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冤罪令嬢、罪人都市の領主になる  作者: 野塩いぜ


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第13話 灯

 常罪区に正規の物資が届くようになって、五日が経った。


 変化は緩やかだった。ルカが条件付きで引き受けた納品ルートは、仕切り役の縄張りの外——つまりエミルの側の住民を中心に、必要な物資を届ける小さな流れだ。量は多くない。だが、今までゼロだったところにゼロでないものが入る。それだけで空気が変わる。


 ヴェーダから伝言が来た。「受け取った」とだけ。一言だった。だが、その一言を寄越してくれる人間がいること自体が、五日前にはなかったものだ。


 ロゼリアの頬の痣はまだ残っていた。薄い黄色に変わり、触れても痛まなくなったが、消えてはいない。鏡を見るたびに、あの日のことが静かに蘇る。


***


 シグベルが屋敷を訪れたのは、六日目の昼だった。


 前回の来訪は穏やかな助言と警告だった。今回は、少し空気が違う。応接間に通されたシグベルは微笑みこそ浮かべていたが、座る前に一度だけ、部屋の隅に目をやった。カーラがいないか確認するような視線。


「常罪区の件は伺っています」


 開口一番、シグベルはそう言った。


「ロゼリア様が常罪区に足を運ばれ、住民の前で仕切り役と対峙されたこと。その過程でお怪我をされたこと。そして——常罪区の住民を一名、この屋敷に移されたこと」


 三つ目の言葉に、わずかだが力が込められていた。


「カーラのことですね」

「ええ。窃盗の罪で常罪区に置かれていた女性です。深罪区への移送が決まっていた、と聞いています」


 シグベルの声は穏やかだった。非難の色はない。だが事実を並べるその口ぶりには、確認の意思がある。


「誰が深罪区への移送を決めたのですか?」


 ロゼリアは訊いた。


 シグベルの手が、一瞬だけ膝の上で止まった。


「……仕切り役の判断でしょう。私のところには上がってきていません」


 そこに嘘はなさそうだった。深罪区への移送はシグベルの裁量だが、常罪区の内部でドルグが「深罪区に落とす」と脅す分には、シグベルの耳には届かない。制度と運用の間にある穴だ。


「カーラは衛兵と正式に手続きを済ませています。ノルマ未達分を屋敷労働に振り替える形で、外縁区の屋敷付き使用人に。制度上は罰則の範囲内です」

「手続きが正しいことは理解しています」


 シグベルが微笑んだ。だが、その微笑みの奥にある言葉をロゼリアは聞き取った。――手続きの正しさを問うているのではない。


「ロゼリア様。私が気にしているのは前例です。常罪区の住民が、領主代行の判断で外縁区に移れる。その事実が広まれば、同じことを望む者が現れます」

「それは悪いことですか?」

「悪いことではありません。ですが、秩序に関わることです」


 秩序。シグベルがその言葉を使うとき、それは制度のことでもあり、信仰のことでもある。贖罪都市の秩序は罪と罰の均衡の上に成り立っている。その均衡を揺るがすことへの慎重さが、シグベルの根にある。


「窃盗犯が屋敷で暮らしている。それ自体を咎めるつもりはありません。ですが、次に別の住民が同じことを求めた時に、あなたはどうされますか」


 ロゼリアはシグベルの目を見た。


 この問いは正当だった。ロゼリアはカーラを助けた。だが一人を助けたことが、次の一人、その次の一人への責任を生む。全員を受け入れることはできない。そして受け入れなかった者に対して、なぜカーラだけが、と問われることになる。


