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冤罪令嬢、罪人都市の領主になる  作者: 野塩いぜ


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第14話 商人の朝

 翌朝、ロゼリアは早くに屋敷を出た。


 常罪区に行くつもりだった。『灯を返す』の意味を確かめるには、常罪区の住民に直接訊くのが一番早い。ヴェーダか、エミルか。顔の見える相手に、言葉の真意を訊く。それだけのことだ。


 テオドアには行き先を告げてある。ヒルダが同行を申し出たが、断った。常罪区の住民にとってヒルダは『シグベルに引き上げられた女』だ。彼女が一緒にいると、住民の口が固くなる。


 朝の外縁区は静かだ。配給の時間にはまだ早い。教会の鐘が一度だけ鳴り、犬の遠吠えがそれに応えた。石畳の通りを歩くロゼリアの足音だけが、朝霧の中に響いている。


 常罪区との境界の門が見えてきた頃、背後から声がかかった。


「おはようございます、ロゼリア様。こんな朝早くにお散歩ですか」


 振り返ると、ルカが立っていた。荷袋を肩に掛け、何が楽しいのか上機嫌に笑っている。納品の帰りか、それともこれから向かうところか。


「散歩ではありません。常罪区に用があります」

「常罪区に」


 ルカの笑みが一瞬だけ薄くなった。すぐに戻ったが、声の温度が少し変わった。


「……お一人で?」

「ええ。住民に訊きたいことがあるので」


 ルカは数歩でロゼリアの隣に並んだ。歩幅を合わせる動きが自然すぎて、気づいた時にはもう横にいた。


「俺が行きますよ」


 言い方は軽かった。だが足がロゼリアの前に出て、進路を塞ぐように止まった。


「常罪区への納品はどのみち今日の予定です。住民に訊くなら、俺が話を聞いてきます。何を訊けばいいですか」


「『灯を返す』の意味を知っている人間を探してほしいのです。ヴェーダかエミルに訊いてもらえれば」

「簡単な仕事ですね。じゃあ、帰りに報告します」


 用件は済んだ、という顔。ルカはそのまま常罪区の門に向かおうとした。ロゼリアを行かせないつもりだ。


「ルカ。私も行きます」

「ロゼリア様」


 ルカが足を止めた。ロゼリアを見る目は、少しも笑っていない。


「前に言いましたよね。常罪区には俺一人で入る、と」

「あれは納品の話でしょう」

「……まあ、そうなんですけど」


 ルカが少しだけ困った顔をした。珍しい表情だ。この男は大抵のことを軽く受け流すか、笑顔で覆い隠すかのどちらかで、困るということがあまりない。


「正直に言います。あなたに常罪区に入ってほしくない」


 今度はロゼリアの足が止まる。


「前回、殴られたんでしょう。あなたが常罪区に行くと大事になる。俺が代わりに行ける用事なら、俺に任せてください」


 合理的な理由だった。この男はいつも納得できる理由をつける。だがその理由の裏に、別の何かがある。昨日ロゼリアにかけた言葉と、同じ匂い。


「……ルカ」

「はい」

「あなたの心配は分かります。でも、領主代行が住民の言葉を理解できないままではいけません。人に任せるのは、私の仕事として正しくない」


 ルカは口を噤んだ。反論を探しているのではなく、ロゼリアの言葉を飲み込もうとしているように見える。


 朝の風が吹いた。霧が薄くなり始めている。門の手前の通りで、二人は向かい合ったまま立っていた。


「……分かりました」


 ルカは頷いたが、完全には折れなかった。


「じゃあ、こうしましょう。常罪区にはまだ入らない。まず外縁区で聞ける情報を集める。門の衛兵に訊けば、伝言の詳細が分かるかもしれない。それでも分からなければ、俺が常罪区に入って訊いてきます」


 折衷案だった。完全に止めることはしない。代わりに、自分がそばにいられる形を選ぶ。

 ロゼリアはルカを見やった。猫のような瞳が、朝の光の中で薄い色に透けている。


「……いいでしょう」


***


 門に向かう代わりに、二人は外縁区の通りを歩き始めた。


 ルカが門の衛兵に話を聞きに行き、ロゼリアが隣で待つ。衛兵はルカには気安く話した。商人には慣れているのだ。領主代行の前では口が重くなる衛兵が、商人の前では愚痴交じりに情報を出す。


「昨日の伝言の件ですけどね。常罪区の住民が三人ほど門に来て、『灯を返す』って言ったそうです。衛兵が何の用かと訊いたら、領主代行のところに行きたいと。衛兵が止めて帰した。以上」


