表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冤罪令嬢、罪人都市の領主になる  作者: 野塩いぜ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/23

第15話 返されるもの

 『灯を返す』の本当の意味が分かったのは、三日目の朝のことだった。


 屋敷の門が叩かれ、テオドアが応対した。ロゼリアのいる部屋に駆け込んできた彼の顔が、珍しく緊張している。


「ロゼリア様。常罪区の住民が三名、衛兵に連れられてこちらに」

「衛兵に連れられて?」

「はい。門の衛兵が一人、付き添いで」


 ロゼリアは軽く身支度を整えた。呼吸を一度だけ深く吸い、吐く。「灯を返す」の伝言から三日。備えはしてある。テオドアが門を確認し、ヒルダが応接間を整え、ギフティオが厨房に控えている。カーラは——どこにいるか分からないが、おそらく廊下の隅で様子を窺っているだろう。


 玄関へ向かうと、扉の前に三人の女が立っていた。日に焼けた肌。使い古した衣服。常罪区の住民だと一目で分かる身なりだった。先頭に立っているのは太い声の女——ヴェーダだ。


 その後ろに、衛兵が一人いた。腕を組み、面倒そうな顔を隠そうともしていない。護衛というよりは見張りだった。常罪区の住民を外縁区に通すのだから、誰かがついていなければならない。余計な仕事を増やされた、と不満気な顔をしている。


 ロゼリアは少しだけ拍子を外された。衛兵もいる、ヴェーダのことも知っている。残りの二人は見覚えがないが、三人とも、手に何か持っていた。


 それは大きな布だった。それと、小さな木の箱がひとつ。


「領主代行のお嬢ちゃん」


 ヴェーダが口を開いた。太い声は相変わらずだったが、あの日——ドルグの前で「飯をくれるのかい」と詰め寄った時とは、調子が違う。


「灯を返しに来たよ」


 灯を返す。


 その言葉を、ロゼリアは三日間ずっと考えていた。火。報復。放火。備えをし、警戒を固め、門を確認し、衛兵に訊き、ルカと外縁区を歩き、帳簿を開きながらも頭の片隅で考え続けていた。


「……灯を、返す」


 ロゼリアが繰り返した。声が少しだけ硬くなる。


 ヴェーダがロゼリアを見て何かを読み取ったらしい。ふうん、と彼女の眉が上がる。


「あんた、まさか——怖がってたのかい?」

「……備えていただけです」

「灯を返すってのは、ここじゃ礼を言いに行くって意味だよ。知らなかったのかい」


 ロゼリアの思考が、一瞬だけ止まった。


 礼。


 灯を返す。灯りを返す。受け取った光を、返しに行く。


 火ではなかった。報復でもなかった。


 三日間、ロゼリアが警戒していたものの正体は——感謝だった。


 ヴェーダの後ろの二人が、手に持った布と木箱を差し出した。布は常罪区の贖罪労働で織ったものだろう。織り目が荒く、色は灰色。木箱を開けると、中に小さな石鹸が二つ入っていた。手作りらしい、不格好な形だ。


「物資が届くようになった。塩も穀物も。あんたが手を回したんだろう」

「ルカが――商人が運んだものです」

「手を回したのはあんただろう。住民の目は節穴じゃない」


 ヴェーダが素っ気なく言った。だが差し出す手は丁寧だった。


「大した物じゃない。けど、何もなしで灯を受け取りっぱなしってのは性に合わないんでね」


 ロゼリアは布と木箱を受け取った。


 王都で触れていたものとは何もかも違う、素朴な布だった。石鹸も形がいびつで、香りも素っ気ない。


 それでも、手の中にあるものは温かかった。


 重さがあった。物の重さではなく、人が作って持ってきたという事実の重さ。常罪区から門を通り、衛兵に頼み込み、外縁区を歩き、この屋敷まで来た。衛兵に拒まれて、三日目にようやく通された。そうやって、ここに来た。