 正しい答えが、すぐには出てこなかった。


「……シグベル様」


 ロゼリアは少しの沈黙の後、口を開いた。


「シグベル様も、同じことをされたのではありませんか?」


 シグベルの目が微かに揺らぐ。


「ヒルダを常罪区から外縁区に引き上げたのは、シグベル様のご判断でしょう」


 静かな切り返しであり、同時に問いかけだった。あなたも一人を選んで引き上げた。その時、同じ問いに答えられたのですか。


 シグベルは長い間、ロゼリアを見ていた。微笑みが消え、素の表情が覗いた。


「……ええ。そうです」


 穏やかに、だが重さを帯びた声だった。


「ヒルダを外縁区に引き上げたのは、私の判断です。前領主のルーディック殿が彼女を侍女として雇い入れてくださったのは、その後のことですが……引き上げたのは、私です」

「なぜ、ヒルダを?」


 シグベルは答えなかった。代わりに、ヒルダに視線を向けた。


 ロゼリアはそこで初めて、ヒルダが応接間の入り口に立っていることに気が付いた。一体いつからいたのだろう。茶を運ぶ支度をしていたのかもしれない。盆を手にしたまま、動きを止めている。


「……ロゼリア様」


 ヒルダの声は落ち着いていたものの、盆を持つ指が白い。


「シグベル様に代わって、私からお話しします」


 ヒルダが盆をテーブルに置くと、茶器が微かに鳴った。それから彼女はロゼリアの正面に立った。立ったまま話すことを、ヒルダは選んだ。


「私の罪は、革命の扇動です」


 ロゼリアの呼吸が、一瞬止まる。


「教師をしていました。立場のある子どもたちに、歴史と倫理を教える仕事です」


 ヒルダの声は平坦だった。感情を抑えているのではない。何度も反芻した言葉が、もう感情を離れて形になっているようだった。


「教えるうちに、矛盾が見えてくるようになりました。貴族社会の構造——持つ者と持たざる者がなぜ生まれるのか。それを子どもたちに問いかけました。答えは教えませんでした。ただ、問いを渡した」


 問いを渡した。その言い方が、ヒルダらしかった。


「子どもたちは自分で考え始めました。現状を疑い、声を上げるようになった。私はそれを止めませんでした。止めるべきだったのかもしれません。ですが、自分で考えた子どもの声を、教師が塞ぐことは――できなかった」


 ヒルダの目が、一瞬だけ遠くを見た。


「やがて教え子たちの一部が行動を起こしました。集会を開き、署名を集め、請願書を作った。そこまでは……まだ、言葉の範囲でした」


 彼女は区切るように息を吸って、吐く。ロゼリアもそれで息をすることを思い出した。


「言葉では変わらなかった。何も動かなかった。そして——血が流れました」


 ヒルダは短く言った。誰が、どこで、何をしたか。それを語らなかった。語る必要がないほど、その事実はヒルダの中に刻まれている。


「私自身は暴力を振るっていません。けれど、あの子たちに問いを渡したのは私です。疑うことを教えたのは私です。動いた子どもたちの言葉の出どころが私にあることは、誰の目にも明らかでした」


 革命思想の教育と扇動。それがヒルダの罪状。


 ロゼリアの中で、エミルの顔が浮かんだ。


 エミル。ヒルダの教え子。常罪区で声を上げようとした青年。ドルグの支配に反発し、仲間を集め、対抗勢力を作ろうとしていた。


 ヒルダがかつて子どもたちに問いを渡し、子どもたちが行動し、血が流れた。エミルはもう一度同じ道を歩こうとしたのだ。渡された疑問を、胸に宿したまま。


 自分が教えた通りに、教え子が動いている。止める資格があるのかどうか分からないまま、止めたいと思っている。その苦しみが、ヒルダの指先にこもっていた。


「ヒルダ」

「はい」

「あなたは後悔していますか。問いを渡したことを」


 ヒルダは少しだけ間を置いて、口を開く。


「……後悔はしています。けれど、問うたこと自体を間違いだったとは思えない。間違いだったと思えたなら、もう少し楽でした」


 正直な答えだった。後悔はある。でも撤回はできない。その矛盾を抱えたまま生きている。ロゼリアには、その姿勢がわかる。冤罪で全てを奪われたあの法廷の後、何度も考えた。王都にいたことを後悔しているか。貴族として生きたことを間違いだったと思うか。答えはいつも同じだ。後悔はある。でも、撤回はできない。


