第15話 返されるもの
『灯を返す』の本当の意味が分かったのは、三日目の朝のことだった。
屋敷の門が叩かれ、テオドアが応対した。ロゼリアのいる部屋に駆け込んできた彼の顔が、珍しく緊張している。
「ロゼリア様。常罪区の住民が三名、衛兵に連れられてこちらに」
「衛兵に連れられて?」
「はい。門の衛兵が一人、付き添いで」
ロゼリアは軽く身支度を整えた。呼吸を一度だけ深く吸い、吐く。「灯を返す」の伝言から三日。備えはしてある。テオドアが門を確認し、ヒルダが応接間を整え、ギフティオが厨房に控えている。カーラは——どこにいるか分からないが、おそらく廊下の隅で様子を窺っているだろう。
玄関へ向かうと、扉の前に三人の女が立っていた。日に焼けた肌。使い古した衣服。常罪区の住民だと一目で分かる身なりだった。先頭に立っているのは太い声の女——ヴェーダだ。
その後ろに、衛兵が一人いた。腕を組み、面倒そうな顔を隠そうともしていない。護衛というよりは見張りだった。常罪区の住民を外縁区に通すのだから、誰かがついていなければならない。余計な仕事を増やされた、と不満気な顔をしている。
ロゼリアは少しだけ拍子を外された。衛兵もいる、ヴェーダのことも知っている。残りの二人は見覚えがないが、三人とも、手に何か持っていた。
それは大きな布だった。それと、小さな木の箱がひとつ。
「領主代行のお嬢ちゃん」
ヴェーダが口を開いた。太い声は相変わらずだったが、あの日——ドルグの前で「飯をくれるのかい」と詰め寄った時とは、調子が違う。
「灯を返しに来たよ」
灯を返す。
その言葉を、ロゼリアは三日間ずっと考えていた。火。報復。放火。備えをし、警戒を固め、門を確認し、衛兵に訊き、ルカと外縁区を歩き、帳簿を開きながらも頭の片隅で考え続けていた。
「……灯を、返す」
ロゼリアが繰り返した。声が少しだけ硬くなる。
ヴェーダがロゼリアを見て何かを読み取ったらしい。ふうん、と彼女の眉が上がる。
「あんた、まさか——怖がってたのかい?」
「……備えていただけです」
「灯を返すってのは、ここじゃ礼を言いに行くって意味だよ。知らなかったのかい」
ロゼリアの思考が、一瞬だけ止まった。
礼。
灯を返す。灯りを返す。受け取った光を、返しに行く。
火ではなかった。報復でもなかった。
三日間、ロゼリアが警戒していたものの正体は——感謝だった。
ヴェーダの後ろの二人が、手に持った布と木箱を差し出した。布は常罪区の贖罪労働で織ったものだろう。織り目が荒く、色は灰色。木箱を開けると、中に小さな石鹸が二つ入っていた。手作りらしい、不格好な形だ。
「物資が届くようになった。塩も穀物も。あんたが手を回したんだろう」
「ルカが――商人が運んだものです」
「手を回したのはあんただろう。住民の目は節穴じゃない」
ヴェーダが素っ気なく言った。だが差し出す手は丁寧だった。
「大した物じゃない。けど、何もなしで灯を受け取りっぱなしってのは性に合わないんでね」
ロゼリアは布と木箱を受け取った。
王都で触れていたものとは何もかも違う、素朴な布だった。石鹸も形がいびつで、香りも素っ気ない。
それでも、手の中にあるものは温かかった。
重さがあった。物の重さではなく、人が作って持ってきたという事実の重さ。常罪区から門を通り、衛兵に頼み込み、外縁区を歩き、この屋敷まで来た。衛兵に拒まれて、三日目にようやく通された。そうやって、ここに来た。
「……ありがとうございます」
ロゼリアの声が、かすかに震える。自分でも予想していなかった。こういう場面で声が震えたのは、いつ以来だろう。
ヴェーダが目を丸くする。それから、ぶっきらぼうに言った。
「礼を言うのはこっちだよ。あんたが来なかったら、まだドルグの檻の中だ」