「……ありがとうございます」


 ロゼリアの声が、かすかに震える。自分でも予想していなかった。こういう場面で声が震えたのは、いつ以来だろう。

 ヴェーダが目を丸くする。それから、ぶっきらぼうに言った。


「礼を言うのはこっちだよ。あんたが来なかったら、まだドルグの檻の中だ」


 後ろの二人が頷いた。名前は知らない。顔は、見たことがあるような気もする。あの日、集まっていた住民たちの中の二人なのだろう。


「中にお入りになりますか。お茶くらいは」

「いや、長居はできない。こっちの兄さんも暇じゃないだろうしね」


 ヴェーダが後ろの衛兵を顎で示した。衛兵は何も言わなかったが、早く済ませろと言いたげに体重を片足に移していた。


「あんた、これからも来るんだろう、常罪区に」

「……ええ。行きます」

「じゃあ、次に来た時は案内するよ。一人じゃ道も分からないだろう」


 それだけ言って、ヴェーダは踵を返した。衛兵が三人に「戻るぞ」と短く声をかけ、四人分の足音が外縁区の通りに遠ざかっていく。ロゼリアは玄関に立ったまま見送った。


 そして、手の中の布と石鹸を見下ろした。


 決して、質が高いと言えるものではない。


 でも——これは、ロゼリアが受け取った初めての贈り物だった。冤罪で追放されてから。この都市に来てから。誰かが自分のために何かを作り、届けてくれたのは、これが初めてだ。


