第19話 選べなかった言葉
翌朝、ロゼリアは執務室にテオドアを呼んだ。
教会から帰った夜は眠れなかった。壁に手をついて呼吸を整え、ヒルダに何でもない顔を作り、部屋に閉じこもって朝を待った。頭の中であの男の言葉が何度も繰り返される。レインの処方記録と、納品記録を見比べろ。
眠れないなら動こう。止まっていれば考える。考えれば、まだ確かめてもいないものに結論を出してしまう。
「テオドア。この屋敷への納品記録を全て出してください」
理由を言わなくても、テオドアは一つも訊き返さない。ロゼリアの顔を見て、眼鏡の奥の目を細め、ただ「少々お待ちを」と答えただけだった。
一時間ほどで、帳簿が三冊と別紙にまとめられた一覧がテーブルに並んだ。テオドアが屋敷への納品記録から品目を抜き出し、日付順に並べ直したものだ。
「ここの納品に限れば、およそ二年分です」
ロゼリアは一覧に目を通した。塩、穀物、油、香辛料、布、石鹸、蝋燭――日常の必需品に混じって、薬草の名がいくつかある。
「この中から、食料と日用品を除いてください。残るものだけの一覧が欲しい」
テオドアがペンを走らせた。必需品を消していくと、残ったのは薬草と香辛料の類が数品目。ロゼリアはその一覧を手に取り、立ち上がった。
「レイン様のところへ行ってきます」
テオドアが小さく頷いた。何も訊かなかった。だが眼鏡の奥の目に、覚悟に似たものが浮かんでいるのが見えた。
***
レインの診療所は外縁区の端にある。ロゼリアが訪ねると、レインはいつもの通り表情を動かさずに迎えた。この医師は感情を見せない人間だ。前領主の頃からこの都市にいて、住民の診察をしながら屋敷にも出入りしている。
「レイン様。一つ確認したいことがあります」
ロゼリアはテオドアが整理した一覧を差し出した。
「この中に、人体に害を及ぼすものはありますか」
レインは一覧を受け取り、品目を一つずつ読んでいった。指先が紙の上をゆっくりと滑る。顔色は変わらない。
「……いいえ。この中に、単体で毒性のあるものはありません」
ロゼリアは息を吐きかけた。――だが、レインの手が一覧の上で止まる。指先が、ある品目の上に留まったままだ。
「レイン様?」
レインは答えなかった。一覧から目を上げ、棚の方を振り返った。奥の棚に手を伸ばし、綴じられた記録帳を取り出す。ロゼリアが訊く前に、自分から。
レインが記録帳を開き、あるページを探し当てた。処方記録だった。ルーディックの名前が見える。
「レイン様、それは」
「……ロゼリア様。一つだけ、お伝えしなければならないことがあります」
彼の声は落ち着いていた。だが、指先がわずかに震えている。この医師が感情を見せるのを、ロゼリアは初めて目にした。
「この薬草は、単体では無害です。咳を鎮め、気管を広げる効能があり、食事に混ぜて摂るものとしては何の問題もありません」
レインが処方記録の一行を指で示した。
「ですが、私がルーディック様に処方していた薬と併用すると、血の巡りを過剰に速める。継続的に摂取すれば心臓への負荷が蓄積します」
ロゼリアの呼吸が止まった。
「……なぜ、注意されなかったのですか」
「この都市で薬草を扱うのは、専門の商人です。私が処方する薬との相互作用がある品目は、その商人との間で確認済みでした。正規のルートで入る限り、この薬草が屋敷に届くことはありません」
レインが一覧に目を戻した。
「この薬草が納品記録にあるということは、正規の薬草商ではない人間が持ち込んだということです」
沈黙が落ちる。
レインはそこで口を閉じた。だが閉じる直前、その目に何かが過ぎる。遠い視線は、ロゼリアではないどこかを見ていた。
「……ルーディック様を看取った時、遺体に不審な所見はありませんでした」
独り言のように、低い声だった。