「三人も?」

「ええ。別々に来たんじゃなくて、連れ立って来たみたいですよ」


 三人が連れ立って。ロゼリアの警戒が一段上がった。組織的な動きに見える。ドルグ側の人間か。それとも——


「衛兵は理由を訊かなかったんですか」

「訊いたけど、はっきり答えなかったそうです。『届け物がある』とだけ」


 届け物。灯を返す。火を返す。断片が。繋がりそうで繋がらない。


 ルカは衛兵に礼を言い、ロゼリアと並んで門を離れた。


「三人連れ。届け物あり。言葉の意味は不明」


 ルカが指折り確認する。


「悪意のある人間が領主を訪ねるなら、普通は一人で来ますよ。三人で連れ立つのは目立ちすぎる」

「それは……数で押そうとしたのでは?」

「そういう可能性もあります。もう少し情報が欲しいところです」


 ルカの口ぶりは商人が取引のリスクを査定する時のそれだった。だが話している内容はロゼリアの身の安全だ。ルカがそうやって語るたびに、ロゼリアはどこか落ち着かない気分にさせられる。


 二人は門を離れ、外縁区の通りを歩いた。朝の市場が開き始めている。住民がちらほらと出歩き、配給の窓口に列ができかけていた。以前より列が短い。配給が正常化した結果だ。小さな変化が、目に見える形になっている。


「あそこの列、前より短いですね」


 ルカが言った。


「ええ。物資庫の在庫管理を直してから、配給の効率が上がったので」

「効率が上がった、じゃなくて、あなたが直した、でしょう」

「……同じことです」

「違いますよ」


 ルカが笑った。そこにからかいの色はない。


「自分の手柄を自分の手柄と言わない人ですよね、あなたは」


 ロゼリアは答えなかった。手柄という感覚がない。帳簿が合わなかったから直した。配給が滞っていたから正した。それだけのことだ。


「……王都でもそうだったんですか」


 不意にルカが訊いた。声の調子が変わっていた。軽さが抜けて、ただ訊いている。知りたくて訊いている声。


「何がですか」

「自分のことを後回しにするのは」


 ロゼリアの足が一瞬だけ遅れた。


「……後回しにしているつもりはありません」

「そうですか」


 ルカはそれ以上踏み込まなかった。だが、踏み込まなかったことが、逆に重く残った。訊きたいことがもっとあって、飲み込んだ。その気配がルカの横顔にあった。


 二人は市場の脇を抜け、教会の前を通り過ぎた。シグベルの教会だ。朝の礼拝の時間なのか、中から祈りの声が微かに聞こえる。


「ルカは神を信じますか?」


 自分でも予想しなかった問いが口をついた。通りすがりの教会を見ただけだ。深い意味はなかった。だがルカは少し驚いた顔をして、それからふっと力を抜いた。


「信じませんね。商人には神より帳簿の方が頼りになる」

「それはそうでしょうね」

「あなたは?」

「……分かりません。信じていた頃はあったかもしれません」


 法廷で裁かれた日のことが、一瞬だけ頭を過ぎった。神に祈ったかどうか、覚えていない。覚えていないということは、祈らなかったのだろう。


「冤罪で裁かれた時、神は助けてくれなかったので」


 ロゼリアは淡々と言った。感情を込めたつもりはなかった。事実を述べただけだ。


 だがルカの足が止まった。


 ロゼリアが振り返ると、ルカは数歩後ろに立っていた。顔に浮かんでいたのは、笑みでも同情でもなかった。痛みに似た何か。一瞬だけ見えて、すぐに消えた。


「……すみません。立ち入ったことを訊きました」

「いいえ。訊かれて嫌なことではないので」


 ルカが追いついて、また隣に並んだ。今度は半歩近かった。肩が触れるほどではないが、風が吹けば袖が触れる距離。


 しばらく無言で歩いた。嫌な沈黙ではない。焚き火の夜に似ていた。あの時も、こんなふうに静かだった。火の音の代わりに、今は市場の喧騒と、石畳を踏む二人分の足音がある。


「ロゼリア様」

「はい」

「さっきの話――『灯を返す』の件。常罪区の住民があなたのところに来たがっているのなら、それは悪いことばかりじゃないかもしれませんよ」

「……どういう意味ですか?」

「会いたい相手のところに三人で連れ立って行くのは、恨みの作法じゃない。少なくとも、俺が知ってる常罪区のやり方では」


 ルカはそこまで言って、口を閉じた。わずかに言いすぎた、という顔。


「知ってるんですか、常罪区のやり方を」

「……商人は色んなところに出入りしますから」


 いつものはぐらかし。だが今日はその壁が少し薄く見えた。話した分だけ、ルカの壁も薄くなっている。近付いた分だけ、壁の存在がはっきり分かるようになっている。


 ロゼリアはそれ以上踏み込まなかった。今は、踏み込まないことを選んだ。焚き火の夜に粒のことを訊けなかったのとは、少しだけ違う。あの時は訊けなかった。今は、訊かないことを選んでいる。


