第17話 見せしめ
夜の常罪区は、昼とは別の場所だった。
ルカが先を歩き、ロゼリアが後ろについていく。変装は前と同じ——帽子を深く被り、ルカの替えの上着を羽織った、荷担ぎの助手。だが今回は門の検問がない。ルカが知っている裏の道を使って、常罪区との境界をすり抜けた。こんな道を知っている時点でこの男がどちら側の人間なのか考えてしまうが、今はそれを呑み込む。
「足音を立ててください。静かすぎると逆に目立つ」
ルカの声は低く、だが落ち着いていた。この場所に慣れた人間の声だ。ロゼリアは意識的に足を踏み鳴らした。石畳ではなく土の道。昼間に来た時の常罪区とは、通りの匂いからして違う。
夜間の常罪区には、昼にはない動きがあった。建物の隙間を行き来する影。低い声で何かを受け渡す人の気配。壁に寄りかかって休んでいるように見える男の手元に、小さな包みがある。
ソルミナだ、とロゼリアは思った。カーラが話していた通り、住民の日常にソルミナが溶け込んでいる。夜も働かされている住民たちは昼の労働に加えて二度目の仕事をこなし、その体を支えるためにソルミナを摂っている。供給元が断たれない限り、この構造は変わらない。
ルカは手慣れた様子でロゼリアを路地の影に導きながら、時折すれ違う人間に軽く顎を引いて見せた。知り合いなのだろう。商人として常罪区に出入りする中で作った関係か、あるいはそれ以外の何かか。
ルカが角を曲がった時、ロゼリアの足が止まる。
路地の突き当たりに、人が倒れていた。
いや、倒れているのではない。壁にもたれかかり、座り込んでいた。膝を抱え、頭を垂れている。衣服はひどく汚れ、体は痩せて、髪が伸び放題になっていた。常罪区の住民にも、ここまでやつれた人間はそういない。
ルカも気づいていた。だが足を止めなかった。視線を逸らそうとしたのが分かった。
「ルカ」
ロゼリアが呼び止めた。ルカの背中が一瞬こわばる。
「……あの人は」
「放っておいてください。関わらない方がいい」
ルカの声はひどく硬かった。
ロゼリアはルカの言葉を無視したわけではない。だが、やつれた男の横顔に見覚えがあったのだ。暗がりの中でもその輪郭が分かる。あの体格。あの横顔。
物資庫の前で腕を組み、衛兵たちを仕切っていた男。検問でルカに嫌味を言い、ロゼリアに「罪人に俺たちが裁けるのか」と吐き捨てた男。
鍵を地面に放って、降伏した男だ。
「……あの時の衛兵、ですね?」
ルカは答えない。答えないことが、そのまま肯定になっていた。
ロゼリアが数歩近付いても、男は顔を上げなかった。眠っているのか、意識があるのかも分からない。だが呼吸はある。浅く、不規則だが、生きてはいる。
見れば分かることがあった。この男は衛兵の装備を全て剥がされていた。外縁区で着ていた制服はなく、常罪区の住民が着るような粗末な衣だけを纏っている。衛兵の管轄から外され、常罪区に放り込まれたのだ。
だが、それだけでは人はこうまでやつれない。常罪区の住民には贖罪労働のノルマがあるが、最低限の配給もある。この男には、それすら届いていないように見えた。
「住民が助けないのは分かります。配給を横流ししていた人間に、同情する理由はないでしょう」
ロゼリアが呟くと、ルカが短く息を吐いた。
「……ええ。住民にとっては、自分たちを飢えさせていた原因です。落ちぶれたところで手を差し伸べる人間はいない」
「でも、これは罰ではない」
ルカがロゼリアを見た。
「この人がしたことは罪です。配給を横流しし、住民の暮らしを圧迫した。その責任は問われるべきです。でも今この人が受けているのは、正当な罰でも贖罪でもない。誰かの都合で見せしめにされている」
ルカの顔から、表情が消えた。まるですべての感情を押し殺しているようだ。
「誰がこうしたんですか」
答えは、返ってこなかった。
ロゼリアはしばらくルカの顔を見ていたが、問い詰めることはしなかった。代わりに、やつれた男に近づき、しゃがみ込んだ。
「聞こえますか」
男がゆっくりと顔を上げた。窪んだ目が、ロゼリアを捉えた。焦点が合うまでに時間がかかった。
「……誰だ」
かすれた声。かつての威圧は影も形もなかった。
「領主代行のロゼリア・グランツフェルトです」
男の目が見開かれた。帽子の下のロゼリアの顔を認識して、何かが男の中で動いた。恐怖か、怒りか、あるいは恥か。唇が震えたが、言葉にならなかった。
「あなたがここにいる理由を教えてください」
男はしばらく黙っていた。それから、かすれた声で断片的に話し始めた。
物資庫の一件の後、男は処分を受けた。だがそれだけでは終わらなかった。衛兵の詰所から外され、常罪区に放り込まれた。そうなるように、誰かが手を回した。衛兵の中にも、常罪区の住民の中にも、この男に食事を分ける人間はいなかった。
「……俺は、捨てられたんだ。使えなくなったから」
男がうつむいた。
「いるんだよ。裏の仕切りを動かしてる、商人みたいなやつが。そいつはドルグの上にいて、衛兵の一部もそいつに買われてた。……俺もだ」
ロゼリアの呼吸が止まった。
「名前は」
男がロゼリアを見た。落ち窪んだ目の中に、残った怒りの欠片が燃えている。
「……クレイヴ」
その名前が、夜の空気に落ちた。
クレイヴ。
