第16話 罪人の技
石鹸の匂いのことが、ずっと引っかかっていた。
住民が届けてくれた贈り物を応接間のテーブルに置いたまま、ロゼリアは翌朝もそれを眺めていた。灰色の布と、不格好な石鹸。布の方は織り目を指でなぞるたびに温かさが蘇るが、石鹸の方はカーラの一瞬の表情が頭から離れない。
あの時カーラは何かを思い出しかけて、掴めなかった。「知ってる気がする」と言って、「気のせいかも」と引っ込めた。
気のせいではないかもしれない。
朝食を済ませた後、ロゼリアは応接間にカーラを呼んだ。
「カーラ。昨日の石鹸のことなのだけれど」
「石鹸……ああ、あの匂いの話ですか」
カーラが首を傾げた。
「もう少し詳しく思い出せませんか。どこで嗅いだことがある匂いなのか」
カーラはしばらく考え込んだ。目を閉じて、何かを辿っている顔だった。
「……常罪区で、夜の時間帯に作業場に連れて行かれたことがあるんです。ソルミナを作る場所。材料がいくつか並んでいて、独特の匂いがしていました。あの石鹸の匂いは、その中の一つに似ていた気がします」
ロゼリアはテオドアとヒルダも呼んだ。カーラの証言を共有すると、テオドアが真っ先に口を開いた。
「つまり、常罪区の住民が作った石鹸に、ソルミナの材料と同じ成分が含まれている可能性がある」
「住民が意図的に混ぜたわけではないでしょう」とヒルダが続けた。
「石鹸を作る時に手元にある材料を使っただけ。つまり、ソルミナの材料が常罪区の中に日常的にあるということです」
「その通りです」
ロゼリアは頷く。正規の物資が届くようになり、ドルグの影響力も弱まった。だがソルミナの供給そのものは止まっていない。材料が住民の手元に当たり前のように存在しているということは、どこかから流れ込み続けているということだ。
ロゼリアは厨房からギフティオも呼んだ。
「ギフティオ。あなたは毒や薬の調合の知識がありますか?」
ギフティオがは少し驚いた顔をして、それからゆっくり頷いた。
「薬草の知識ならあります。毒に使えるものは、裏を返せば薬にもなりますから。……複数の材料を組み合わせて効能を変える手法は、料理に似ていますね」
その言葉を受け、ロゼリアは覚悟を決める。
「皆さんの知識があれば、ソルミナの流通経路を推測できる可能性があります」
テオドアが眼鏡の位置を直した。
「ロゼリア様。それは、正規でない流通に正面から踏み込むということですか」
「ええ」
テオドアは一拍置いて、帳簿を取りに立った。反対はしなかった。この男は、ロゼリアの決定に口を挟むことはあっても止めることはない。
ヒルダが慎重に口を開く。
「常罪区の住民がソルミナに依存している構造は、エミルからも聞いています。正規の物資を入れるだけでは、依存そのものは解消されません。供給元を断つか、代替を作るか――いずれにしても、裏で動いているものの全容を把握しなければ手の打ちようがない」
カーラがおずおずと口を開いた。
「あの、私にできることがあるなら……何でも言ってください。盗むのは得意なので」
「盗まなくていいです」
「ですよね」
ロゼリアは小さく息を吐いた。横領犯に帳簿を預け、毒殺犯に台所を任せ、窃盗犯の嗅覚に頼る。どうかしている屋敷だが、このどうかしている場所でなければ辿り着けない答えがある。
ヒルダの指摘が正しければ、正規の物資を入れるだけでは何も終わらない。ソルミナの供給が続く限り、住民の依存は解消されない。ドルグの影響力は弱まった。だがドルグは仕切り役であって、ソルミナの供給元ではなかった。ドルグの上にいる誰か——まだ名前も顔も知らない存在が、表に出ない経路を動かし続けている。
あの夜、執務室で感じた影。ドルグの向こう側にいる何かが、まだこの都市を支配している。
根を断たなければならない。だが根の形が見えない。見えるようにするには、常罪区の裏側に入り込める人間の力がいる。
ロゼリアの頭に、一人の男の顔が浮かんだ。
***
ルカが来たのは夕刻だった。
納品の日ではない。ロゼリアが使いを出し、彼を呼び出したのだ。ルカは日が傾く前に屋敷に現れた。呼ばれたから来た、という以上の素早さで。
