第20話 崩れた灯
ルカが来なくなって、しばらく経った。
屋敷の食料庫は薄くなり始めている。塩はまだあるが、穀物が心もとない。テオドアが代替の仕入先を当たっているが、ダイダリーに出入りする商人はそもそも少ない。隣接都市アーロットからの正規の商人は通行の許可が出るまでに時間がかかる。ルカのように素早く門を行き来できる人間は他にいなかった。
ルカという人間がこの屋敷に食い込んでいた深さを、失ってから思い知っている。
「ロゼリア様。穀物は今の消費であと五日分です。油が四日。塩は十日」
テオドアの報告は冷静だった。数字で話す時の声が、一番落ち着く。ロゼリアも同じだ。数字は嘘をつかない。数字の話をしている間は、余計なことを考えずに済む。
「アーロットの商人への手配は」
「書状を出しましたが、返事はまだです。通行許可を取る必要がありますので、早くとも五日は」
「五日、ですか」
穀物が尽きるのと同じだ。綱渡りになる。
使用人たちは、何が起きたかをはっきりとは知らない。ロゼリアが説明していないし、誰も直接は訊いてこない。ただ、ルカが来なくなったことは分かっている。応接間にルカの声がしなくなったことも、ロゼリアの顔色が変わったことも。
ヒルダは何も訊かなかった。いつも通りに仕事をし、いつも通りにお茶を入れた。ただ、カップを置く手がいつもより少しだけ丁寧だった。
ギフティオは限られた食材で工夫を始めていた。穀物を節約するために豆を多く使い、香辛料で味を変える。「食材が減った時こそ料理人の腕の見せどころです」と笑ったが、その笑顔の奥に心配が透けていた。
「ルカさん、最近来ないですね。喧嘩でもしたんですか?」
カーラは何の気なしにそう言って、ヒルダに足を踏まれて黙る。ロゼリアは「商売の都合でしばらく来られないそうです」とだけ答えた。声は平坦だった。平坦にすることだけに、全ての力を使っていた。
それに加えて、常罪区のことも気にかかっている。ルカが物資を運ばなくなったということは、常罪区への物資の流れも止まっている可能性がある。ロゼリアが苦労して築いた供給の仕組みが、ルカ一人の不在で崩れかけている。
確かめに行かなければならない。だが常罪区に一人で入ることはできない。前にルカが案内してくれた裏道も、彼がいなければ使えない。正門から衛兵を通して入ることはできるが、中での安全は保証されない。
ならどうするか。その答えは出ないまま、時間だけが過ぎていた。
***
次の日の朝、屋敷の門が叩かれた。
テオドアが応対に出て、戻ってきた時の顔に、珍しく驚きが浮かんでいた。
「レイン先生がお見えです」
ロゼリアが玄関に出ると、テオドアの報告通りレインが立っていた。地味な外套に、表情のない顔。その手には診療鞄を提げている。往診の支度だった。
「レイン様。どうされましたか」
「……常罪区の住民の診察に行こうと思っています」
レインの声は静かだった。用件だけを述べる、この人らしい言い方。
「近頃体調を崩している住民が多い。放っておけば悪化する者も出る。……定期的な巡回診療を始めたいと考えています」
ロゼリアはレインの目を見た。レインはロゼリアの視線を受け、そのまま見つめ返す。表情のない顔の奥に、あの日——処方記録を広げた時に見えた震えの残滓がある。
「一人で行かれるのですか」
「医師の通行は衛兵も止めません。ですが、領主代行が同行してくださるのであれば、巡回の範囲を広げられます」
レインはそれだけ言って、黙りこんだ。同行を頼んでいるのか、提案しているのか、あるいはロゼリアが常罪区に行く口実を差し出しているのか。この人の言葉は、表面だけを掬っても意味が分からない。
でも今日、レインが診療鞄を提げてここに来た。それが全てだった。
「……ご一緒します。少し支度をさせてください」
レインが小さく頷いた。