後ろの二人が頷いた。名前は知らない。顔は、見たことがあるような気もする。あの日、集まっていた住民たちの中の二人なのだろう。
「中にお入りになりますか。お茶くらいは」
「いや、長居はできない。こっちの兄さんも暇じゃないだろうしね」
ヴェーダが後ろの衛兵を顎で示した。衛兵は何も言わなかったが、早く済ませろと言いたげに体重を片足に移していた。
「あんた、これからも来るんだろう、常罪区に」
「……ええ。行きます」
「じゃあ、次に来た時は案内するよ。一人じゃ道も分からないだろう」
それだけ言って、ヴェーダは踵を返した。衛兵が三人に「戻るぞ」と短く声をかけ、四人分の足音が外縁区の通りに遠ざかっていく。ロゼリアは玄関に立ったまま見送った。
そして、手の中の布と石鹸を見下ろした。
決して、質が高いと言えるものではない。
でも——これは、ロゼリアが受け取った初めての贈り物だった。冤罪で追放されてから。この都市に来てから。誰かが自分のために何かを作り、届けてくれたのは、これが初めてだ。
目の端が滲みだし、ロゼリアは慌てて息を吸った。
「ロゼリア様」
後ろからヒルダの声がした。振り返ると、ヒルダが微笑んでいた。滅多に見ない、柔らかい笑顔。
「火ではありませんでしたね」
「……ええ。火ではなかった」
ロゼリアが小さく笑った。笑ったら、少しだけ気が抜けた。三日間の緊張が、ゆっくりと解けていく。
厨房からギフティオが顔を出した。
「お客様でしたか。ならお茶を――あ、もう帰られたんですね。せめて、何かお持ち帰りいただければ……」
「少し遅かったわね、ギフティオ」
「残念です。次はぜひ。お客様をもてなすのは料理人の本懐ですから」
ギフティオが本気で残念そうな顔をしている。この男にとって、人を食事でもてなすことは何よりも大切なことなのだ。
今度は廊下の奥から、カーラがおずおずと顔を出した。
「灯を返すって、そっちの意味だったんですね。良い意味って言ったじゃないですか、私」
「悪い意味かもしれないとも言っていましたよ」
「……記憶って曖昧ですよね」
カーラがばつの悪そうに笑った。ロゼリアも笑った。屋敷の空気が、ふっと軽くなった。
カーラがテーブルの上の石鹸を何気なく手に取った。鼻に近づけて、匂いを嗅ぐ。盗み癖のある人間は、物に触れずにはいられない。
ふと、カーラの表情が変わった。
「……この匂い」
「どうしました?」
「いえ。何か……知ってる気がするんですけど」
カーラは首を傾げたまま、石鹸をもう一度嗅いだ。何かを思い出しかけて、掴めない顔。それから「気のせいかも」と呟いて、石鹸をテーブルに戻した。
ロゼリアはそれ以上訊かなかった。温かい空気を壊したくなかったのかもしれない。ただ、カーラの一瞬の表情が、頭の隅に小さく引っかかった。
***
ルカがやって来たのは、その日の午後だった。
納品の荷はいつもより少なかった。用事の本体は別にあったのだろう。応接間に通されたルカは、テーブルの上に置かれた布と石鹸を見て、足を止めた。
「それは?」
「常罪区の住民が届けてくれたものです。『灯を返す』の正体でした」
「……ああ」
ルカが短く声を漏らした。それだけの音に、安堵が混じっているように聞こえた。
「ルカ。あなたは知っていたんですか? 灯を返すの意味を」
ルカは一瞬だけ目を逸らした。それから、少し決まりの悪そうな顔で言った。
「……半分くらいは」
「半分、ですか」
「良い意味だろうとは思ってました。でも確信がなかったんで、言い切れなかった。万が一違ったら、あなたの警戒を緩めることになる」
ルカが言葉を選んでいた。はぐらかしているわけではない。ただ言わなかった理由がそこにある。ロゼリアの安全を不確かな情報で揺らしたくないという、理由。
「今回は怪我もないようで、良かった」
