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冤罪令嬢、罪人都市の領主になる  作者: 野塩いぜ


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第18話 神官の正論

 シグベルから呼び出しを受けたのは、常罪区の夜から二日後のことだった。


 使いの者が屋敷を訪ねてきて、「教会にお越しいただきたい」と告げた。理由は言わなかった。シグベルらしい、と思った。この人はいつも、必要なことだけを口にして、それ以上は語らない。


 ロゼリアは一人で屋敷を出た。外縁区の教会は歩いてすぐの距離だし、今の外縁区でロゼリアが襲われる心配はない。配給を正し、物資庫の不正を暴き、灯を返しに来てくれる住民がいる場所だ。ヒルダが「お供しましょうか」と訊いたが、断った。シグベルの用件が何であれ、使用人を連れて行く場面ではないと感じていた。


 外縁区の教会は石造りの小さな建物だ。尖塔もなければ装飾もない。王都の大聖堂とは比べるべくもない質素さだが、行き届いた掃除と神の彫像だけが、この場所を信仰の場として保っている。


 扉を開けると、教会の中は薄暗かった。窓から差し込む光が石の床に細い線を引いている。奥にシグベルの姿が見えた。


 シグベルは、一人ではなかった。


 祭壇の前に、一人の男がうずくまっている。痩せた体。震える肩。男はシグベルの足元にすがりつくようにして、声を絞り出していた。


「お願いします……ここから出してください。もう耐えられない。毎日、毎日、同じことの繰り返しで……償いたくないわけじゃないんです。でも、体が。もう体が言うことを」


 声が途切れ、嗚咽に変わった。男の指がシグベルの衣の裾を掴み、離さない。


 シグベルは男を見下ろしていた。銀の髪が薄い光を受けて静かに光っている。その顔に浮かんでいるのは、冷たさではなかった。かといって同情でもなかった。もっと深い場所にある、揺るがない何か。


 シグベルが膝を折り、男の目の高さに顔を合わせた。震える肩にそっと手を置く。


「あなたはまだ、償っていない」


 穏やかな声だった。優しくすらあった。だがその言葉の中身に、温かさはない。


「あなたの罪は消えていません。この都市を出ることはできません」


 男の嗚咽が止まった。シグベルの目を見ている。その目に浮かんだのは絶望か、あるいは、どこかで分かっていたという諦めか。


「……いつ、出られるんですか」

「神がお許しになった時です」


 シグベルの声に揺らぎはなかった。男の手が衣の裾から離れた。しがみつく理由がなくなったのだ。この人は動かない。


 シグベルが男の肩を支えて立ち上がらせた。「体がつらいのであれば、病院で診てもらいなさい。手配します」と短く告げ、教会の入り口にいた助手に男を預けた。


 男が連れていかれた後の教会に、沈黙が残る。

 ロゼリアは入り口に立ったまま、動くことができなかった。


 シグベルが振り返る。ロゼリアの存在には気づいていたのだろう、驚いた様子はなかった。


「お越しいただけましたか。……見苦しいところを」

「見苦しくはありません」


 ロゼリアは教会の中に足を踏み入れた。


「ああいった方は、多いのですか」

「多くはありません。ですが、いなくなることもない」


 シグベルが祭壇の前の椅子を示した。ロゼリアが腰を下ろすと、シグベルは向かいには座らず、祭壇の横に立ったままだった。ここが彼の場所だということを、自然に示している。


「今の方は、体がつらいと言っていました。……ソルミナのことですか」


 シグベルの目がわずかに動いた。


「お気づきでしたか」

「常罪区の状況を見れば、想像はつきます」

「ええ、その通りです」


 シグベルが短く認めた。そしてロゼリアは、踏み込んだ。


「シグベル様。あなたはソルミナのことを知っていた。……クレイヴの名前も」


 シグベルの沈黙は短かった。


「ええ。知っています」


 この人は知っていた。ロゼリアが帳簿を調べ、常罪区に足を運び、ドルグと対峙し、夜の常罪区でやつれた衛兵からようやく聞き出した名前を、シグベルは最初から持っていた。


「なぜ、言わなかったのですか」

「言ったところで、あなたは今より早い段階でクレイヴに手を伸ばしたでしょう。それでは意味がない」


 シグベルの声は穏やかなままだった。さっき罪人に「まだ償っていない」と告げた時と同じ声。当たり前のことを当たり前に言う、揺らがない声。


「クレイヴの根はこの都市の深くまで伸びています。衛兵の一部にも、常罪区の住民の中にも協力者がいる。おそらく都市の外にも。今あなたが見ているのは、表面に出た枝葉にすぎません」