***
常罪区の門で、衛兵が二人を確認した。
「領主代行と、医師のレイン先生か。……何の用だ」
「定期巡回診療です。住民の健康状態を確認します」
レインが答えると衛兵は面倒そうな顔をしたが、医師の通行を拒む理由はない。二人はそのまま門を通された。
常罪区に入ってすぐ、レインが口を開いた。
「ロゼリア様。一つ、お伝えしておくべきことがあります」
ロゼリアが振り向くと、レインは前を向いたまま話し始める。
「シグベルの教会から、定期的に患者が送られてきていました。常罪区の住民で、共通した症状がある。震え、倦怠感、摂取を止めた時の急激な体調悪化。……薬物への依存です。何を使っているかまでは特定できていませんが」
「ソルミナです」
ロゼリアが短く答える。レインの視線がちらりとロゼリアの方に向き、再び前へと戻った。
「常罪区に流通している刺激薬で、住民の労働を支えると同時に依存を生んでいます。供給元はクレイヴ。……この都市の裏側を動かしている人間です」
レインはしばらく黙り、それから小さく頷いた。
「……名前がついていましたか。症状から見て、急な断薬は危険です。段階的に減らす必要がある」
それだけ言って、レインは再び口を閉ざした。医師として必要な情報を受け取り、すぐに治療の方針に切り替える。この人はそういう人間だ。
二人並んで歩き、常罪区の通りに足を踏み入れる。まず感じたのは、空気の違いだった。
ルカと夜の常罪区を歩いた時とは違う。贖罪労働に向かう住民の列が通りを横切り、建物の影で休んでいる者がいる。それは以前と変わらない光景のはずだった。
だが、ロゼリアの姿を認めた住民の反応が変わっていた。
前に来た時は、遠巻きに見る目があった。好奇と警戒が半々の、値踏みするような視線。それでも、ヴェーダやエミルの周辺には「灯を返しに来てくれた領主代行」への好意があった。
今は、目が合わない。
ロゼリアが通りを歩くと、住民たちが視線を逸らした。一人、二人ではない。通りに面した作業場で手を動かしていた男が、ロゼリアを見て隣の男に何かを囁いた。その隣の男がロゼリアを一瞬だけ見て、すぐに目を伏せた。
敵意ではない。敵意の方がまだ分かりやすかった。これは——距離だ。ロゼリアに対して壁を作っている。
レインは何も言わなかった。隣を歩きながら、医師として住民の様子を観察している。
通りの先で、見知った顔を見つけた。エミルだ。仲間と何か話していたエミルが、ロゼリアの姿に気づいて立ち上がる。
「ロゼリア様」
エミルの声に、以前のような気安さがなかった。
「……来られたんですか」
「常罪区の状況を確認しに来ました。物資の供給は滞っていませんか?」
「物資は——」
エミルが言いよどんだ。仲間の方をちらりと見る。仲間たちはロゼリアを見ていたが、その目に温かさはない。
「正直に言います。物資は減っています。あの商人が来なくなって、正規の品が入らなくなった。ドルグの方が代わりに動き始めてる」
ロゼリアの胸が冷えた。ドルグが動いている。一度は退けたはずのドルグが、ルカの不在を埋める形で戻ってきている。
「ドルグが動いているということは——」
「ソルミナも戻ってきてます」
エミルが囁くように言った。周囲に聞かれたくないのだ。
「あの商人がいなくなって、正規の物資が止まって、住民は困っている。そこにドルグが来て『俺が面倒を見る』と言えば、断れない人間は出てくる。……ロゼリア様のおかげで離れかけていた人たちが、また戻り始めてます」
ロゼリアが作ったものが崩れている。一つ一つ積み上げた信頼と供給が、ルカ一人の不在で音を立てて瓦解している。
「……それだけじゃない」
エミルがさらに声を落とした。
「ロゼリア様。噂が回ってるんです。あの商人——ルカは、クレイヴの下にいた人間で、前の領主が死んだ件にも関わっていた、と」
