります」


 ロゼリアは椅子に座らず、立ったまま言った。ルカの目が少し引き締まった。


「常罪区に直接納品するルートを作れますか? 正規の物資を、衛兵の門を通して住民の手元に届けたいのです」


 ルカは茶器を手に取りかけて、止めた。テーブルに手を置いたまま、ロゼリアを見ている。


「……常罪区に、ですか」

「ええ」


 沈黙。ルカの指がテーブルの上で一度だけ動いた。何かを計算している。あるいは、答えをどう包むか選んでいる。


「いいですよ」


 穏やかな答え。


「ただし、二つほど」


 条件。この男はいつも条件をつける。商人の流儀だと言えばそれまでだが、その条件の中身にルカの本音が透ける。


「まず、常罪区には俺一人で入ります。ロゼリア様には同行していただきたくない」

「理由は」

「商人が一人で動く方が目立たない。あなたが常罪区に行くたびに大事になる。今日のことで、それは証明されたでしょう」


 ロゼリアの頬を、視線で示した。合理的な理由だった。今日の一件を考えれば、反論は難しい。


 だがロゼリアの中で、別の声がする。ルカが常罪区で何をしているかを、見せたくないのではないか。あの路地で手下に囁いた時のルカ。商人ではなかった顔。


「もう一つ。届け先は限定させてもらいます」

「どの範囲ですか?」

「仕切り役の縄張りの外。……中に入ると、俺の商売にも差し障る」


 仕切り役の縄張り。ルカはそれを知っている。ロゼリアがまだ把握できていない地図を、この男は最初から持っている。


 なぜ、と訊きたかった。なぜ知っているの。あなたは何者なの。


 焚き火の夜に粒のことを訊けなかった。常罪区の路地で囁きの中身を訊けなかった。今、条件の裏を訊けない。毎回同じだ。訊けば関係が変わる。変わった先が見えないから、口を閉じる。


 だが、飲み込むものが毎回大きくなっている。いつか、飲み込めなくなる時が来る。


「……分かりました。その条件で」

「ありがとうございます」


 ルカは立ち上がり、荷袋を肩に掛け直す。扉に向かいかけて、足が止まった。


「ロゼリア様」


 振り返った彼の笑みが、ほんの少しだけ緩んでいた。商人の笑みでも、計算の笑みでもない。何と呼べばいいのか分からない顔。焚き火の夜、火越しにロゼリアを見ていた時に似ている。


「あんまり無茶しないでください。……商品の届け先がなくなると、俺も困るので」


 商人らしい言い方だ。でも最後に少し笑みが崩れて、その奥にあるものが一瞬だけ覗く。それだけを残して、ルカは扉の向こうに消えた。


***


 夜が更けた。


 屋敷が静まり返った後、ロゼリアは一人で執務室にいた。


 机の引き出しを開ける。紙に包まれた、あの粒。ルカが最初に届けた香辛料に紛れていたものが、ずっとここにある。


 慎重に取り出して、手のひらに載せた。


 もう一つ。カーラが常罪区から持ち込んだ布袋を開け、中の粒を並べる。


 同じだ。


 乾燥した表面。色合い。大きさ。並べれば一目で分かる。ルカが持ち込んだ粒と、カーラが盗んで逃げてきた粒は、同じものだ。


 カーラはこう言った。これはソルミナの材料の一つだと。単体ではただの香辛料。他の材料と組み合わせると、体を動かすための薬になる。


 ルカの荷の中にこの粒があった。屋敷向けの香辛料に紛れていた一粒。単体ではただの香辛料だから、検問では引っかからない。ルカが意図的に混ぜていたのか、別の届け先の品が移し替えの際に混じっただけなのかは分からない。


 ルカは——。


 ロゼリアは二つの粒を見つめた。指先で触れると、乾いた感触がよく似ている。


 結論を出すのは早い。同じ種類の香辛料を扱っていただけかもしれない。製造の過程で材料が流通に混じることもあるだろう。ルカが意図的に持ち込んでいたとは限らない。


 ――必死にそう思おうとしている自分がいることに、ロゼリアは気づいていた。


 ルカの顔が浮かぶ。あの軽やかな声。焚き火の夜の横顔。「何があっても俺の隣にいてください」と言った朝。常罪区の路地で手下に囁いた瞬間。「あんまり無茶しないでください」と笑った、さっきの顔。


 どれが本当のルカなのか。全部が本当なのか。それとも全部が嘘なのか。


 冤罪。


 その言葉が、頭の中に落ちてきた。


 自分は冤罪で裁かれた。証拠もなく罪を着せられた。やっていないことで、全てを奪われた。あの法廷で、誰も自分の話を聞いてくれなかった。結論は決まっていた。


 今、自分がルカに対してやろうとしていることは、それと同じではないのか。


 粒が一致した。常罪区ではドルグの手下に影響力があった。縄張りを知っていた。状況証拠は積み上がっている。だが——それだけだ。ルカが闇の流通に関わっているという直接の証拠はない。粒は偶然かもしれない。手下を退かせたのは商人としての交渉力かもしれない。そうではないかもしれない。分からない。


 分からないのに決めつけることは、証拠もなく有罪にすることと同じだ。


 それだけは、しない。


 ロゼリアは粒を紙に包み直した。二つとも、並べたまま引き出しに戻す。捨てはしない。忘れもしない。ただ、まだ結論は出さない。


 自分の目で。自分の手で。いつか必ず、確かめる。


 ロゼリアはそっと執務室の灯りを消した。暗い窓の向こうに、月が薄く浮かんでいる。常罪区の方角に、灰色の屋根がかすかに見えた。あの下に、声を上げた男がいる。ヴェーダがいる。エミルがいる。ドルグがいる。


 そして、ドルグの向こうには——まだ名前のない、何かがいる。


 この都市の夜は、まだ明けない。


第二章、完結です。幕間を三話挟んで第三章の投稿を開始します。感想などいただけるととても嬉しいです。

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