「持病による心不全。経過としても不自然ではなかった。……不自然ではなかったのです」
不自然ではなかった。だからこそ、誰も疑わなかった。遺体に痕跡を残さず持病の悪化に見せかけて人を殺す方法を、誰かが最初から知っていた。
レインはそれ以上は言わなかった。処方記録を閉じ、棚に戻した。視線をロゼリアに戻した時には、医師の顔に戻っていた。
「お力になれることがあれば、いつでもお越しください」
ロゼリアはテオドアの一覧だけを手に、診療所を出た。
外の空気をゆっくりと吸う。朝の光が、妙に眩しい。
頭の中で、レインの言葉が組み上がっていく。正規の薬草商ではない人間が、この薬草を屋敷に持ち込んだ。正規のルート以外で物を持ち込める人間は限られている。屋敷に出入りを許されていて、香辛料や薬草を正規の品物と一緒に納品していた人間。
考えるまでもない。答えは最初から、ロゼリアの目の前にあった。
ルカだ。
足が止まる。外縁区の通りの真ん中で、ロゼリアは立ち尽くしていた。すれ違う住民が怪訝な顔をしているが、それどころではなかった。キンと耳鳴りがする。視界の端が暗くなりかけて、慌てて息を吸った。
まだ決めつけてはいけない。ルカがこの薬草を持ち込んでいたとしても、それが意図的だったかは分からない。咳止めに効く薬草を、善意で届けていただけかもしれない。処方薬との相互作用など知る由もなかったかもしれない。
——だが、あの男は言ったのだ。レインの処方記録と、納品記録を見比べろ、と。答えがそこにあると知っている人間がいる。
ルカに訊かなければならない。
ロゼリアは屋敷に向かって歩き出した。
***
ルカが屋敷に来たのは、その日の午後だった。
定期納品の日だ。いつもの荷を担いで、いつもの足取りで門をくぐり、いつもの笑みでテオドアに荷を預けた。何も変わらない。何も変わらないことが、ロゼリアの胸を抉る。
テオドアが検品を終えたところで、ヒルダが声をかけた。
「ロゼリア様が執務室でお待ちです」
執務室。そこはルカが通されたことのない部屋だ。応接間ではなく、ロゼリアの仕事場に呼ばれる。その意味を、ルカが読み取らなかったはずがない。
執務室の扉がゆっくりと開く音がする。ロゼリアは椅子に座り、テーブルの上にテオドアの一覧を広げて待っていた。
ルカが入ってきて、扉を優しく閉める。いつもの軽い足取り。だが部屋の空気を読んだのだろう、笑みは浮かべなかった。
「……改まった場所ですね」
軽口の形をした探りだった。ロゼリアは応じることなく、視線で椅子を指し示す。
「座ってください」
ルカが向かいの椅子に腰を下ろす。テーブルの上の一覧を見て、それから、ロゼリアの顔を見た。
「ルカ・フィッツ。確認したいことがあります」
ロゼリアは自分でも驚くほどに冷静だった。ここで崩れるわけにはいかないという貴族の矜持が、彼女を支えている。
「あなたがこの屋敷に納品していた品目の中に、一つ、気になるものがあります」
ロゼリアは一覧の一行を指で示した。
「この薬草。ルーディック様の在任中から、定期的に届けていましたね」
ルカの視線が、ロゼリアの指先に落ちる。一覧の上の文字を読んだ目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……ええ。届けていました」
否定は、されない。
「この薬草は、単体では無害です。咳止めに使われるものだと、レイン様に確認しました。……ですが、ルーディック様に処方されていた薬と併用すると、心臓に深刻な負荷をかける」
ルカの呼吸が変わった。吸い込んだ空気を止めて、それからゆっくりと吐いた。
「この都市で薬草を扱うのは正規の薬草商で、レイン様の処方薬との禁忌品目は事前に確認されていた。正規のルートでは、この薬草は屋敷に届かない。……つまり、正規の薬草商ではない人間が持ち込んだ」