ロゼリアの呼吸が止まった。
「誰が流したかは分かりません。いつの間にか、みんなが知っていた。……ロゼリア様、俺は信じたいと思ってます。でも住民の間では、あんたの目が節穴だったんじゃないかって声が出てる」
節穴。——ヴェーダが前に使った言葉の裏返し。「住民の目は節穴じゃない」と彼女は言った。今度はロゼリアの目が問われている。
「エミル。ヴェーダは」
「……ヴェーダのところに行くのは、今はやめた方がいいです。あの人は怒ってるわけじゃない。でも——」
エミルが言葉を探している。
「あんたが自分の隣に誰がいるかも分かってなかった、って。そういう空気が、広がってるんです」
ロゼリアは黙った。反論できなかった。事実だからだ。ルカの正体に気づけなかった。気づけなかったことは、領主代行としての能力の問題だ。
広がった静寂を破るように、レインが口を開く。
「ソルミナの影響で体調を崩している住民は?」
エミルが少し驚いた顔をしてレインを見た。政治の話をしている場に、医療の話が割り込んできた。しかし彼らに、医師の申し出を断る理由はない。
「……います。何人か。ここ数日で体調を崩した人が増えてる」
「案内を」
レインは簡潔だった。ロゼリアに目を向けることもせず、エミルの後について歩き出した。ロゼリアも後を追った。
エミルが案内したのは、常罪区の作業場に近い建物の一角だった。薄暗い部屋に、数人の住民が横になっている。顔色が悪い。手が震えている者もいた。
レインは鞄を開き、一人目の住民の脈を取った。目を見て、手のひらを確認し、呼吸の音を聞いた。淡々と、丁寧に。住民の男はレインの顔を見て、少しだけ緊張を解いた。医師に診てもらうという行為自体が、この場所では贅沢なのだ。
「薬物の離脱症状ですね。急に断つと体がついていかない。……水を多く飲ませてください。できれば塩も。三日ほどで峠を越えます」
レインが住民に指示を出し、次の患者に移る。ロゼリアはその背中を見ていた。
住民たちはレインには壁を作らなかった。医師に対する信頼は、領主代行に対する信頼とは別の場所にある。体が辛い時に診てくれる人間は、拒まれない。
レインが三人目の住民を診ている間、ロゼリアは部屋の隅に立っていた。何もできない。ここで自分にできることは何だろう。帳簿も正せない、物資も届けられない、住民の信頼も失いかけている。
横になっている住民の一人が、ロゼリアに気づいた。老いた女と目が合う。
「……あんたが、領主代行かい」
か細く、弱い声だった。
「ええ」
「飯を届けてくれた人だろう。塩と穀物。あれはありがたかった」
老女の声に悪意はない。ただ事実を述べているだけだ。それが最もロゼリアの心を抉る。
「でもあの商人がいなくなってから、また元に戻りそうだよ。ドルグの奴が戻ってきて、あいつの品を受け取らないと仕事がもらえない、って……」
老女の手が震えていた。レインが言っていた離脱症状だろう。体が薬を求めている。
「……なんとかしてくれるのかい」
老女がロゼリアを見上げた。その目には期待も非難もなかった。ただ、問いだけがあった。
ロゼリアは老女の冷え切った手を取った。
「なんとかします」
気が付けばそう口に出していた。自分でも驚くほど静かな、だが確かな声だった。根拠はない。ルカを失い、物資が途絶え、住民の信頼は揺らいでいる。ドルグが戻り、クレイヴの影が伸びている。なんとかする方法は、まだ見えていない。
でも、この手を離すわけにはいかなかった。
***
帰り道、レインと並んで歩いた。
夕刻が近い。常罪区の門を出て、外縁区の通りに戻ると、空気が少しだけ軽くなった。あの重い場所から離れた安堵と、離れてしまったことへの後ろめたさが入り混じっている。
レインは診察の間、一度もロゼリアに声をかけなかった。政治の話にも、ルカの話にも触れない。ただ医師として住民を診て、処方を出し、指示を残した。