ドルグの上にいる存在。衛兵すら買収していた人間。使えなくなった駒を切り捨て、この都市の裏側を支配している名前。
ロゼリアはその名前を、胸の中に刻んだ。名前のない影に、ようやく輪郭が与えられた。
気付けば背後にルカが立っていた。彼は何も言わない。壁に肩を預け、腕を組み、暗がりの中で動かずにいる。その顔を見ようとしたが、帽子の影に隠れて表情が読めなかった。
ロゼリアは立ち上がった。
「この人をこのままにはしておけません」
「……どうするんですか。屋敷に連れて帰るわけにもいかないでしょう」
ルカの声は平坦だった。反対しているのではない。ただ、ロゼリアがどう動くかを見ている。
「エミルに会います。最低限の食事と水を届けてもらえるよう、頼みたい」
「あの衛兵は、ここの住民にとっては敵ですよ。エミルもヴェーダも、良い顔はしないでしょう」
「分かっています。だから私が直接頼みます。――エミルのところまで案内してもらえますか?」
ルカが少しの間、ロゼリアの顔を見ていた。暗がりの中で、ルカの目だけが光を拾って微かに光っている。何か言いかけた口が閉じて、代わりに小さく頷いた。
ルカの後について路地を二つ曲がると、建物の裏手にエミルがいた。仲間と何か話し込んでいたらしく、ロゼリアの姿を見て目を丸くする。
「ロゼリア様? こんな時間にどうして——」
「頼みがあります」
ロゼリアは単刀直入に伝えた。常罪区の隅でやつれている元衛兵に、最低限の食事と水を届けてほしいと。
エミルの顔が固くなった。
「……あの衛兵に、ですか」
「ええ」
「あの男がここにいるのは自業自得でしょう。配給を横流しして、自分達だけ良い思いをしてた!」
エミルの声に怒りが混じった。当然の反応だった。ロゼリアは否定しなかった。
「あの人がしたことは罪です。それは間違いない。でも今あの人が受けているのは、罰ではありません。誰かの都合で捨てられただけです。――罪には正当な罰と贖罪があるべきで、見せしめに使われていいものではありません」
エミルは黙った。ロゼリアの言葉を噛んでいる顔だった。
「……ヴェーダにも話しておきます。ただ、俺は賛成しているわけじゃないですよ」
「分かっています。ありがとう」
エミルは渋い顔のまま、仲間の方に戻っていった。
ルカはそのやり取りの間、一歩引いた場所に立っていた。ロゼリアがエミルに頭を下げる姿を、暗がりの中でただ見ていた。
あの衛兵がしたことを許したわけではない。塩を横流しし、住民を飢えさせ、死体が歩く原因を作った人間だ。だがその罪への罰は、制度の中で与えられるべきものだ。誰かの都合で生かすも殺すも自由にされるものではない。
それでは冤罪と同じ構造になってしまう。結論を誰かが決めて、本人には選ぶ余地がなく……追い詰められるだけ。
帰り道、二人は並んで歩いた。夜の常罪区を抜け、外縁区との境界に近づくにつれて、空気が少しだけ軽くなる。
「ルカ」
「はい」
「クレイヴという名前。あなたは知っていましたか?」
ロゼリアはルカの横顔を盗み見た。暗がりの中、彼の表情を正確に読み取ることはできない。
「……名前くらいは。常罪区に出入りしていれば、噂程度に聞く名です」
噂程度。ルカの答えはいつもこの境界線の上にある。知っているとも知らないとも言い切らない場所。
ロゼリアはそれ以上訊かなかった。
今夜知ったことは二つ。クレイヴという名前と、ルカがその名前を聞いた時に沈黙したということ。
屋敷が見えてきた。門の灯りが暗闘の中にぽつりと浮かんでいる。
「ロゼリア様」
ルカが足を止めた。ロゼリアも立ち止まる。
「あなたは、あの衛兵を見捨てないんですね。……俺は、そういうことはできない人間です」
ロゼリアはルカを見た。ルカは前を向いていた。屋敷の灯りを見つめている目に何が映っているのか、分からなかった。
「自分にとって得にならない人間を助けるのは、理屈に合わないことだと思うんですよ。商人としては」
「商人としては」
「……ええ。商人としては」
それ以上は言わなかった。商人としては理屈に合わない。では商人ではない部分のルカはどう思ったのか。その問いを、ルカは自分からは口にしなかった。
「おやすみなさい、ロゼリア様。次の納品の時に、常罪区の様子を見てきます」
「ルカ」
呼び止めると、ルカが半身だけ振り返った。
「あなたにも私にも、できることとできないことがあります。だから……あなたの力が必要なのです」
ルカが、ほんの一瞬だけ、目を細めた。笑みとは違う。何かが胸を突いたような、痛みに似た表情。すぐに消えた。
「……おやすみなさい」
ルカが夜に消えていった。
ロゼリアは屋敷の門をくぐった。灯りの下で、自分の手を見た。泥がついていた。さっき衛兵の男のそばにしゃがんだ時についたものだ。
クレイヴ。
名前を、もう一度胸の中で繰り返した。戦う相手が見えた。あの衛兵を見せしめにし、ドルグを駒にし、この都市の裏を支配してきた人間。
だがそれ以上に引っかかるのは、ルカだった。クレイヴの名前を聞いた時に黙ったルカ。あの衛兵を見つけた時、目を逸らそうとしたルカ。「そういうことはできない人間です」と言ったルカ。
彼は何を知っていて、何を隠しているのか。
引き出しの中の粒が、また脳裏をよぎった。