ルカが笑った。その目がひどく柔らかい。商人が取引先に見せる社交の表情ではなく、もっと素に近い顔。
「怪我のしようがありません。相手は布と石鹸でしたから」
「布と石鹸に三日間警戒していた領主代行がいるらしいですよ」
「うるさいですね」
ロゼリアが少しむっとして返すと、ルカは声を出して笑う。屈託のない、力の抜けた笑い方だった。ロゼリアが彼のこの笑い方を聞いたのは、焚き火の夜以来だったかもしれない。
ルカの視線が、テーブルの上の布に戻った。常罪区の労働で作られた布。その隣に、不格好な石鹸。
ロゼリアはその布に手を伸ばし、指先で織り目をなぞった。
「綺麗な布です」
ルカがロゼリアに視線を向ける。
ロゼリアは気づいていなかった。自分が今、どんな顔をしているか。だが指先が布の上を滑る動きは丁寧で、声には温もりがあった。
「王都では見たことのない織り方。この都市独特のものなのでしょうか」
独り言のように呟いて、今度は石鹸を手に取った。鼻に近づけると、素朴な草の香りがした。ロゼリアの口元にかすかな笑みが浮かぶ。誰かがこれを作って、自分のために持ってきてくれた。その事実が嬉しい。
ルカは、ずっと黙っていた。
ロゼリアが顔を上げると、目が合った。
ルカはロゼリアを見ていたのだ。ロゼリアが目を上げた瞬間、ルカの視線が揺れる。
一拍の間のあと、彼の方から目を逸らした。窓の方に、何でもない風を装って。だが首の動きがほんの少しだけ急だった。
「……良い贈り物ですね」
声が、わずかに掠れていた。
「ええ。とても」
ルカが何を見ていたのか、ロゼリアには分からなかった。ただ、目が合う直前のルカの表情に、見覚えのないものがあった。
テオドアの言葉――取引相手を見る目ではない――がふと頭を過ぎったが、ルカが口を開いたことで消えた。
「常罪区の状況ですが」
声が切り替わる。ここからは、商人としての報告だ。
「ドルグの影響力はだいぶ落ちてます。正規の物資が入り始めたことで、ドルグの物資に頼る理由が薄くなった。ヴェーダの周りに人が集まり始めていて、エミルもそっちと連携している。……今のところ、大きな衝突はありません」
「……良かった」
「ただし、ドルグ自身はまだ常罪区にいます。今は静かにしているだけです」
つまり、次に動く時を待っているということだ。ドルグ自身か、あるいは、ドルグの背後にいる誰かか。
まだ名前のない、何か。あの夜、執務室で感じた影が、ロゼリアの意識の底に沈んでいる。
「じゃあ俺はこれで。次の納品は三日後です」
「ありがとうございます。常罪区の件も」
「大した情報じゃないですよ」
ルカが立ち上がり、扉に向かった。彼は振り返らなかった。ただ扉をくぐり抜ける前に、何か言おうとした気配があった。
そんな気配だけを残して、ルカは部屋を出ていった。
***
夜、屋敷が静まった頃、ロゼリアは厨房にいた。
悪夢を見たせいで目が覚めてしまった。少し歩きながら水でも貰おうと厨房へ向かうと、明かりがまだ灯っている。中を覗けば、ギフティオが一人で、明日の仕込みをしていた。
「おや、ロゼリア様。こんな時間にどうされました」
「水をいただこうかと。……まだ仕込みですか」
「ええ。明日は少し手の込んだものを作ろうと思いまして。カーラが最近よく食べるようになったので、品数を増やしてやりたいのです」
ギフティオの手が、玉ねぎを刻んでいる。均等な薄切り。一つ一つの動きが丁寧で、無駄がない。料理人の手だ。この手はずっと、誰かのために料理を作り続けてきた。
ロゼリアは水を注ぎながら、ギフティオの横顔を見る。
唐突に、点と点が繋がった。
王都にいた頃、貴族の間で噂になった事件がある。ある貴族の家で起こった、毒殺事件。縁談のための顔合わせの席で料理に毒が盛られ、出席者が皆死んだ。その家の令嬢は行方不明となり、料理人が捕まったという話だ。あまりにも残酷で、理不尽な悲劇。それはあっという間に社交界に広まり、しばらくの間誰もがその話をしていた。