屋敷が見えてきた頃、レインがポツリと言った。
「ルーディック様の時は、私は何もできませんでした」
前を向いたまま、歩きながら話を続ける。
「処方が利用されていることに気づけなかった。遺体を診ても、不自然さに気づけなかった。……医師としての怠慢です」
ロゼリアはレインの横顔を見た。表情のない顔。だがその声には、あの診療所で処方記録を広げた時と同じ震えがかすかにあった。
「今度は、そうはしたくない」
レインはそれだけ言って、口を閉じた。同行の理由を、これ以上の言葉にする気はないらしい。
ロゼリアも多くは訊かなかった。ルーディックの死に対する責任を、レインは自分なりに引き受けようとしている。その方法が、常罪区の住民を診ることだった。
「レイン様。今後も、巡回診療を続けてくださいますか?」
「そのつもりです」
「……ありがとうございます」
レインが小さく頷く。そのやり取りだけで十分だった。
屋敷の門をくぐると、テオドアが玄関で待っていた。ロゼリアの顔を見て、何かを察したのだろう。訊いたのは一つだけだ。
「常罪区の状況は?」
「良くありません」
ロゼリアは執務室に入り、椅子に座った。テオドアが続く。
「物資ルートが止まり、ドルグが戻ってきています。住民の間で、私への不信も広がっている」
事実を並べているだけ。帳簿を読み上げるのと同じだ。心は揺れていない、傷付いていない。ロゼリアはそう言い聞かせながら説明を続ける。
「ルカのことが知られています。クレイヴの下にいる人間で、ルーディック様の死に関わっていた、と。誰かが話を流した」
テオドアの眼鏡の奥の目が、わずかに細くなった。
「……情報戦ですか」
「ええ。しかも嘘は一つもありません。全部事実だから、否定できない」
テオドアは沈黙で答えた。帳簿を操る人間は、数字で嘘をつくことの巧みさを知っている。だが事実だけで人を追い詰める手口は、帳簿の操作より質が悪い。
「ロゼリア様。まずは物資です。物資が止まっている限り、信頼の回復は難しい。住民にとっては明日の塩の方が、政治的な信頼よりも先に来ます」
「分かっています」
分かっている。だが方法がない。ルカなしでこの都市に物資を入れるルートを、今から作らなければならない。
ロゼリアは窓の外を見た。外縁区の夕暮れ。いつもと変わらない景色。でもその向こうに常罪区があり、ドルグが動いていて、クレイヴの影がある。
しかし今日、レインがここに来た。一人の医師が鞄を提げて、黙って隣を歩いてくれた。
失ったものは大きい。ルカがいないことの穴は、まだ塞がらない。常罪区の信頼は揺らいでいて、取り戻せるかも分からない。
でもロゼリアは、あの老女の手を取った時に言った言葉を忘れない。なんとかする、と言った。根拠はなかった。でも言った。
それを嘘にしてはいけない。
ロゼリアは窓から目を戻し、テオドアに向き直った。
「テオドア。アーロットの商人への書状をもう一通出してください。条件を上げます。この都市に物を運ぶ商人が、ルカだけである必要はない」
テオドアが頷いた。
「明日も常罪区に行きます。レイン様と一緒に。……一日で取り戻せるとは思っていません。でも、行き続けます」
テオドアが眼鏡を外し、布で拭いた。眼鏡をかけ直した時、その目に浮かんでいたのは心配でも同情でもなく、静かな信頼だった。
「……承知しました。商人への書状は今夜のうちに」
屋敷の灯りがともり始めている。厨房からギフティオの包丁の音が聞こえる。限られた食材で、それでも明日の朝食を作っている。
この屋敷にはまだ、灯がある。小さく、揺れているが、消えてはいないのだ。
本日より第四章開始です。厳しい状況でも希望がある話になりますので、お付き合いくださると嬉しいです。