 この男には壁がある。自分にもある。並んで歩くことはできるが、壁の向こう側はまだ見えない。


***


 外縁区を一回りして、屋敷に戻ったのは昼前だった。


 結局、『灯を返す』の真意は分からなかった。だが衛兵から得た情報……三人連れ、届け物あり。それは少なくとも報復や放火とは異なる形をしているように見えた。ルカの言う通り、恨みの作法ではない。


 ルカは屋敷の前でロゼリアと別れた。


「常罪区に行ってもう少し聞いてきますよ。ヴェーダかエミルに会えれば、話が早い」

「お願いします」

「夕方までには戻ります」


 ルカが荷袋を担ぎ直して歩き出す。数歩行って、振り返った。


「ロゼリア様」

「はい」

「……今日はいい天気ですね」


 唐突だった。ロゼリアが目を瞬かせると、ルカは照れたように――いや、照れていたのかどうか、あの顔からは判別がつかない――小さく笑って手を振った。


 それだけだった。天気の話。商人が得意先に言う、何の意味もない社交辞令。


 なのに、ルカの声がいつもより少しだけ柔らかかった。


 ロゼリアは屋敷に入った。玄関でテオドアが待っていた。朝から外出していたロゼリアの帰りを、この男は必ず確認する。家令としての習慣なのか、それとも心配しているのか。


「お帰りなさいませ、ロゼリア様」

「ただいま戻りました。常罪区の件、少し進展がありました。詳しくは後で」


 テオドアは頷いた。だがロゼリアが執務室に入ろうとした時、背後から声がかかった。


「ロゼリア様」


 テオドアの声が、いつもと少し違った。改まっている。


「一つ、よろしいですか」

「何でしょう」

「本日、ルカ殿とお二人でお出かけになっていたようですが」

「ええ。常罪区の門まで、情報を集めに」

「さようですか」


 テオドアが一度言葉を切った。何かを選んでいる間。それから、変わらぬ落ち着いた口調のまま言った。


「あの商人は、よく通いになるようになりましたね」

「……納品の頻度が上がったからでしょう」

「ええ、それもあるのでしょう。ですが、今朝のように納品の用事もなくロゼリア様に同行されるのは、商人の業務の範囲を越えているように老いぼれの目には映ります」


 ロゼリアの足が止まった。


「テオドア。彼は情報収集を手伝ってくれただけです」

「もちろんです。ただ――」


 テオドアの目が、ほんの一瞬だけ、優しくなった。この老獪な家令が見せる数少ない、感情。


「あの方がロゼリア様を見る目は、取引相手を見る目ではありませんよ」


 ロゼリアは言葉を失った。


 テオドアはそれ以上何も言わず、帳簿を抱えて廊下を歩いていった。まるで何事もなかったかのように。


 ロゼリアは執務室に一人残された。


 テオドアの言葉が、頭の中で反響している。


 『あの方がロゼリア様を見る目は、取引相手を見る目ではない』


 ルカの表情が浮かんでは消える。今朝、門の前で「あなたに常罪区に入ってほしくない」と言った顔。隣を歩きながら「自分のことを後回しにするのは」と訊いた声。冤罪の話を聞いて足を止めた横顔。「今日はいい天気ですね」と、何の脈絡もなく笑った瞬間。


 ――取引相手を見る目ではない。


 では、何を見る目だったのか。


 ロゼリアは答えを出せなかった。ルカに対する疑念が、まだ引き出しの中にある。あの粒。同じ形。同じ乾いた感触。証拠もなく決めつけることはしないと決めた。だが、疑念を消したわけでもない。


 信じたいのに、信じきれない。疑いたくないのに、疑いが消えない。


 その上に、テオドアの言葉が乗った。


 重い。何もかもが重い。


 ロゼリアは窓の外に目をやった。昼の光の中、ルカが歩いていった方角に、常罪区の門がかすかに見える。あの先に、灯を返すと言っている人たちがいる。


 答えはまだ出ない。灯の正体も、ルカの正体も。


 だが――今朝、隣を歩いた時間は、悪くなかった。それだけは、嘘ではなかった。


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