声が淡々と事実を並べていく。領主代行の仕事。帳簿を読み、記録を照合し、結論を導く。いつもやっていることだ。いつもと同じだ。同じはずだ。
ルカは否定しなかった。言い訳もしなかった。テーブルの上の一覧を見つめたまま、動かなかった。
「……知っていたんですか?」
ロゼリアの声が、わずかに低くなった。
「あなたが届けた薬草が死の原因になると、いつ知りましたか。ルーディック様が亡くなる前ですか、それとも後ですか?」
長い沈黙があった。執務室の窓から午後の光が差し込み、テーブルの上に薄い影を作っている。
ルカが口を開いた。
「……後です」
声が掠れていた。飄々とした調子が消えている。残っているのは、剥き出しの本音だけだった。
「俺は知らなかった。咳止めに効くものだと、そう聞かされていた。ルーディック様の持病のことも、レイン先生が何を処方しているかも、何も知らなかった。……ルーディック様が亡くなった後で、お前が運んでいた薬草のせいで死んだと教えられました」
「誰にですか?」
答えは分かっている。それでもロゼリアは、聞かずにはいられなかった。
「……クレイヴです」
ルカの手が、膝の上で白くなるほど強く握られている。
「俺は昔からずっと――ずっと、あの男に、逆らえない」
ロゼリアは動かない。椅子の上で背筋を伸ばしたまま、ルカの言葉を一つ残らず聞いていた。
知らなかった。咳止めだと思っていた。後から教えられた。
理屈は通る。ルカの声に嘘の気配はない。この男がどれほど器用に笑顔を作れるか知っている。でも、今話している彼のすべてが本物だ。それだけは分かる。
分かるのに――
「では、なぜ黙っていたんですか?」
ロゼリアは意図せず自分の声が変わったことに気が付いた。しかし、直せない。一度発した言葉は止まらない。
「知らなかったことは、あなたの罪ではないかもしれない。でもあなたは、知った後で黙っていた」
胸の奥で、ずっと押さえつけていたものが膨れ上がっている。
「あなたはいつでも言う機会があったはずです」
ルカが顔を上げ、ロゼリアの目を見た。叱られる子どものような――途方に暮れた、老人のような表情で。
「常罪区に案内してくれた時も。クレイヴの名前を聞いた時も。……あなたは全部知っていて、何も言わなかった」
声の震えが止められない。ずっと蓋をしていた感情が、今溢れ出そうとしている。
「私はあなたを疑った。何度も疑って、それでも信じると決めた。証拠もなく人の罪を決めつけることは、私がされたことと同じだから。だから信じることを選んだ」
声が大きくなっていた。自分で制御できない。抑えようとしても、喉の奥から押し上げてくるものの方が強い。
「——でもあなたは、私の選ぶ権利を奪っていた!」
執務室に声が響いた。叫びに近かった。ロゼリアが声を荒げたのは、この都市に来てから初めてだった。自分の声の大きさに、自分で驚いている。
「信じるか疑うかを自分で決めた、と思っていました。でも違った。あなたが黙っていたから、私には本当のことを知った上で選ぶ機会がなかった。あなたは——」
声が途切れた。喉が詰まる。言葉にすれば、あの法廷と重なってしまう。重ねたくない。ルカとあの場所を重ねたくない。でも——
「あなたは、私を騙して……選ぶべき道を、遠ざけた」
執務室に沈黙が落ちる。
ルカの顔から、全ての表情が消えていた。飄々とした笑みも、商人の仮面も、何もない。ただ、ロゼリアの言葉を正面から受け止めた青年の顔だけがあった。
そしてルカの唇が、震えながら開く。
「……分かってます」
酷くかすれた音だった。
「全部分かってる。あなたに嘘をついていたことも、信頼を踏みにじっていたことも。言い訳なんかひとつもありません」
ルカの声が低く、途切れ途切れに続く。
「俺には、こんなやり方しかできなかった。黙ったまま、せめてあなたに火の粉が降りかからないようにそばにいるしか――選択肢を奪ってでも守るやり方しか、知らなかった」