ロゼリアも聞いた。ブランシュ伯爵家で起こった悲劇のことを。令嬢の名前は忘れてしまったが、「かわいそうに」と誰かが言っていたのは覚えている。毒を盛った料理人は、ダイダリーの深罪区送りになったと。他の国であれば死に値する罪だと。
その料理人が、今、目の前で玉ねぎを刻んでいる。
確信はなかった。だが、カーラが「深罪区にいただろう」と怯えたこと。ギフティオが深罪区に送られるほどの罪を犯したこと。料理人であること。浮かび上がった点と点が、静かに線を描いている。
「ギフティオ」
声が自然に出た。
「はい」
「一つ、訊いてもいいですか」
ギフティオの手が止まった。包丁を置き、ロゼリアを見た。穏やかな目。だがその奥に、覚悟のようなものがあった。この問いが来ることを、この男はどこかで予期していたのかもしれない。
「何でしょう」
「ブランシュ伯爵家の事件――犯人は、あなたですか」
長い沈黙があった。
厨房の灯りが揺れる。夜風が窓の隙間から入り込んだのだろう。ギフティオの影が壁に伸び、揺れ、戻った。
「……ご存知でしたか」
ギフティオの声は静かだった。一言も否定しなかった。
「噂だけは。王都にいた頃に」
「噂、ですか。どんな噂だったのですか」
「料理人が顔合わせの席で毒を盛ったこと。出席者が死に、令嬢が行方不明になったこと。……それだけです」
「それだけ」
ギフティオが繰り返し、小さく、悲しそうに笑う。
「それだけ、ですか。では、寝物語にお話しましょう」
ギフティオは包丁を丁寧にまな板の脇に置いた。刃を自分の方に向けない。人に向けない。刃物を扱う者の所作だ。
「ブランシュ伯爵家に仕えて六年経った頃でした。自分はスープを任されていて」
ギフティオの声は落ち着いていた。何度も反芻した記憶が、もう激しい波を立てなくなっている。
「その家にはお嬢様がお一人いらっしゃいました。体が弱くて、食が細い方で。何を作っても二口でカトラリーを置いてしまう」
ギフティオの目が、遠くを見た。
「この方が食べられるものを作りたい。もう一口でもいい。そう思って、一年ほど試行錯誤を続けました。少しずつ、少しずつ。普通に召し上がれるようになった時——料理人として、あれ以上の喜びはありません」
ロゼリアは黙って聞いていた。ギフティオの喜びは本物だったのだろう。でも彼の顔を見れば、その喜びに先があることは分かった。
「お嬢様が元気になると、ご家族の態度が変わりました。……『ようやく使えるようになった』と」
グラスをなぞっていたロゼリアの指が止まる。
「縁談が入りました。相手の評判は——詳しくは申しません。ただ、お嬢様はよく知っておいでだった」
ギフティオが言葉を切った。次の言葉が出るまでに、長い間があった。
「目の前で泣かれました。……嫁ぐくらいならいっそ、と」
それ以上は言わなかった。言わなくても、ロゼリアには伝わった。
「私にあったのは、台所だけでした」
ギフティオの声が低くなった。
「顔合わせの日に、スープに毒を盛りました。お嬢様にだけ、スープは召し上がらないでくださいと伝えて」
短い言葉だった。だがその中に、全てがあった。
「……出席者が倒れた後で、別に用意しておいたデザートをお嬢様にお出ししました。それにも毒を入れて」
ロゼリアは息を呑んだ。
「口にするかどうかは、お嬢様に委ねました。……それだけの、話です」
ギフティオはそこで口を閉じた。
彼は選ぶ権利を渡した。生きることも、死ぬことも。ギフティオは令嬢の代わりに人を殺した。だが、最後の彼女の命だけは、令嬢自身の手に残した。
「お嬢様がどうされたかは、分かりません。私はそのまま捕まりました」