 目の端が滲みだし、ロゼリアは慌てて息を吸った。


「ロゼリア様」


 後ろからヒルダの声がした。振り返ると、ヒルダが微笑んでいた。滅多に見ない、柔らかい笑顔。


「火ではありませんでしたね」

「……ええ。火ではなかった」


 ロゼリアが小さく笑った。笑ったら、少しだけ気が抜けた。三日間の緊張が、ゆっくりと解けていく。

 厨房からギフティオが顔を出した。


「お客様でしたか。ならお茶を――あ、もう帰られたんですね。せめて、何かお持ち帰りいただければ……」

「少し遅かったわね、ギフティオ」

「残念です。次はぜひ。お客様をもてなすのは料理人の本懐ですから」


 ギフティオが本気で残念そうな顔をしている。この男にとって、人を食事でもてなすことは何よりも大切なことなのだ。

 今度は廊下の奥から、カーラがおずおずと顔を出した。


「灯を返すって、そっちの意味だったんですね。良い意味って言ったじゃないですか、私」

「悪い意味かもしれないとも言っていましたよ」

「……記憶って曖昧ですよね」


 カーラがばつの悪そうに笑った。ロゼリアも笑った。屋敷の空気が、ふっと軽くなった。


 カーラがテーブルの上の石鹸を何気なく手に取った。鼻に近づけて、匂いを嗅ぐ。盗み癖のある人間は、物に触れずにはいられない。


 ふと、カーラの表情が変わった。


「……この匂い」

「どうしました?」

「いえ。何か……知ってる気がするんですけど」


 カーラは首を傾げたまま、石鹸をもう一度嗅いだ。何かを思い出しかけて、掴めない顔。それから「気のせいかも」と呟いて、石鹸をテーブルに戻した。


 ロゼリアはそれ以上訊かなかった。温かい空気を壊したくなかったのかもしれない。ただ、カーラの一瞬の表情が、頭の隅に小さく引っかかった。


***


 ルカがやって来たのは、その日の午後だった。


 納品の荷はいつもより少なかった。用事の本体は別にあったのだろう。応接間に通されたルカは、テーブルの上に置かれた布と石鹸を見て、足を止めた。


「それは?」

「常罪区の住民が届けてくれたものです。『灯を返す』の正体でした」

「……ああ」


 ルカが短く声を漏らした。それだけの音に、安堵が混じっているように聞こえた。


「ルカ。あなたは知っていたんですか? 灯を返すの意味を」


 ルカは一瞬だけ目を逸らした。それから、少し決まりの悪そうな顔で言った。


「……半分くらいは」

「半分、ですか」

「良い意味だろうとは思ってました。でも確信がなかったんで、言い切れなかった。万が一違ったら、あなたの警戒を緩めることになる」


 ルカが言葉を選んでいた。はぐらかしているわけではない。ただ言わなかった理由がそこにある。ロゼリアの安全を不確かな情報で揺らしたくないという、理由。


「今回は怪我もないようで、良かった」


 ルカが笑った。その目がひどく柔らかい。商人が取引先に見せる社交の表情ではなく、もっと素に近い顔。


「怪我のしようがありません。相手は布と石鹸でしたから」

「布と石鹸に三日間警戒していた領主代行がいるらしいですよ」

「うるさいですね」


 ロゼリアが少しむっとして返すと、ルカは声を出して笑う。屈託のない、力の抜けた笑い方だった。ロゼリアが彼のこの笑い方を聞いたのは、焚き火の夜以来だったかもしれない。

 ルカの視線が、テーブルの上の布に戻った。常罪区の労働で作られた布。その隣に、不格好な石鹸。

 ロゼリアはその布に手を伸ばし、指先で織り目をなぞった。


「綺麗な布です」


 ルカがロゼリアに視線を向ける。


 ロゼリアは気づいていなかった。自分が今、どんな顔をしているか。だが指先が布の上を滑る動きは丁寧で、声には温もりがあった。


「王都では見たことのない織り方。この都市独特のものなのでしょうか」


 独り言のように呟いて、今度は石鹸を手に取った。鼻に近づけると、素朴な草の香りがした。ロゼリアの口元にかすかな笑みが浮かぶ。誰かがこれを作って、自分のために持ってきてくれた。その事実が嬉しい。


 ルカは、ずっと黙っていた。


 ロゼリアが顔を上げると、目が合った。

 ルカはロゼリアを見ていたのだ。ロゼリアが目を上げた瞬間、ルカの視線が揺れる。

 一拍の間のあと、彼の方から目を逸らした。窓の方に、何でもない風を装って。だが首の動きがほんの少しだけ急だった。


「……良い贈り物ですね」


 声が、わずかに掠れていた。


「ええ。とても」


 ルカが何を見ていたのか、ロゼリアには分からなかった。ただ、目が合う直前のルカの表情に、見覚えのないものがあった。


 テオドアの言葉――取引相手を見る目ではない――がふと頭を過ぎったが、ルカが口を開いたことで消えた。


「常罪区の状況ですが」


 声が切り替わる。ここからは、商人としての報告だ。


「ドルグの影響力はだいぶ落ちてます。正規の物資が入り始めたことで、ドルグの物資に頼る理由が薄くなった。ヴェーダの周りに人が集まり始めていて、エミルもそっちと連携している。……今のところ、大きな衝突はありません」

「……良かった」

「ただし、ドルグ自身はまだ常罪区にいます。今は静かにしているだけです」


 つまり、次に動く時を待っているということだ。ドルグ自身か、あるいは、ドルグの背後にいる誰かか。

 まだ名前のない、何か。あの夜、執務室で感じた影が、ロゼリアの意識の底に沈んでいる。


「じゃあ俺はこれで。次の納品は三日後です」

「ありがとうございます。常罪区の件も」

「大した情報じゃないですよ」


 ルカが立ち上がり、扉に向かった。彼は振り返らなかった。ただ扉をくぐり抜ける前に、何か言おうとした気配があった。


 そんな気配だけを残して、ルカは部屋を出ていった。


***


 夜、屋敷が静まった頃、ロゼリアは厨房にいた。


 悪夢を見たせいで目が覚めてしまった。少し歩きながら水でも貰おうと厨房へ向かうと、明かりがまだ灯っている。中を覗けば、ギフティオが一人で、明日の仕込みをしていた。


「おや、ロゼリア様。こんな時間にどうされました」

「水をいただこうかと。……まだ仕込みですか」

「ええ。明日は少し手の込んだものを作ろうと思いまして。カーラが最近よく食べるようになったので、品数を増やしてやりたいのです」


 ギフティオの手が、玉ねぎを刻んでいる。均等な薄切り。一つ一つの動きが丁寧で、無駄がない。料理人の手だ。この手はずっと、誰かのために料理を作り続けてきた。

 ロゼリアは水を注ぎながら、ギフティオの横顔を見る。


 唐突に、点と点が繋がった。


 王都にいた頃、貴族の間で噂になった事件がある。ある貴族の家で起こった、毒殺事件。縁談のための顔合わせの席で料理に毒が盛られ、出席者が皆死んだ。その家の令嬢は行方不明となり、料理人が捕まったという話だ。あまりにも残酷で、理不尽な悲劇。それはあっという間に社交界に広まり、しばらくの間誰もがその話をしていた。