「だからといって——」

「全ての経路を把握し、関わる人間を炙り出してから、一度に断ちます。中途半端に枝を刈れば根が地下に潜って、別の場所からまた芽を出すでしょう」


 ロゼリアはシグベルの目を見た。穏やかな青い瞳の奥に、鋼のような芯がある。この人はずっとこの計画を持っていた。ロゼリアがこの都市に来るよりも、前から。


「その間、住民はソルミナに依存したまま待つのですか」

「はい」


 短い答えだった。正直で、冷たかった。


「全員を救うことと、都市を救うことは、同じではありません」


 ロゼリアの指が膝の上で握られた。


 シグベルの言葉は正論だった。一つ一つが理にかなっている。中途半端に叩けばクレイヴが逃げる。全容を掴んでから動く方が確実。論理としては正しい。


 それでも。ロゼリアはそれを良しとすることはできない。


「住民はそれを知っているのですか。あなたの計画を。自分たちがまだ耐えなければならないことを」


 シグベルは答えない。その沈黙こそが、答えだった。


「ソルミナのせいで、この都市の償いは歪められています」


 ロゼリアの声は落ち着いている。悔しさが滲んでも、揺れることはない。


「罪人には償いが必要です。それを否定するつもりはありません。罪を犯した人間がいて、その人の罪で苦しんだ人がいる。償いなしに許されていいとは思わない。でも今、常罪区の住民が強いられているのは償いではありません。ソルミナなしでは昼の労働に耐えられない体にされ、ソルミナを得るために夜も働かされている。罪に向き合い、自分の意志で償うという選択肢が奪われている。……これは贖罪ではなく、搾取です」


 教会の中に声が響く。シグベルがロゼリアを見る目にわずかな驚きがあった。ロゼリアが罪人を無条件に擁護すると思っていたのかもしれない。だが、そうではなかった。ロゼリアは聖女ではなく、領主代行なのだ。


「シグベル様の計画は正しいのかもしれません。でもその計画の中で、住民は何も選べない。知らされることもない――それではまるで、」


 言いかけて、止まる。飲み込んだ。シグベルはロゼリアをじっと見ていた。何を飲み込んだか、この人にはおそらく知っている。


「……あなたは優しい方だ」


 シグベルが言った。


「ですが、優しさだけでは都市は守れません」

「分かっています。それでも、やり方を変えるつもりはありません」


 シグベルは微笑んだ。穏やかで、どこか悲しい笑みだった。


「そうですか」


 非難ではなかった。ロゼリアがどういう人間で、どういう道を選ぶのか。シグベルはそれを確かめに来たのだ。


 沈黙が降りた。窓から差し込む光の角度が変わり、神の彫像に影が落ちている。


「シグベル様。もう一つだけ」

「何でしょう」

「ルーディック様は。——前の領主も、クレイヴに辿り着こうとしていたのですか」


 シグベルの手が、祭壇の縁で止まった。


「……ルーディック様は、聡明な方でした」


 答えになっていない答えだった。だがシグベルの声に、これまで聞いたことのない響きがあった。悼むような、悔いるような。


「聡明すぎたのかもしれません」


 それ以上は言わなかった。ロゼリアも訊かなかった。だが胸の中に重い石が一つ増えた。


 ルーディック。ギフティオを深罪区から引き上げた人。ルカを屋敷に出入りさせていた人。クレイヴに辿り着こうとして——そして死んだ。


 ロゼリアは立ち上がった。


「お時間をいただきありがとうございます」

「いいえ。……ロゼリア様」


 シグベルがロゼリアの背に声をかけた。


「私はあなたの敵ではありません。ただ、道は異なるようですね」

「分かっています」


 振り返らずに答え、教会を出た。


***


 昼の光が目に刺さった。


 外縁区の通りはいつも通りで、住民が行き交い、配給の列が遠くに見える。何も変わっていないように見える日常。だがその下にシグベルの計画があり、クレイヴの根があり、ソルミナが流れている。


 頭の中がざわついていた。シグベルの言葉と、ルーディックの死の影。整理がつかないまま、屋敷に向かって歩いている。


 路地の角を曲がった時だった。


「領主代行殿」


 誰かがロゼリアを呼んだ。


 足を止めて振り返ると、建物の影に男が立っていた。見覚えのない顔だ。痩せた男で、目が鋭い。常罪区の住民ではなさそうだった。外縁区の住民とも違う。罪人にしては、身なりが整いすぎている。