「革命」


 シグベルが口にしたのは、それだけの短い言葉だった。ロゼリアとヒルダ、二人の視線がシグベルに向く。


「それは人が定めた罪です……神ではなく」


 シグベルの声は落ち着いていた。感情が排されているのではない。むしろ深い場所から出てきた言葉だった。


 神ではなく、人が定めた罪。


 シグベルは革命そのものを罪とは断じていない。現行の秩序を揺るがした行為を、人の法が罪と呼んだ。それだけのことだと言っている。それだけのことで――ヒルダはこの都市にいる。シグベルはヒルダを外縁区に引き上げたが、この都市から出す力はない


 信仰と制度の間にある、埋まらない溝。シグベルはその隙間に立っている。


「シグベル様。カーラの件について、お答えします。次に同じことを求める者が現れた時にどうするか――正直に申し上げて、まだ答えはありません。ですが、目の前で助けられる人間を見捨てることは、しません。それが前例になるのなら、その前例の責任は私が負います」


 完璧な答えではなかった。だがロゼリアに言えるのはそれだけだった。


 シグベルはしばらくロゼリアを見つめていた。それから、小さく頷いた。


「……あなたは正直な方だ」


 それが賞賛なのか懸念なのかは、分からなかった。


***


 シグベルが去り、ヒルダが茶器を片付けていった後、ロゼリアは一人で応接間に残った。


 ヒルダの言葉が、まだ耳に残っている。問いを渡した。子どもたちが動いた。血が流れた。


 エミルのことを考えた。常罪区で仲間を集めていた若者。ドルグの支配に声を上げる人。ロゼリアはそのエミルに協力を求めた。住民を集め、真実を示し、ドルグの管理に風穴を開けるために。


 あれは正しかったのか。エミルを巻き込んだことで、ヒルダの過去が繰り返されることはないか。


 答えは出ない。ただ、目を逸らすこともできない。


 扉が叩かれた。テオドアだった。


「ロゼリア様。常罪区から伝言が」


 テオドアの声はいつも通り淡々としていたが、次の言葉でわずかに眉が寄った。


「住民が、門の衛兵にこう言ったそうです。『灯を返しに行く』と」


 ロゼリアの背筋が伸びた。


「灯を……返す?」

「ええ。具体的に誰が、何を返すのかは不明です。衛兵もよく分からなかったようで、一応こちらに伝えてきた形です」


 灯。火。


 シグベルの言葉が、頭の中で蘇った。


 ——外から火をつける者がいれば、燃え上がりかねない。


 あれは以前シグベルが屋敷を訪れた時、常罪区の不満について警告した言葉だった。ロゼリアが常罪区に踏み込み、ドルグとぶつかり、住民の前で体を張った。その結果として、ロゼリアに対する恨みが生まれていないとは限らない。


 ドルグはまだ常罪区にいる。ノルマ管理の実権は弱まったが、十五年かけて築いた人脈は消えない。正規の物資が届き始めたことで、ロゼリアはドルグの縄張りを荒らす敵になった。