応接間で向かい合う。テーブルの上にはまだ常罪区の布が広げてあった。ルカがちらりとそれを見て何かを言いかけたが、結局それを飲み込んだ。
「お呼びと聞いて。何かありましたか」
ロゼリアはルカの目を見た。好奇心と、真剣さを同じだけ滲ませた瞳だ。彼の笑みの奥にあるものを、ロゼリアはまだ完全には読めない。
「ルカ。あなたの力を借りたいのです」
「……また、ですか」
「ええ。今度は、もう少し踏み込みます」
ロゼリアは状況を簡潔に伝えた。ソルミナの材料が常罪区の住民の手元に日常的に存在していること。正規の物資を入れても供給元が動き続けている以上、根本的な解決にはならないこと。その供給元を突き止めなければいけないこと。
「あなたは常罪区の事情に明るい。表に出ない物の流れを知っている、あるいは知る手段を持っているはずです」
黙って聞いているルカの表情が読めない。商人の顔でも、人好きのする青年の顔でもない。何かを測っているようだ。
長い沈黙が落ちる。
「報酬を用意します。納品の契約も見直しましょう。商人としてあなたに損はさせません」
ロゼリアが先に条件を提示した。これまでルカは常に条件をつけてきた。常罪区には一人で入る。縄張りの外に限る。商人としての枠組みの中で線を引いてから手を差し出す男だ。だから、こちらからも商人の言葉で話す。
しかし、ルカはゆっくりと首を振った。
「いりません」
思わず少しだけ目を見開いた。
「報酬も、契約の見直しも。……条件はありません」
ルカが条件をつけないのは、これが初めてだった。
「……いいんですか」
「良いも悪いもないですよ。あなたが必要だと言うなら、やりましょう」
声に力みはなかった。投げやりでもない。ただ静かに、決めたことを口にしている声だった。以前「男手が必要なら」と言った時の延長線上にある響き。でも、あの時より一段深い場所から出ている気がした。
ロゼリアはルカの目をもう一度見る。何を考えているのか、分からない。だが今この瞬間、ルカが嘘をついている気配はなかった。
「ありがとうございます」
「礼は結果を見てからにしてください。……まだ何もしてませんから」
そう言ってふわりと笑うルカに、ロゼリアは具体的な依頼を伝えた。常罪区の裏で動いている物の経路。何が、どこから、誰の手を経て、どこに届いているのか。カーラの証言とギフティオの知識で浮かんだ仮説を、現場の情報で裏付けたい。
「俺一人で調べてくることもできますが」
ルカが言いかけて、止まった。ロゼリアの顔を見て、何かを読み取ったらしい。
「……一緒に来たいんですね」
「ええ。自分の目で確かめたいのです」
「やっぱりそうですか」
ルカは溜息をつくような、笑うような、曖昧な顔をした。止めはしなかった。前のように「常罪区に入ってほしくない」とも言わなかった。ロゼリアがそれで折れないことを、もう知っている。
「分かりました。準備が整ったら連絡します。夜の常罪区は昼と別物ですから、それなりの支度がいる」
「お任せします」
「……前に変装した時の格好、まだ覚えてますか」
「帽子を被って猫背で歩く、ですか」
「ええ。あれの応用です。今回はもう少し手の込んだことをしますが、基本は同じ。俺の隣にいてください」
俺の隣にいてください。
その言葉を、ロゼリアは前にも聞いた。物資庫に潜入した朝、門に向かう道で。あの時は商人の指示だった。今もそうかもしれない。だが響き方が、少しだけ違う。
ルカが立ち上がり、扉に向かった。その背中を見送りながら、ロゼリアは考えていた。
この男を信じると決めた。引き出しの中にある粒のことは、消えていない。ルカが常罪区で見せた別の顔のことも、全部覚えている。
だが、覚えていることと、決めつけることは違う。
「ロゼリア様」
「はい」
「……呼んでくれて、良かったです」
何が、どうして。……それは、聞けなかった。ルカもそれ以上は言わずに、出ていった
一人になった応接間で、ロゼリアはテーブルの布に目を落とした。灰色の中に混じる、一筋の青。
信じると決めた。でも、目は開けておく。
その二つは矛盾しない。矛盾させないと、決めたのだ。
第三章開始です。より一層都市の闇へと踏み込みます。どうぞお楽しみください。