「その方の行方は」
「誰も知りません。……知らない方がいいと、思っています」
そう言ったギフティオの笑みは、祈りに似ている。
沈黙が、厨房を満たした。
ギフティオは人殺しだ。毒を盛り、人を殺した。それは事実だ。
だが——最後の瞬間に、選択肢を奪わなかった。
あの法廷でロゼリアから全てを奪った人々は、選択肢を与えなかった。結論は最初から決まっていた。
ギフティオがしたことは、罪だ。それでも、胸の奥に何かが響いている。彼の行いが正しいとも正しくないとも、ロゼリアには断じられなかった。
「ギフティオ」
「はい」
「あなたがこの屋敷にいるのは、誰かが深罪区から引き上げたからですか」
ギフティオが頷いた。
「前の領主様です。ルーディック様が、深罪区から私を連れ出してくださった」
ルーディック。ルカを気に入っていた前領主。死んだ人間の名前が、また一つ、この屋敷の中に浮かぶ。
「理由は訊きませんでしたか?」
「一度だけ訊きました。ルーディック様は『腹が減ったから料理人が要る』とだけ仰った」
ギフティオの表情が柔らかくなる。
「嘘に決まっています。でも、良い嘘でした」
ロゼリアはギフティオをじっと見つめた。この男は毒で人を殺し、深罪区に送られ、前領主に引き上げられ、今ここで玉ねぎを刻んでいる。罪人としての過去と、料理人としての現在が、同じ手の中にある。
「ギフティオ。深罪区は——どんな場所ですか」
ギフティオの笑みが、ゆっくりと薄くなった。消えたのではない。笑顔の下に、別の層が透けた。
「……暗い場所です」
短い答えだった。
「暗くて、寒くて、音がない。人はいます。でも、声を聞くことはあまりない。みんな——黙っています。黙って、働いて、黙って、眠る」
ロゼリアは何も言わなかった。
「私はそこで二年いました。二年間、料理を作れなかった。それが一番つらかった。……命を奪ったことより、料理を作れないことの方がつらかったのです。変でしょうか」
「変ではありません」
ロゼリアの答えは即座だった。
「あなたの罪がどれほど重くても、あなたの料理は誰かを生かしています。過去の罪も、今の贖罪も、どちらも消えることはありません」
今度はギフティオがロゼリアを見る番だった。こちらを見る彼の目は潤んでいる。でも、涙は零れなかった。すぐに笑顔が戻ってくる。この男は、泣く代わりに笑う人間なのだ。
「……ありがとうございます。ロゼリア様」
「礼には及びません。明日の朝食を楽しみにしています」
「ええ。任せてください。明日は少し、腕を振るいます」
ロゼリアは厨房を出た。
廊下を歩きながら、深罪区のことを考えた。暗くて、寒くて、音がない場所。ギフティオが二年間いた場所。今もそこに人がいる。
近付く理由は、ない。常罪区のこともまだ片付いていないのに。ドルグの背後にある影も、ルカのことも。積み残しは山ほどある。
だが——深罪区という場所が、ロゼリアの視界に入った。今はまだ遠い輪郭。触れるにはきっと時間がかかる。
執務室に戻り、灯りをつけた。
テーブルの上に、常罪区の住民が届けてくれた布を広げた。織り目を指先でなぞる。灯りに照らすと、灰色だと思っていた布に、ほんのかすかな青い筋が混じっているのが見えた。織り手が、一本だけ色糸を入れている。気づかなければ分からないほどの、小さな主張。
ロゼリアはその糸に指を添えて、しばらく動かなかった。
この都市で、自分にできることは何だろう。濡れ衣を着せられ送られた無力な女に、何ができるのだろう。
答えはまだない。だが今日、一つだけ分かったことがある。
灯は、返ってくるのだ。
ギフティオの罪の詳細については投稿した短編『世界で一番美味しい料理を、私は食べなかった』で語られています。単品で読める話になっているので、よろしければお楽しみください。