 灯を返す。火を返す。もし報復なら——


「テオドア。屋敷の警備を確認してください。門と裏口、それから厨房の入り口」


 テオドアは一瞬だけロゼリアの顔を見た。過剰反応ではないかと問いたげな目。だがすぐに頷いた。


「承知いたしました」


 次にロゼリアはヒルダを呼んだ。


「ヒルダ、『灯を返す』という表現に覚えはありますか」


 ヒルダは少し考えてから、首を横に振った。


「……申し訳ありません。聞いたことがないわけではないのですが、正確な意味が思い出せません。恐らく常罪区の住民同士の日常の言い回しだとは思うのですが」


 ロゼリアはカーラにも訊いた。カーラは目を丸くして、


「灯を返す……。ええと、何だっけ。聞いたことはあるんですけど……良い意味だったような、悪い意味だったような……」


 しばらく首を傾げてから、申し訳なさそうに言った。


「すみません、分かんないです。あんまり人付き合いしてなかったんで……」


 彼女は住民の輪から外れていた。情報源としては頼りない。


 結局、『灯を返す』の意味は誰にも分からなかった。


 ロゼリアは執務室に戻り、窓から常罪区の方角を見た。灰色の屋根が夕暮れの光に沈んでいる。あの下にいる住民が、灯を返すと言っている。


 灯。火。報復。


 考えすぎかもしれない。だが、考えなさすぎて後悔したことはある。常罪区で殴られた時、もっと警戒すべきだったと。冤罪で裁かれた時、もっと疑うべきだったと。


 備えることを、やめてはいけない。


***


 夕刻、ルカが荷を担いでやってきた。


 常罪区への納品の帰りだという。最近は納品のたびにロゼリアのところへ顔を見せるのが習慣になりつつある。テオドアが帳簿をつけ、ギフティオが厨房に運び込む。その間に、顔を合わせる。そのリズムが板についてきていた。


 だが今日、ルカは応接間に通されるなり、首を傾げた。


「……何かありましたか?」


 ロゼリアの表情を見てだろう。あるいは屋敷全体に漂う、いつもと違う緊張感を嗅ぎ取ったのかもしれない。この男は空気を読むのが異様に上手い。


「常罪区から伝言がありました。『灯を返しに行く』と」

「灯を返す?」


 ルカが復唱した。一瞬、何かが目の奥を過ったように見えた。だがすぐに消えた。


「誰から?」

「衛兵経由なので、名前は分かりません」


 ルカは顎に手を当てて考える仕草をした。


「常罪区の住民が門で衛兵にそう言った、と。……ふうん」


 何かを知っている顔にも、知らない顔にも見える。ルカの表情はいつもこうだ。読めそうで、読めない。


「ルカ。あなたは常罪区の言葉に詳しいはずです。『灯を返す』の意味に心当たりはありますか?」


 ルカはロゼリアを見た。軽く笑って、肩をすくめる。


「さあ。常罪区には独特の言い回しがいくつもありますからね。はっきりとは」


 はぐらかしているのか、本当に確信がないのか。ルカの答えはいつもこの境界線の上にある。


「ただ——」


 ルカが少しだけ声の調子を変えた。


「また何か揉め事でも起きそうな顔をしていますよ、ロゼリア様」

「揉め事に備えているだけです」

「備えすぎて疲れませんか?」

「備えが足りずに殴られたことがあるので」


 ロゼリアの言葉に、ルカの笑みがほんの一瞬だけ固くなった。頬の痣。もう薄れているが、ルカの視線がその跡をなぞる。


「……それは、確かに」


 ルカは荷の最終確認に立った。いつもと変わりのない去り方だ。扉に手をかけてから、足が止まった。


「ロゼリア様」


 振り返ったルカの顔は、真剣味を帯びていた。


「もし男手が必要なら言ってください。俺は荷を運ぶだけの人間じゃないんで」


 ロゼリアは少し驚いた。ルカが商売と関係のない申し出をするのは、初めてだった。この男はいつも条件をつける。対価を示す。商人としての枠組みの中でしか手を差し伸べない。それが今、枠組みの外から手を出してきている。


「……ありがとうございます。でも、大丈夫です」


 ルカは一瞬だけ、何か言いたそうな顔をした。唇が微かに動いて、止まった。それから笑顔に戻った。何を考えているのか分からない笑み。


「そうですか。まあ、何かあれば」


 今度こそルカは扉の向こうに消えた。


 ロゼリアはしばらく、閉じた扉を見ていた。男手が必要なら。あの言葉は何だったのだろう。商人の社交辞令にしては、本気の色を感じさせた。


 ——考えている場合ではない。


 ロゼリアは執務室に戻って帳簿を開いた。数字を追いながら、頭の片隅で『灯を返す』の意味を考え続けている。


 冤罪で追放された女が、罪人都市で恨まれる。ありえない話ではない。むしろ自然だ。自分は外部の人間で、貴族の女だ。何の資格があってこの都市を変えようとしているのか。


 ——そう思われていても、仕方がない。


 ロゼリアは帳簿を閉じ、窓の外を見た。暗くなり始めた空に、常罪区の方角の屋根が沈んでいく。


 灯を返す。


 その灯が、ロゼリアに向けられた火なのか、別の何かなのか。答えは、まだ分からない。


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