「どなたですか」

「名乗るほどの者ではありません。お伝えしたいことがあるだけです」


 男はロゼリアに近づかなかった。建物の影から一歩も出ない。距離を保ったまま、淡々と話した。


「前領主ルーディック様の死因について。お調べになった方がよろしいかと」


 ロゼリアの呼吸が止まった。ついさっき、教会でシグベルに尋ねたばかりの名前。


「……あなたは何を知っているのですか」

「私は何も。ただ、レインという医師の処方記録と、この都市に入ってきた薬草の納品記録を見比べてみることをお勧めします」


 男はいかなる感情ものせずに告げる。


「……お調べになれば、分かることです」


 ロゼリアの頭の中で、何かが鳴った。耳鳴りに似た、高い音。

 レインの処方記録。薬草の納品記録。見比べろ、と。


「……なぜ、私にそれを」


 男は答えなかった。微かに口元を動かした。笑みとも言えない、薄い表情。


「真実を知る権利は、領主代行のあなたにあるでしょう」


 それだけ言って、男は建物の影に溶けるように消えた。追いかけようとしたが、路地を覗き込んだ時にはもう姿がなかった。


 ロゼリアは路地の入り口に立ち尽くす。


 手が震えていた。


 レインの処方記録と、薬草の納品記録。この都市に物を持ち込んでいる人間は限られている。正規の商人で、屋敷に出入りを許され、ルーディックに気に入られていた男。


 ルカ。


 ルカの名前が、浮かんでしまった。振り払おうとしても消えてくれない。焚き火の夜の横顔が、「俺の隣にいてください」と言った声が、「呼んでくれて良かったです」と笑った顔が次々に蘇って、その一つ一つに毒が滲んでいくような感覚だった。


 壁に手をついた。吐き気がする。体の芯から何かが抜けていくような感覚に、膝が笑う。


 違う。まだ分からない。薬草がどんな意味を持つのかも分からない。薬草を持ち込んでいた商人が一人だとは限らない。あの男が何者かも知らない。嘘かもしれない。罠かもしれない。


 ——必死にそう思おうとしている。また。粒を並べた時と同じだ。理性が「まだ分からない」と繰り返すほど、感情の方が先に答えを出そうとする。


 シグベルの言葉が蘇る。「聡明すぎたのかもしれません」。あの声にあった悔いるような響き。ルーディックはクレイヴに辿り着こうとして死んだ。そしてその死について、「調べろ」と言われた。レインの処方記録と、薬草の納品記録を。


 引き出しの中の粒が脳裏をよぎる。ルカの香辛料に紛れていた、あの粒。ソルミナの材料だと分かった粒。常罪区での囁き。ドルグの縄張りを知っていた足取り。条件をつけずに協力を申し出た、あの不自然な優しさ。


 全部が繋がろうとしている。辿り着きたくない場所に向かって、線が伸びている。


 ロゼリアは壁から手を離した。深く息を吸った。吐いた。もう一度吸った。震えが止まらない。止まらないまま、歩き出した。


 屋敷に向かう道すがら、何度も足が止まりかけた。考えるな、と自分に言い聞かせた。まだ確かめていない。確かめもせずに決めつけることは、自分がされたことと同じだ。


 でもあの法廷で、ロゼリアを有罪にした人間たちも、こんな気持ちだったのだろうか。状況証拠が積み上がって、辿り着きたくない結論に辿り着いて、そしてそれを「正しい」と信じた。自分は今、同じことをしようとしているのか。それとも、目を逸らしているだけなのか。


 分からない。何も分からない。分からないことだけが確かで、その確かさすら頼りない。


 屋敷の門が見えた。ヒルダが玄関の前に立って、ロゼリアの帰りを待っている。


 あの中に、ルカが届けた品物がある。ルカの手が触れた荷が、この屋敷を――ロゼリアを支えている。


 ロゼリアは門の前で足を止めた。目を閉じ、息を整える。手の震えが、ゆっくりと収まっていく。


 目を開けた。ヒルダがこちらを見ている。何かを察した目だったが、訊かなかった。


「お帰りなさいませ、ロゼリア様」

「……ただいま戻りました」


 声が掠れた。ヒルダの目が細くなったが、それ以上は何も言わなかった。


 いつも通りの顔を作って門をくぐろうとした。作れたとは、到底思えなかった。


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