 ロゼリアも聞いた。ブランシュ伯爵家で起こった悲劇のことを。令嬢の名前は忘れてしまったが、「かわいそうに」と誰かが言っていたのは覚えている。毒を盛った料理人は、ダイダリーの深罪区送りになったと。他の国であれば死に値する罪だと。


 その料理人が、今、目の前で玉ねぎを刻んでいる。


 確信はなかった。だが、カーラが「深罪区にいただろう」と怯えたこと。ギフティオが深罪区に送られるほどの罪を犯したこと。料理人であること。浮かび上がった点と点が、静かに線を描いている。


「ギフティオ」


 声が自然に出た。


「はい」

「一つ、訊いてもいいですか」


 ギフティオの手が止まった。包丁を置き、ロゼリアを見た。穏やかな目。だがその奥に、覚悟のようなものがあった。この問いが来ることを、この男はどこかで予期していたのかもしれない。


「何でしょう」

「ブランシュ伯爵家の事件――犯人は、あなたですか」


 長い沈黙があった。

 厨房の灯りが揺れる。夜風が窓の隙間から入り込んだのだろう。ギフティオの影が壁に伸び、揺れ、戻った。


「……ご存知でしたか」


 ギフティオの声は静かだった。一言も否定しなかった。


「噂だけは。王都にいた頃に」

「噂、ですか。どんな噂だったのですか」

「料理人が顔合わせの席で毒を盛ったこと。出席者が死に、令嬢が行方不明になったこと。……それだけです」

「それだけ」


 ギフティオが繰り返し、小さく、悲しそうに笑う。


「それだけ、ですか。では、寝物語にお話しましょう」


 ギフティオは包丁を丁寧にまな板の脇に置いた。刃を自分の方に向けない。人に向けない。刃物を扱う者の所作だ。


「ブランシュ伯爵家に仕えて六年経った頃でした。自分はスープを任されていて」


 ギフティオの声は落ち着いていた。何度も反芻した記憶が、もう激しい波を立てなくなっている。


「その家にはお嬢様がお一人いらっしゃいました。体が弱くて、食が細い方で。何を作っても二口でカトラリーを置いてしまう」


 ギフティオの目が、遠くを見た。


「この方が食べられるものを作りたい。もう一口でもいい。そう思って、一年ほど試行錯誤を続けました。少しずつ、少しずつ。普通に召し上がれるようになった時——料理人として、あれ以上の喜びはありません」