膝の上の拳が震えている。
「分かってはいたんです。ずっと。いつかこうなると。あなたは賢いから、いつか辿り着く。辿り着いた時に、俺が何を言っても届かないことも。——分かっていて……それでも、」
声が止まる。
それでも。その先にある言葉を、ルカは飲み込んだ。それだけは言えなかったのだと、ロゼリアには分かった。だから、飲み込まなければならなかったと。
執務室の中で、二人の呼吸だけが聞こえる。
ルカの目が赤くなっている。泣いてはいない。泣くことすらできない顔だった。自分が泣く権利など持っていないと知っている人間の顔。
ロゼリアは息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。
椅子の脚が床を擦る音が、静かな部屋に響いた。ルカが顔を上げる。ロゼリアの表情を見て、何かを覚悟した目になった。
「出て行ってください」
ロゼリアの声はさっきまでの激しさが嘘のように、低く、硬く、冷たい。
「今は――あなたの顔を見たくありません」
ルカが無言のまま立ち上がった。椅子を引き、小さく足音を立てて扉に向かう。
その背中が一瞬だけ止まった。何か言おうとしたのかもしれない。振り返ろうとしたのかもしれない。
だがルカは何も言わず、振り返らず、扉を開けて出ていった。
ゆっくりと閉まる扉の音が、執務室に響いた。
***
足音が廊下の奥に消えるのを聞きながら、ロゼリアは立ち尽くしていた。
ルカが遠ざかっていく。屋敷の玄関が開き、閉まる音がする。それも消えて、完全な静寂が戻る。
その時になって、ロゼリアの膝が折れた。
椅子の縁を掴もうとして、掴めなかった。そのまま床に膝をつく。手のひらが床に触れて、そこでようやく、自分が震えていることに気づいた。
怒りだと思っていた。裏切りへの怒りだと。でも違う。怒りの下にあったのは、もっと奥の、もっと柔らかい場所にあるものだった。
信じたかった。
最後まで信じていたかった。疑って、それでも信じると決めて、その選択が正しかったと思いたかった。ルカが何も隠していないと。あの笑顔の裏に何もないと。「呼んでくれて良かったです」と言った声が、全部本当だと。
本当だったのかもしれない。守りたかったという言葉は、嘘ではなかったのだろう。それでも。それでも、黙っていたことは消えない。
涙が頬を伝い落ちる。
その感覚にロゼリアは自分でも驚いた。泣くつもりなどなかったのだ。泣くような場面ではない。ロゼリアは怒っている。裏切られて、選択肢を奪われて、それに対して怒っている。怒っている人間は泣かない。泣いてはいけない。
でも零れ落ちる水滴は止まらなかった。声は出ず、嗚咽もない。ただ涙だけが、ぽたり、ぽたりと床に落ちて、小さな染みを作る。
焚き火の夜の横顔が浮かんだ。「俺の隣にいてください」と言った声が聞こえた。常罪区の暗がりで、ロゼリアを人目から隠してくれた背中が見えた。屋敷の門の前で「あなたの力が必要なのです」と伝えた時の、痛みに似た顔。
全部が嘘ではなかった。でも全部が本当でもなかった。その間のどこかに、ルカがいた。
テーブルの上に、広げたままの一覧がある。テオドアの整理した納品記録。数字と文字が並んでいる。帳簿は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも人間の方だ。
だから、ロゼリアが本当に知りたいことは――帳簿には載っていない。
涙が乾く頃にはもう、執務室に夕日が差し込んでいた。
第三章はここまでとなります。明日からは第四章の更新です。道を分かたれたロゼリアとルカ、忍び寄るクレイヴの影。サスペンスの空気が強くなってまいりましたが、どうぞよろしくお願いします。