 ロゼリアは黙って聞いていた。ギフティオの喜びは本物だったのだろう。でも彼の顔を見れば、その喜びに先があることは分かった。


「お嬢様が元気になると、ご家族の態度が変わりました。……『ようやく使えるようになった』と」


 グラスをなぞっていたロゼリアの指が止まる。


「縁談が入りました。相手の評判は——詳しくは申しません。ただ、お嬢様はよく知っておいでだった」


 ギフティオが言葉を切った。次の言葉が出るまでに、長い間があった。


「目の前で泣かれました。……嫁ぐくらいならいっそ、と」


 それ以上は言わなかった。言わなくても、ロゼリアには伝わった。


「私にあったのは、台所だけでした」


 ギフティオの声が低くなった。


「顔合わせの日に、スープに毒を盛りました。お嬢様にだけ、スープは召し上がらないでくださいと伝えて」


 短い言葉だった。だがその中に、全てがあった。


「……出席者が倒れた後で、別に用意しておいたデザートをお嬢様にお出ししました。それにも毒を入れて」


 ロゼリアは息を呑んだ。


「口にするかどうかは、お嬢様に委ねました。……それだけの、話です」


 ギフティオはそこで口を閉じた。


 彼は選ぶ権利を渡した。生きることも、死ぬことも。ギフティオは令嬢の代わりに人を殺した。だが、最後の彼女の命だけは、令嬢自身の手に残した。


「お嬢様がどうされたかは、分かりません。私はそのまま捕まりました」

「その方の行方は」

「誰も知りません。……知らない方がいいと、思っています」


 そう言ったギフティオの笑みは、祈りに似ている。

 沈黙が、厨房を満たした。

 ギフティオは人殺しだ。毒を盛り、人を殺した。それは事実だ。

 だが——最後の瞬間に、選択肢を奪わなかった。


 あの法廷でロゼリアから全てを奪った人々は、選択肢を与えなかった。結論は最初から決まっていた。

 ギフティオがしたことは、罪だ。それでも、胸の奥に何かが響いている。彼の行いが正しいとも正しくないとも、ロゼリアには断じられなかった。


「ギフティオ」

「はい」

「あなたがこの屋敷にいるのは、誰かが深罪区から引き上げたからですか」


 ギフティオが頷いた。


「前の領主様です。ルーディック様が、深罪区から私を連れ出してくださった」


 ルーディック。ルカを気に入っていた前領主。死んだ人間の名前が、また一つ、この屋敷の中に浮かぶ。


「理由は訊きませんでしたか?」


「一度だけ訊きました。ルーディック様は『腹が減ったから料理人が要る』とだけ仰った」


 ギフティオの表情が柔らかくなる。


「嘘に決まっています。でも、良い嘘でした」


 ロゼリアはギフティオをじっと見つめた。この男は毒で人を殺し、深罪区に送られ、前領主に引き上げられ、今ここで玉ねぎを刻んでいる。罪人としての過去と、料理人としての現在が、同じ手の中にある。


「ギフティオ。深罪区は——どんな場所ですか」


 ギフティオの笑みが、ゆっくりと薄くなった。消えたのではない。笑顔の下に、別の層が透けた。


「……暗い場所です」


 短い答えだった。


「暗くて、寒くて、音がない。人はいます。でも、声を聞くことはあまりない。みんな——黙っています。黙って、働いて、黙って、眠る」


 ロゼリアは何も言わなかった。


「私はそこで二年いました。二年間、料理を作れなかった。それが一番つらかった。……命を奪ったことより、料理を作れないことの方がつらかったのです。変でしょうか」

「変ではありません」


 ロゼリアの答えは即座だった。


「あなたの罪がどれほど重くても、あなたの料理は誰かを生かしています。過去の罪も、今の贖罪も、どちらも消えることはありません」


 今度はギフティオがロゼリアを見る番だった。こちらを見る彼の目は潤んでいる。でも、涙は零れなかった。すぐに笑顔が戻ってくる。この男は、泣く代わりに笑う人間なのだ。


「……ありがとうございます。ロゼリア様」

「礼には及びません。明日の朝食を楽しみにしています」

「ええ。任せてください。明日は少し、腕を振るいます」


 ロゼリアは厨房を出た。

 廊下を歩きながら、深罪区のことを考えた。暗くて、寒くて、音がない場所。ギフティオが二年間いた場所。今もそこに人がいる。


 近付く理由は、ない。常罪区のこともまだ片付いていないのに。ドルグの背後にある影も、ルカのことも。積み残しは山ほどある。


 だが——深罪区という場所が、ロゼリアの視界に入った。今はまだ遠い輪郭。触れるにはきっと時間がかかる。


 執務室に戻り、灯りをつけた。


 テーブルの上に、常罪区の住民が届けてくれた布を広げた。織り目を指先でなぞる。灯りに照らすと、灰色だと思っていた布に、ほんのかすかな青い筋が混じっているのが見えた。織り手が、一本だけ色糸を入れている。気づかなければ分からないほどの、小さな主張。


 ロゼリアはその糸に指を添えて、しばらく動かなかった。

 この都市で、自分にできることは何だろう。濡れ衣を着せられ送られた無力な女に、何ができるのだろう。


 答えはまだない。だが今日、一つだけ分かったことがある。


 灯は、返ってくるのだ。


ギフティオの罪の詳細については投稿した短編『世界で一番美味しい料理を、私は食べなかった』で語られています。単品で読める話になっているので、よろしければお楽しみください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